日本の朝鮮統治1



1897 年、ソウル南大門

日本統治中のソウル南大門

1. 日韓併合前の朝鮮
2. 日韓併合後の朝鮮



日韓併合前の朝鮮(写真と証言)



1.写真で見るソウルの繁華街


1880 年代のソウル 南大門大通り(中心街)
パリ外邦伝教会・宣教師・ダレ著書より
『朝鮮事情 朝鮮教会史』 1874 年

貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。
2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです。

ソウル通り
1893、ソウル南大門大通り
1897年ソウル南大門大通り




2.当時の朝鮮を証言する外国人


「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897 年
(時岡敬子訳 1998 年 講談社学術文庫)
イザベラ・バード

(1831/10/15~1904/10/7)
世界的に有名な旅行家。23~72歳まで、通算30年に渡って世界各地を旅行する。

北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
(中略)
道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、ならしてない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7 月はじめの雨で流されてしまう。そして10 月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえにまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に丸石をばらまいたもの以外のなにものでもなく、最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦(ソウルの外港)間のように、ぬかるみの深さが1 フィートから3 フィートにおよぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつである。
(中略)
道路が広くなると、その中央には固まった泥の山がつづき、両側には同じく固まった泥がうねになっている。道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。橋はとりわけ劣悪である。あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、どの川もじかに渡ったほどである。それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所がすべて悪路だったにもかかわらず、東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。





元京城控訴院判事 山口真昌氏の1908年6月の証言
『朝鮮における司法制度の近代化の足跡』 友邦協会編

道路は非常に狭く、しかも糞尿は至るところ道ばたに落ちているという有様でした。井戸水は混濁していて、風呂に入れば茶色の湯で、かえって身体が汚れるような感じで、飲料水は石油の空き缶一杯で何銭(当時のお金の単位)で買ってきて使用すると言う状態で(要するに飲料水は買わなければならなかったと言うこと)、電灯は未だ一般の家庭には普及しておらず、私たちが当時借家としていた家にはその設備(電灯)が無いためランプを使用しておりましたが、冬になると寒気が激しく、石油が凍って段々と光りが薄暗くなり、仕事が出来ないほどでありました。



平壌普通門

左の写真では、女性が川で洗濯をしている。



3.写真で見る朝鮮の民衆


ソウルの男性 男児を生んだ女性(胸出しはその証)
家でタバコをふかす老人



4.貴族の横暴


パリ外邦伝教会・ダブリィ主教の証言
『朝鮮事情 朝鮮教会史』 1874 年
ボロ服をまとった両班(貴族)

朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている。両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。
その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。
両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。
なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつて、ないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。

棒による鞭打ち




5.朝鮮の監獄と拷問


粗悪な朝鮮の牢獄
首枷を付けられた囚人たち
おぞましい拷問道具
日本統治中も、囚人の監督は朝鮮人巡査や朝鮮人憲兵が勤めた。
彼らは、伝統的な拷問を繰り返し、反日感情を増長させる原因を作り続けた。


参考)今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3 年)


F・A・マッケンジー著書
渡辺学訳『朝鮮の悲劇』 平凡社東洋文庫 1973年

カナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者。
1904年と1906年の2回韓国を訪れ、1908 年に『朝鮮の悲劇』を出版。


明治三九年夏、二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは一八人の男と一人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。
彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は六年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。

次の監獄、宣川(平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている三人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。
ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。一人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの一人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。




足を脱臼させる拷問



6.清国の属国だった朝鮮


迎恩門

清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門。
ここで朝鮮王は、
九叩三拝(頭を9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏)し、清の使者を迎えた。

「大清国の属国高麗国旗」と記された太極旗

1637 年、朝鮮は清国に降伏。
清の太宗は、朝鮮王朝が「九叩三拝」を忘れないよう、モンゴル語、満州語、漢語の碑文を作って建てさせた。


日韓併合後の朝鮮(写真とデータ)



