日本の朝鮮統治2

戦時下のコリアの振る舞いと、終戦直後の裏切り行為


師団長の前線視察( 日本陸軍中将・李王垠殿下)


1. 日本軍の朝鮮将兵たち
2. 日本の権威を悪用した朝鮮人
3. 日本を裏切った朝鮮人たち


日本軍の朝鮮将兵たち



1. 日本軍の朝鮮人中将


日韓併合以前から、日本の士官学校には朝鮮人の入学が認められていた。
多くの朝鮮人が日本の士官学校を卒業し、日本軍の将校として活躍した。


李王垠

(1897/10/20〜1970/05/01)

李氏朝鮮最後の王位継承者。
1910 年、日韓併合に伴い、日本の皇族に準ずる待遇を受ける。
1920 年、日本の皇族の梨本宮方子女王と結婚。
1926 年、李王を継承。

1907 年、日本の陸軍士官学校(第29 期)を卒業
1935 年、陸軍歩兵大佐に昇進。宇都宮の歩兵第59 連隊長
軍務を重ね、1940 年には留守第4 師団長・陸軍中将に昇進
1945 年、軍事参議官に昇進し、終戦を迎える。
1947 年5 月3 日、王公族制度廃止により李王の資格を失う。
1963 年、日韓国交正常化交渉が始まると、韓国国籍を回復して帰国。
1970 年、73 歳で死去。



洪思翊

(1889〜1946/9/26)

朝鮮出身の日本陸軍中将

1914 年、陸軍士官学校(26 期)卒
1923 年11 月、陸軍大学校(35 期)卒
1939 年9 月28 日、支那派遣軍御用掛
1940 年8 月1 日、留守第一師団付
1941 年3 月1 日、陸軍少将・第108 旅団長に昇進
「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮を執る。異議のあるものは申し出よ」
1944 年3 月2 日、比島俘虜収容所長に就任。10 月26 日、陸軍中将に昇進。12月30 日、第14 方面軍兵站監に就任。
戦後、連合軍から収容所長時代の責任を問われる。
1946 年9 月26 日、マニラで死去(法務死)






2.日本軍に志願した朝鮮人


1937 年、日中戦争が勃発すると、試験的に朝鮮人の志願兵の募集が行われた。
朝鮮人に“徴兵制”が適用されたのは終戦直後の1944年である。

驚くべき志願率の高さ
朝鮮人志願兵の志願率(昭和20年5月の内務省資料)
年代 募集人員 志願者数 倍率
1938年 406 2946 7.3
1939年 613 12528 20.4
1940年 3060 84443 28
1941年 3208 144743 45.1
1942年 4077 254273 62.4
1943年 6300 303294 48.1
国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)

レファレンスコード:B20020312847 (志願率に関しては17画像目)

大漢門前に集結する朝鮮人志願兵



3.写真でみる朝鮮人志願兵の演習


第一回の朝鮮人志願兵の手による市街攻防戦の演習
3 月10 日
撮影 西村眞夫
ソウル鐘路通にて
鄭勲少佐統監の朝鮮軍精鋭の活躍
アサヒグラフ
昭和14 年
3 月29 日号

ソウル鐘路通 朝鮮銀行前の実況 3 月10 日 梅村次男 撮影



4.積極的に戦争に協力していた朝鮮人たち


「朝鮮人は、日本人以上に大戦を熱狂していた」と証言する教授

崔基鎬(チェ・ケイホ)氏
1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授

最近韓国では、親日派という言葉をつかって政敵を糾弾する動きがあります。しかし、そもそもおかしいのは親日派という言葉です。
戦前から東京にいた私は、年に1〜2 回はソウルとか当時の平壌に行きました。

その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。
劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
私は劇場が好きで、
日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。
それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。だから基本的に親日派という言葉はないのです。それを無理やり「親日派」という言葉のレッテルを貼って糾弾する。それが今の韓国で、政治的にやられていることです。