1.朝鮮の清国からの独立


1853 年、軍事力を背景とした米国の要請により、日本は開国する。
北には南下を狙うロシア。東には極東進出を目論むアメリカ。西には混迷を始
めた清国。南には白人に植民地化され尽くした東南アジア諸国。
最悪の国際情勢の中で、日本は生き残る為、自存自衛の道を歩み始める。

1868 日本に新政府樹立。朝鮮に国書を送る。朝鮮は、日本の天皇が、清国の皇帝と同列の称号(「皇」の字)を使用している事を理由に、受け取りを拒否。

注釈)当時は、「中華秩序」という国家単位のヒエラルキー思想があった。朝鮮は、清国を№1国、自国を№2国、日本を№3国と考えていた。だが、日本は、この思想の存在を知らなかった。
1873 朝鮮の日本蔑視に激怒し「征韓論」が起きるも、閣議で敗れる。
1875 江華島事件がおこり、日朝が初の交戦。
注釈)日本側の死者2名、朝鮮側の死者35名
1876 日朝修好条規が締結。朝鮮開国。
1882 守旧派のクーデター(壬午軍乱)が発生。 清国の介入が始まる
1884 開化派のクーデター(甲申政変)が発生。
1885 漢城条約・天津条約締結。(日清、共に朝鮮から撤退)
イギリスが巨文島占領。朝露秘密協定が発覚。
1894 東学党の乱(甲午農民戦争)発生。日本と清国が介入し、遂には、日清戦争へ。
1895 日本が勝利。下関条約締結。清国に、朝鮮の独立を認めさせる。
1896 高宗国王が宮殿を捨てロシア公使館に移り住む。
1897 朝鮮、国号を「大韓帝国」と改める。
「迎恩門」が破壊された後に立てられた独立門




2.日韓併合


1900 清国で義和団事件発生。ロシアが満州に進出
1904 日露戦争。日韓議定書・第一次日韓協約締結
1905 日露講和条約・第二次日韓協約(日韓保護条約)締結
1907 ハーグ密使事件の責任をとり高宗皇帝退位。第三次日韓協約締結
1909 伊藤博文(朝鮮統監府初代統監)が、朝鮮人に暗殺される
1910 韓国併合
1909年 12月4日
「韓日合邦を要求する声明書」
一進会(百万の朝鮮人会員)

日本は日清戦争で韓国を独立させてくれた。日露戦争でロシアに食べられる寸前の韓国を救ってくれた。それなのに韓国はこれを感謝しなかった。あの国に着き、この国に着き・・・結局は外交権を奪われる事になった。しかし、これは我々が自ら招いた事態である。丁未条約(第三次日韓協約)を締結する事になったのも、やはりハーグ事件を起こした我々に責任がある。 
伊藤博文が韓国の国民を見守ってくれ、皇太子を導いて韓国の為に尽くしてくれた事は忘れられない。
それなのに暗殺事件が起こってしまった。今後、どんな危険が到来するのかわからない。これもまた韓国人が自ら招いた事態である。
(中略)
だから劣等国民として保護されるよりも、日本と合邦し大帝国を作ろう。
世界の1等国民として日本人と全く同じ待遇を受けながら暮らしてみよう。



ハーグ密使事件)大韓帝国が、ハーグ平和会議に韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、国際社会から完全に拒絶された事件
進会が南大門前に立てた奉迎門




3.日本統治下のインフラ整備(見違える南大門通り)


整頓されて行く南大門通り
電線と街灯が完備される
日韓併合から26年目のソウル南大門通り
(1936 年)
左は商業銀行。
右は化粧品会社の看板。
右端は、麒麟麦酒の看板。
真ん中の南大門通りは、市電が複線になっている。

新興工業都市、興南。朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの工場が進出。
1942 年撮影。
世界最大級の水力発電所、水豊ダム。
1937 年に着工。41 年始動。44 年完成。
当時出力世界二位のダムで朝鮮及び満州の電力をまかなった。


朝鮮年間総発電量 アメリカの巨大発電所TVA(ニューディール政策の目玉だったテネシー川開発)年間発電量と比較
終戦時完成分 114 億KWH
工事中だった分 70 億KWH
水力 122 億KWH
火力 43 億KWH
陸軍工廠 14 億KWH
アメリカンアルミ 18 億KWH
平壌の町並み

もはや、貧しかった朝鮮の姿はどこにもない。



1937 年ソウル丁字デパート
崔基鎬教授の指摘
平成16年12月号 漁火(いさりび)」新聞6・7面

1904(明治37)年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎(1853~1926 年)を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として立て直すという態勢がようやく緒につくことになります。

目賀田財政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を実施したほか、直接支出で援助しました。
例えば1907 年度、朝鮮の国家歳入は748 万円しかなく、必要な歳出は3000 万円以上ありましたから、その差額は全額日本が負担しています。
1908 年には、これがさらに増えて、合計3100 万円という巨額の資金を日本は支出しています。総監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にものぼっています。そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000 万円に達しています。


1940 年、ソウル朝鮮ホテル(左端の女性は舞踏家・崔承喜)

人口変移
「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
年次 年末常住人口・(注)1944年は5月
1910(日韓併合年) 1312万8780人  (注)初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人 (この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた)

米の生産量の変移(消費量は常に安定)
生産高 移出高 朝鮮での総消費量 人口一人当り消費高(石)
1912-16年平均 1230.3 105.6 1111.4 0.7188
1917-21年平均 1410.1 219.6 1170.9 0.686
1922-26年平均 1450.1 434.2 1061.3 0.5871
1927-31年平均 1579.8 660.7 966.9 0.4964
1932-36年平均 1700.2 875.7 845 0.4017
1937年 1941 716.1 1257.9 0.5679
1938年 2679.6 1070.2 1578.3 0.7031
1939年 2413.8 605.1 1764.6 0.7761
1940年 1435.5 42.9 1398.2 0.6108
1941年 2152.7 368.1 1751.4 0.7285
1942年 2488.5 564.4 1912.3 0.7571
1943年 1568.7 0 1652.7 0.6246
(単位万石) (単位 石)
*大蔵省管理局「日本の海外活動に関する歴史的調査」通巻第十一冊/朝鮮篇第十分冊、33~40頁


その他
耕地面積 1911年度 246万町歩 → 1932年度 449万町歩
水田面積 1910年度 84万町歩 → 1928年度 162万町歩
植林 30年間で5億9000万本を植林
平均寿命 1910年度 24歳 → 1942年度 45歳
*基本資料は、朝鮮総督府統計年報。しかし、資料によっては若干の誤差あり。
(日本の統治期間は、1910~1945 年)


歪曲される日本のインフラストラクチャー

日本が行ったインフラ工事の多くは、歪曲の憂き目にあっている。
“3.日本統治下のインフラ整備”の水豊ダム建設に関しても、中国側が「満州人が労働者として拉致された」「労働者は病気になっても放置された」と宣伝し、病死者だけでも5000人と主張している。
しかし、1937~1941年に掛けての、工事の犠牲者数は178人であり、

出典)「殉職者慰霊祭 『西松組社報』1941年8月号」
1937~1944年までの総犠牲者数は、約300人に過ぎない。
出典)日本窒素肥料株式会社調査部編「水豊堰堤工事誌」1949年 日本工営株式会社所蔵

現在の中国の炭鉱事故では、死者数は年間1000人を越えており、一度に100人以上死亡する事も珍しくない。
注釈)「大紀元12月17日」『2005年中国炭鉱業における事故被害者の記録』の記事では、2005年度の死者数は、報道されただけでも1066人以上。遼寧省阜新市だけでも一度に213人が死亡したという。
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/12/html/d49817.html

一方、水豊ダムは、世界最大の規模であり、当時の貧弱な設備では危険性は現在の炭鉱以上である。にも関わらず、工事期間七年間の死者数は300人に過ぎず、現在の中国の炭鉱よりもはるかに人命が尊重されていた事は明らかである。


万人坑の存在

中国側は、日本は負傷者や病気になった労働者を「万人坑」と呼ばれる穴に無残に遺棄したと主張し、その「万人坑」跡に記念館を建て、白骨死体を展示し、証言者まで用意している。
しかし、以下の事実から見て、これは中国側の創作である。