平成16年12月号 漁火(いさりび)」新聞6・7面


見学の女生徒による、朝鮮人将士への感謝の黙祷
昭和14 年3 月10 日
撮影 西村眞夫
アサヒグラフ
昭和14 年3 月29 日号


日本人と共に戦った朝鮮人
国際派日本人養成講座  190「お家の事情」の歴史観  伊勢雅臣編集長
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm

なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?
一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。
もう一つは、
韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満州国軍中尉だった。
こうした人々の活躍に刺激されて、
昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。
一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。






日本の権威を悪用した朝鮮人


1.日本人になろうとした朝鮮人


日本風の名前を名乗り、日本の権威を乱用し始めた朝鮮人
朝鮮人が日本名を名乗るに至った経緯
1870 日本国民に対し、「平民苗字許容令」が公布される。
(それまで日本では、武士や貴族しか「family name」を持っていなかった)
1875年 日本の全国民データを把握する為、全国民に苗字の公称が義務づけられる。
(これ以降、全ての日本人が「family name」を持つようになる)
1910年
日韓併合
朝鮮の国民データを把握する為、総督府が、それまで朝鮮には無かった民籍(戸籍)の整備を始める。この際、大量の朝鮮人が「日本名」で民籍に登録する騒動が勃発する。
1911年 総督府は、朝鮮人と日本人を区別する為、「改名禁止」の法令を出す。
布令)1911年11月1日総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」 で「内地人ニ紛ハシキ姓名」を禁止。
1932年 満州国誕生
満州国の首都・新京

中国東北部に、日本の手によって清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とする「満州国」が誕生。(同時に朝鮮人の入植が始まる)

入植した朝鮮人が、満州国の人々に「元は中国の属国の民族」と蔑視された為に、日本風の姓名を名乗る事を希望する。

1939年 彼らの要望により「創氏改名」が発令。(1940年に施行)322万戸(人口の80%)が、日本風の氏を名乗る。 
上記戸数の出典)『朝鮮を知る辞典』 平凡社 1986年 


創氏改名の概要

日本の「family name」には、氏族名を表す
「姓」と、住居地を表す「氏」の二種類があった。
(今の日本では、この二つは混合されている)
一方、朝鮮の「family name」は、氏族名を表す
「姓」だけであり、「氏」は無かった。
そして、元々は日本人も朝鮮人も、民衆の多くは「family name」を持っていなかった。


日本人は「氏」を、朝鮮人は「姓」を名乗りだす

1870年、戸籍の整備に伴い、日本では全ての国民が
「氏」を名乗る事を義務付けられた。
1910年、朝鮮で戸籍が整備されると、朝鮮では全ての国民が
「姓」を名乗る事を義務付けられた。

*なお、
「姓」は氏族名である為、「同姓の人とは結婚できない(近親婚を防ぐ為だと思われる)」「女性は結婚しても姓が変わらない(家族名の役割をはたさない)」等の欠陥があった。
朝鮮人に日本風「氏」の許可

満州に入植した朝鮮人の要望に応えた日本政府は、朝鮮人に従来の
「姓」の他、さらに「氏」を名乗る事を義務付けた。
そして、この
「氏」の方だけ日本風にする事を許可した。

*前述の通り、
「姓」には「同姓結婚できない」「家族名の役割をはたさない」等の欠陥があった。ゆえに、朝鮮人に「氏」を許可する事は、日本・朝鮮の戸籍管理を統一する点でも都合が良かった。
注釈)「First name」も日本風に変える事も許可されたが、この場合は手数料が取られた。
日本名への強制改名の嘘

戦後の朝鮮人は、「強制的に日本風の名前に改名させられた」と主張する。しかし、朝鮮人の
「姓」に、新たに「氏」を追加する事を義務付けただけである。従来の朝鮮人の「姓」は廃止も改名もされていない。
また、
「氏」を日本風にしたい場合は届け出を出さねばならなかったが、それを望まぬ場合は、自動的に戸籍主の朝鮮名の「姓」が、そのまま「氏」として登録されてのである。
実際、洪思翊(陸軍中将)、金錫源(陸軍大佐)、白善Y(満州国軍中尉)、崔承喜(舞踏家)、朴春琴(政治家)などは、
「氏」を日本風にする事はなく、そのまま朝鮮名で登録している。