①日本は「台湾」「朝鮮」にも炭鉱を持ち、日本国内の炭鉱にも満州人や朝鮮人を雇用していたが、「万人坑」は中国にしか存在しない。
②「万人坑」の存在を証明する一次資料はなく、終戦と同時に、全ての炭鉱や工場から資料が隠滅されたとは考えがたい。
③日本の戦犯を裁いた東京裁判では、「万人坑」の話は登場していない。
④現代史家・田辺敏雄が、元炭鉱職員約300人、元炭鉱職員で構成される東京撫順会・会員約1000人にアンケートを取ったが、全員が否定している。
⑤日本には、死者は敵味方を問わず弔う習慣がある。近代以降は、罪人の死体も大切にされるようになった。中国人であろうと、その死体を無残に遺棄するなど、日本の習慣上、有り得ない。

一例)13世紀、蒙古が日本を侵略した。戦後、日本側は蒙古兵の戦死者の為に墓を立て、霊を弔う為に寺院(円覚寺)まで建てている。



蒙古塚 円覚寺
*展示されている白骨死体は、文化大革命時に中国共産党に殺された人々であ
る可能性が高い。




4.朝鮮語の普及


日本統治下で使用されていた朝鮮語の教科書
「韓国 堕落の2000 年史」 崔基鎬(加耶大学客員教授) 平成13 年 詳伝社

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。
韓日併合の翌年の1 9 1 1 年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。
当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。もっとも、昭和10年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。



併合時の学校数 わずか173校 (科目は漢文のみ)
終戦時の学校数 小学校5213校 生徒数2389135人 就学率61%
1924年 京城帝国大学設立。(現・ソウル大学)
併合からわずか14年目に、日本は朝鮮に大学を設立している。日本初の大学・東京帝国大学(1877年設立)から数えて六番目の設立である。





5.朝鮮語に対するQ&A


Q1.日本がハングルを普及させたというのは嘘。以前からハングルは使用されていた。

A2.厳密にいうと、ハングルではなく、「朝鮮語」を作成・普及させたのである。
日本統治以前の朝鮮半島では、書き言葉には、漢文とハングルが用いられた。が、ハングルには
正書法(文字を用いた文章の書き方や決まり。統一された文法)がなく、その使用法は不統一であった。そして、話し言葉に至っては、標準語がなかった。

総督府は、1911年の第一次教育令において、朝鮮半島で朝鮮語を必修科目と定めた。
しかし、
標準語がなければ、教本は地域ごとに方言で書かざる得なくなってしまう(例えるなら、大阪の学校では大阪弁の教科書を用い、東北の学校では東北弁の教科書を用いるようなものだ。これでは、義務教育を受けても大阪人と東北人は意思の疎通を取る事ができない)
また、正書法がなければ、朝鮮語は母音21字、子音19字のハングルを暗記するだけの授業になってしまい、科目として成り立たない。

そこで、朝鮮総督府は委員会を設けると、1911年(明治44年)7月28日から11月にかけて5回の会議を行い、
ソウル方言の中流階級の言葉を標準語に指定し、書き言葉と話し言葉を一致させ(言文一致体)、韓国固有の漢語・日韓共通の漢語・和製漢語を取り入れ、ハングルの正書法を定めて、「普通学校用諺文綴字法」を完成させた。
1912年には、それを教科書として採用し、さらにその後も正書法の整理と研究を続け、1928年から30年に掛けて第一次、第二次調査会を設け、新正書法「諺文綴字法」を完成させた。
これが「朝鮮語」の始まりである。


Q2.「諺文綴字法」は朝鮮総督府が作成した訳ではなく、支配者だった為に版元が総督府になっただけという指摘もあるが?

A2.幼稚な暴論。その理屈だと、現在発行されている日本の教科書は全て、日本政府が版元ということになるが?