一方、同じく日本に併合されていた台湾では、「日本語常用家庭」「神道崇拝者」「家庭清白者(犯罪者がいない)」の三条を満たさなければ、日本風に名を改名する事は許されなかった。
(私たち日本人からすれば、朝鮮人に日本名を名乗られても、迷惑なだけである)

<参考リンク 「創氏改名の真実」



2.反日感情の原因を作り続けた朝鮮人


中国への朝鮮人の入植が始まると、現地人とのトラブルが続発し始める。


万宝山事件

左の絵は、日本の旗を掲げる朝鮮人が、中国人を虐殺している場面。
(虐殺者の服装は明らかに朝鮮服である)


1931年7月2日、長春近郊に入植した朝鮮人と中国人との用水路をめぐるトラブルから武力衝突が発生。
朝鮮人による報復暴動へと発展し、中国人100人以上が殺害されるという惨事が起きた。
同年6月27日に起きた「中村大尉殺害事件」(日本の中村震太郎大尉が中国軍に射殺された事件)と相まって、日中戦争の原因へと発展して行く。



1923 年9 月16 日、大阪の海軍の通信所の電報

中国各地で傍受された
日本国籍を与えられた朝鮮人の道徳の無い行動が、中国や世界でニュースに取り上げられ、ヨーロッパで反日宣伝の材料になっている。
注意が必要であり、充分な取り調べが必要であると考える。




同胞に対しても横暴を働いていた朝鮮人
今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3 年)

朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、
下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる


注釈)1910 年、朝鮮に近代警察制度が導入される。
警務総長には日本の憲兵司令官が就任し、憲兵と警察を一元化させる。
日本人は、現地の言葉を解さず、民情にも疎い為、憲兵・警察の補助要員として朝鮮人を募集した。当時の警察の構成人数は、日本人憲兵1007 人、朝鮮人憲兵補助員1012 人、日本人巡査2265 人、朝鮮人人巡査3428 人である。
憲兵数の出典)「日韓2000 年の真実」 名越二荒之助 平成9 年 国際企画



3.日本軍の規律を低下させた朝鮮人志願兵


月刊誌「DATUMS」1995 年10 号
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医

http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html

はじめてフィリピンへ行ったのは1986年、マルコス政権からアキノ政権に交替した直後のこと。マニラ市の郊外にフィリピン国立大学の留学生寮でアジア各国からの留学生と喋って暮らした。(略)
一番親しくなったのが韓国出身のアンだった。控えめで小柄な苦学生の彼はアルピニストで、日本の加藤文太郎と植村直巳を尊敬する「単独行」者。冬季の日本北アルプスに単身入り2週間かけて風雪の中を主稜線まで往復してくる技量をもち、既にボルネオのコタキナバルとケニアのキリマンジャロを単独登頂したという。
クリスマス休暇に彼と二人でルソン中部山岳地帯の小旅行に出た時には政府軍と共産軍の2ヶ月の停戦が発効していた。中部山岳地帯の最高峰MH.Pulogへのアプローチは3日、バスでバギオ迄、ジープニーで麓の村まで、そこで民宿して一気にピークへ。この山は今次大戦の激戦地だった場所で戦車や装甲車の残骸が残っていた。麓の村の短大の先生が親切にも自宅の2階を宿泊に提供してくれた上、一緒に登ろうということになった。実は彼の曽祖父は日本人だという。

(中略)

現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。
韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「
日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない




「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年
アルフレッド・スムラー著(フランスの雑誌パリマッチ特派員)

別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、
占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
たとえば戦後十年たって
インドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。



「日本軍は香港で何をしたか」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年
 36~37頁

最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
(中略)
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。


142頁

(日本軍占領下の香港では)
アヘン販売や売春市場は朝鮮人が中心となって取り仕切っていた
注意)上記の「日本軍は香港で何をしたのか」の全体の内容は、日本軍の蛮行を告発したもの。
しかし、その内容たるや、朝鮮人将校が存在していたにも関わらず、朝鮮人は日本軍では二等兵以下の地位に処されていたとか、日本の奴隷化政策のせいで朝鮮人のほとんどは読み書きが出来なかったとか(終戦直後の朝鮮人の就学率は61%。参考)「『韓国併合』とは何だったのか」 中村粲著 日本政策研究センター 1997)、250万人の朝鮮人が強制徴用されていたとか、ウソだらけである。
上記に転載した142頁の記述は、他の資料にも多く見られる話だが、36~37頁の記述の真偽は不明である。






4.朝鮮人による、現地人への横暴と捕虜虐待


『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.220

昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジェネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。
朝鮮人が李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここに来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。
東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。
敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。

白人こそ報復と復讐の大家だったのだから


*日本軍は出身地域ごとに連隊を組む。後から志願者で編成されたコリアは、
所属すべき連隊がなく、主に、憲兵を務めた。
アジア各地では、今もなお日本軍の憲兵の残酷さが語り継がれている。


『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133

昔から日本人は語学が拙ない。地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、
どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略)
日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。
通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。
中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。





半世紀経った今も、同じ事を繰り返しているコリア
朝鮮日報 「私たちは奴隷だった」2000/05/23

韓国で働いている外国人労働者に対する人権侵害が今も蔓延している
という事実に我々は恥ずかしさを隠せない。この問題は「コリアン・ドリーム」に期待をよせてやって来た外国人の失望と挫折にとどまらず、わが国のイメージにまで泥を塗ることだという点で決しておろそかに扱ってはならない。
最近、外国人労働者対策協議会が発行した『外国人産業技術研修生人権白書』の内容を見ると、果たして韓国が文明国であるといえるのか考えさせられる。問題がより深刻になる前に外国人労働者保護法を制定するなどの根本対策を設けるべき
だ。
同白書は結論で「我々は奴隷だった」と締めくくっている。それだけ非人間的な虐待を受けたということだ。もちろん、暴行・外出禁止・監視・強奪・性暴力の例を列挙してある白書の内容が、わが国に滞在中の外国人労働者すべてに当てはまるということではないだろう。悪徳な企業主よりは善良な企業主がはるかに多く、また熱心に汗を流し働く労働者のほとんどがふさわしい待遇を受けていることだろう。しかし少数、ひいては1人でも「奴隷」扱いされるようなことは許されない。
あるネパール人の女性労働者は飲食代問題で争ったため警察に連行された後、精神病患者扱いされ精神病院に6年間あまり閉じ込
められ、最近やっと自由の身になったという。
国内の人権団体が最後まであきらめずに追跡してようやく明らかになったのは、この女性が韓国語をうまく話せなかっただけで正常だったにもかかわらず、警察は精神病者として処理したことである。このほか、身分証明書の差し押さえ・賃金未払い・労働災害などと関連した人権侵害の例は数え切れないほどだ。
関連当局の関心が次第に高まっている。スリランカの労働相は先月、労働部を訪問した際、自国の労働者に対する虐待禁止や低賃金解消などを要請した。
駐韓フィリピン大使も1月、労働部に同じような要求をした。バングラデッシュの労働者は帰国後、韓国で経験した人権侵害の例を告発する本を出したりもした。
我々がこの問題に生ぬるい対応を行っている間にいつのまにか国際的問題として浮上し、「アグリー・コリアン(汚い韓国人)」のイメージを広めているのだ。政府はこれまで悪徳企業主を処罰し、外国人労働者全体の60%を超える不法滞在者にも勤労基準法上の労働者として待遇するよう行政指針を設けるなどそれなりに努力を注いできたが、韓国人との差別は相変わらずだ。




5.日本人虐殺事件を引き起こした朝鮮人大尉


『日高恒太朗「終戦60 年秘話-後の「韓国大使」もいた沖縄「7 人の脱走日本
兵」』(前後編)
週刊新潮 「2005 年9 月1 日号」 「2005 年8月25 日号」