そもそも朝鮮総督府が「朝鮮語」を必修科目と定めたからこそ、同時に「朝鮮語」の作成が必要となり、委員会が設けられた訳だが?
「普通学校用諺文綴字法」を作成した委員会の構成員には、姜華錫・魚允迪・兪吉濬・玄櫽ら朝鮮人のみならず、朝鮮語研究者の高橋亨の他、通訳官である国分象太郎、塩川一太郎、新庄順貞ら(いずれも総督府の官吏)日本人が名を連ねていた訳だが?

1930年に「諺文綴字法」を完成させた第二次調査会のメンバーも、李世楨(進明女子高等学校教師)、権悳奎(中央高等学校教師)、鄭烈模(中等高等学校教師)、崔鉉培(延禧專門学校教授)、申明均(朝鮮教育協会理事)、沈宜麟(慶尚師範学校)、朝鮮日報の文化部長・張志暎、毎日新報社の編集局長キム・サンヒら朝鮮人のみならず、当時の朝鮮語研究の第一人者である小倉進平(京城帝国大学教授)を初め、前述の高橋亨(京城帝国大学教授)ら日本人学者の他、総督府の官吏である西村眞太郞、田中徳太郎、藤波義貫ら(いずれも通訳官)が名を連ねている訳だが?


3.朝鮮人に対して、「日本語」を国語として教育したのは、朝鮮人に対する圧政ではないか?

A3.国語とは、国内で共通語として用いられる言語の事である。
当時の朝鮮半島は日本国の一部であった以上、共通語である「日本語」が国語になるのは当然だが?

それに、
そもそも「日本語」は、共通語として使う為に作成された言語である。

明治以前の日本には標準語がなく、一部の階層の間で武家言葉と公家言葉が共通語として用いられるのみだった。
言文一致体もなく、書き言葉と話し言葉には大きな隔たりがあった。
その為、明治初期に政府の中枢を担った薩長出身者は、地元(東京)の人々と言葉が通じないという問題に悩まされた。
(最後の将軍・徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」でも、「薩摩出身者と会話をした際、何を言っているのか分からず、返答のしようがなくて困った」とある)

この問題を解決する為に、東京の教養層が使用する山の手言葉を基準に整頓し、書き言葉と話し言葉を一致させ(言文一致)、学校教育を通して共通語として普及させた言語が「日本語」なのである。


Q4.「朝鮮語」の授業は、国語(日本語)の授業と比較すると、はるかに授業時間が短かった。これは朝鮮語を差別していた証拠ではないのか?

A4.右に上げた東亜日報1937年11月25日の記事の画像を見れば、日本と朝鮮の漢字には同字同義語が非常に多い事が分かる。
(同じ古代中国語由来の漢字を用い、また、朝鮮語作成に当たって和製漢語が大量に採用された為)
同字同義語は国語の授業で習得できる為、
重複する部分を省けば、朝鮮語の授業量が少なくなるのは当然である。

それとも、文字を覚えるだけなら、母音21字・子音19字を覚えるだけで済むハングルと、読みが一つしかない漢字(朝鮮では、訓読みはなく、音読みも一つのみ)を習得する為には、日本語(平仮名、片仮名、漢字(音読み、訓読み、当て字))を習得するのと同じだけの授業時間が必要なのか?

(ちなみに、1962年に韓国の国宝第70号に指定された『訓民正音解例本』の序文には、ハングルについて「賢い者は朝の間に、愚かな者だとしても十日なら十分に学んで習うことができる」と書かれている)

そもそも、初めから朝鮮の言語を軽視していたのならば、標準語や正書法を作ったりせずに「ハングルは、正書法がないから使いものにならない」「標準語がないから、科目として成り立たない」という理由で無視しても良かった訳だが?

Q5.1938年の第三次朝鮮教育令においては、朝鮮語が必修科目から外され、国語(日本語)常用運動が強力に推進されるようになった。地域によっては日本語常用家庭と朝鮮常用家庭とでは配給で差別されたり、学校で朝鮮語を使用すれば「罰札」を掛けさせられたりといった罰則もあった。これは日本が朝鮮語を迫害していた証拠ではないか?

A5.朝鮮総督府は、「朝鮮語廃止令」を出してはいない。朝鮮語を話したという理由で、刑事罰を与える刑法もない。

第二次大戦への様相を高めるに連れ、1938年を前後に、内地(現在の日本)と外地(日本統治下にあった台湾・朝鮮・関東州・南洋諸島)の団結が求められるようになった。
それら外地と内地の共通語(日本語)の普及に、朝鮮総督府が心血を注いでいた事は、事実である。
これが一部で過剰解釈され、地域によっては、朝鮮語への迫害に近い政策が行われた。
しかし、1938年、元独立運動家である朴煕道が、当時の総督であった南次郎に朝鮮語の廃止を訴えた際、南総督は、

「朝鮮語を廃止することはよくない。可及的に国語を普及するのはいいが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいであるから、それは出来ない相談である」(出典 林鍾国『親日派』 御茶ノ水書房 一九八九年)
と逆に拒否している。

これと似た現象が、日本の宗教界で起きている。
明治以前の日本では、神道と仏教は一体化(神仏習合)しており、多くの神社は別当寺(神宮寺)と呼ばれる寺の管理下にあった。
しかし、1870年に神仏分離令が政府によって公布されると、国学者(特に平田派)らの扇動によって、一部の知事の間で、仏教の廃絶政策と誤解され、地域によっては多くの寺院が破壊されてしまった。
いわゆる「廃仏毀釈」だが、これは政府が命じたのではなく、一部の人々による過剰解釈によって起きた現象である。


国語常用運動が過激化し、南総督の意に反して、一部では迫害に近い政策が取られてしまったが、朴煕道の例のように、それらは朝鮮人自身の手によっても行われていたのである。


Q6.朝鮮人が朝鮮語を迫害するなどありえるのか?

Q6.中国では、文豪・魯迅は「漢字が滅びなければ中国が滅びる」唱え、新文化運動を行った知識人らは漢字廃止を訴えている。
日本では、
初代文部大臣の森有礼が日本語を廃止して英語を用いる事を唱え、文豪の志賀直哉は日本語を廃止してフランス語を用いることを提案している。
いずれも、難解な文字を使っていては国の発展の妨げになるという愛国心から生じた論理・運動だ。
愛国心から母国語の廃止を訴える事例は珍しいことではない。

それに、朝鮮語は朝鮮半島の伝統的な言語ではなく、日本統治時代に作成されたものであり、当時、面長(村長に相当。朝鮮人が勤めるのが普通)や総督府の高官に上り詰めていた年配の朝鮮人には、馴染みのないものである。

1912年から普及が始まった朝鮮語を完全に使用できたのは、日本統治下で教育を受けた世代だけであり、
日本統治下で教育を受けなかった年配世代が使用できたのは、正書法がない時代のハングルと漢文、話し言葉として使えたのは方言だ。

自身には馴染みがなく、特定の世代にしか使いこなせず、朝鮮半島内でしか通用しない言語よりも、内地外地で普及し続ける共通語の方を奨励する朝鮮人がいても何ら不思議ではないが?








6.独立運動の実態


1919 年3 月1 日、朝鮮で全国規模の独立運動(3.1 独立運動)が発生する。
Q1.独立運動は、日本の圧政が原因で起きた。

A2.アメリカ大統領・ウィルソンが、第一次世界大戦の講和会議で唱えた「民族自決思想」に触発された事が原因。
圧政が原因だったのなら、なぜ、第二、第三の独立運動が起きなかったのか?
なぜ、独立宣言の起草者・李光洙は、日本統治を支持する「民族改造論」を唱えるようになったのか?


Q2.この鎮圧戦で、日本は7509人も殺した。

A2.それは朴殷植が、『朝鮮独立運動の血史』で広めた嘘。総督府の正式な記録では、死者数は553人。


3.日本は、独立運動を武力鎮圧した。野蛮だった証拠だ。

A3.「運動」も規模が大きくなれば「暴徒」に変わる。3.1独立運動の時も、暴徒と化した民衆によって、警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺が行われた。これを鎮圧する為に日本は武力を用いた。
参考)「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画

なお、ロシアの二月革命(1917年)の時も、デモ隊が暴徒化した。この時、ロシア帝国は軍隊を使い、2月26日に“一度に200人”の民衆を殺している。


Q4.日本は鎮圧戦で数百人も殺している。残酷だった証拠だ。

A4.1960年の李承晩退陣要求デモの時は、韓国政府はデモを武力鎮圧し、死者183人・負傷者6000人以上出している。
1980年に光州で起きたデモも、韓国政府は武力鎮圧し、“一日に”死者189人・負傷者380人出している。(全体では死者数2000人以上)
一方、日本が武力鎮圧した3.1独立運動は、朝鮮半島全土に及ぶ一大暴動だったにも関わらず、一ヶ月近くの間で死者は553人に過ぎない。

Q5.日本は、このデモで五万人を政治犯収容所に投獄した。

A5.政治犯収容所ではなく、単なる刑務所。この時の収監数は、総督府の記録では、1919年5月10日の時点で、8437名。
出典)「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店

Q6.日本は投獄した人々を拷問に掛け、大勢殺した。

Q6.囚人を虐待したのは朝鮮人憲兵と朝鮮人巡査。逆に日本側は、彼らの横暴を取り締まっていた。
参考)前述の“5.朝鮮の監獄と拷問”。『日本の朝鮮統治2』の「日本の権威を悪用した朝鮮人」の“2.反日感情の原因を作り続けた朝鮮人”。

(同じ日本統治下にあった台湾では、政治犯虐待事件は起きていない)
また、投獄された者で死刑判決を受けた者はいない。最高刑でも、主犯格とされた孫秉煕、崔麟等八人が懲役三年。独立宣言の起草者・李光洙ですら懲役二年半に過ぎない。






7.植民地近代化論を唱えだしたコリアたち


ソウル大学経済学科教授 李栄薫
Q.日帝植民地時代のイメージを修正するようになった個人的動機は。

A.1990年に、日帝の土地調査事業共同研究に取り掛かった。全国を回って土地台帳など現資料を収集した。
慶南金海地域には大量の現資料が残っていた。
資料を見て、教科書とはあまりに違う内容にびっくりし驚いた。

土地申告をするようにして粗暴な農民たちの未申告地をでたらめに奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。
農民たちも、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%位が未申告地で残った。
あの時、

私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った。

韓国日報 2004年4月22日より
YTN(韓国のニュース専用テレビ局)のインタビューでの発言
李教授「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ

朝鮮日報 2004/11/20より
韓国人評論家・作家 金完燮
「日韓併合」を全面肯定した「親日派のための弁明」の著者。
「独立運動家は、唯のテロリストに過ぎなかった」
「独立軍と称して日本と戦っていたのは、英雄ではなく、唯の山賊の類だった」等の発言を繰り返したが為に、その子孫から告訴まで受けている。

「韓国政府は長い間、国民を騙して歴史を捏造し、善良な日本人をまるで強盗だったように罵倒した」

2005年3月16日NAVERニュースでの発言




8.韓国の歴史教育の実態


2005年、韓国の地下鉄に展示されていた、韓国の中学生(桂陽中学)が描いた絵の一部。
これ一つ見ても、韓国人が日本統治をどのように教えられているか良く分かる。
AoG.2y.net
http://aog.2y.net/forums/index.php?showtopic=1550


日韓併合の真実を知る為の推奨図書
「日本帝国の申し子」 カーター・J・エッカート著 草思社 2004/01
「親日派のための弁明」 金 完燮著 扶桑社 2004/11
「日韓共鳴二千年史」 名越ニ荒之助 明成社 2002/05
(★ヨゼフ・ロゲンドルフ賞受賞)
「「植民地朝鮮」研究」 杉本幹夫 展転社 2002/6
「歪められた朝鮮総督府」 黄 文雄著 光文社 1998/08
日韓併合の真実を知る為の推奨サイト
日韓関係の近代史
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/
その他
http://resistance333.web.fc2.com/isoroku/ruling.htm
http://resistance333.web.fc2.com/isoroku/hangul.htm
http://resistance333.web.fc2.com/isoroku/woman.htm



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