昭和20 年4 月、米軍は遂に沖縄本島に上陸した。
約3 ヵ月後、守備部隊である陸軍第32 軍は壊滅状態となり、司令官の牛島満中将は自決、20 万人余りとされる犠牲者を出した。
そんな激戦のさ中、小船で密かに離島へ逃げ、島の女を愛人にして遊芸に興じていた「脱走兵」グループがいた。
その隊長は、後に韓国の大使にまで出世したエリート将校であった。
(中略)
沖縄戦の早い時期に米軍の手に落ちた伊江島、そして6 月3 日に砲艦射撃を受け米軍が上陸した伊平屋島。両島に挟まれた伊是名島は、沖縄本島や各離島で起きた「玉砕」「集団自決」などの悲劇を免れた「イクサのなかった島」といわれていた。
その伊是名島にサバニを漕いで渡ってきた逃亡兵らが、この島にタブーを作ったという見方がある。
彼らは島民にスパイ容疑をかけ、虐殺をしていたというのだ。
この事実は、昭和49 年に発刊された『沖縄県史』(沖縄戦史録2)の調査団によって明るみに出た。
(中略)
北隣の伊平屋島が指呼の間に見える内花集落は、博労をしていた喜納政昭(42)=当時=殺害の場と言い伝えられている。彼はサバニを自在に操って島々を渡り歩いていたことからスパイの嫌疑をかけられたのだ。
犠牲者の弟である喜納政和(72)は眉毛を逆立てて、丸い目を剥いて言う。
「あんたネ、来るのが60年遅いサ。あの連中は脱走兵の癖に、しかも戦争が終わっているのに兄を殺し、奄美から来た子供を殺し、アメリカ兵も2人か3人殺している。60年間のうのうと軍人恩給を貰って、今はもう死んでしまったかという時期だろうが、こんなロクでもない兵隊に国はオレたちの税金をずっと払い続けてきたんだ。今更、何を喋っても仕方ないだろ」
(中略)
処刑の日、内花海岸には地元防衛隊、要人たちが集まっていた。喜納政昭はこの浜で、待ち受けていた逃亡兵の隊長である平山大尉に射殺されたのだという。
脱走兵たちは島人になりすます為、偽名を使っていた。
(中略)
60 年後の現在、彼らの偽名と階級を憶えている人はほとんどいないが、人々の記憶に鮮やかに残り、伝説のように伝えられているのが、
「ゼンタロウ」(申応均が島で使った仮名)たちの優雅な日々である。
(中略)
先の喜納政和は、「あいつらは虐殺しただけじゃない」と怨念を込めて言う。
事実、逃亡兵の中には、既婚者でありながら祝言を挙げたり、17 歳の娘に子供を孕ませたまま、島から逃げた者もいたのである。
(中略)
申應均として韓国で功なり名遂げた彼だが、山梨県に住む平山隊の元戦砲隊第一分隊長(82)の意見は手厳しい。
「平山さんは優しい人物ではありましたが、戦後になって、沖縄の小島に逃げて女を捨てたという話などを聞き、軍人としては最低だと思った。昭和20 年4月20 日、平山隊の副長格だった2 人の将校が八重岳で自決しています。一人は予備士官の中尉で、この人は負傷して動けなくなった。“足手まといになりたくないから自決させてくれ”と言って我々の目の前で自決されました。平山さんは私たち124 名の部隊の長だった人です。
部下の自決を見ていた隊長が、米兵のいない島に逃げていたとは……卑怯だとしか言いようがない

逃亡し、民間人虐殺まで行った朝鮮人の略歴

申応均(平山勝敏)

日本陸軍士官学校53 期卒業、旧日本陸軍少佐。
沖縄戦に第24 師団砲兵大隊長として参戦。後、韓国軍に入隊、韓国軍砲兵の育ての親。
第1 野戦砲兵司令官、第3 師団長の地位へ。
退役後、駐トルコ、西ドイツ両大使、国防科学研究所長を歴任。


この事件に対する石原昌家教授の見解

沖縄列島は、島ごとに言語が異なる為(北琉球方言が三種類。南琉球方言が三種類)、沖縄島民でも島が違えば言葉が通じなかった。
ゆえに、諜報員によって目の前で密談が交わされても、誰も気づく事ができないという危険性があった。
第32 軍は、この防諜対策の為に「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。
沖縄語を以って談話したる者は間諜とみなし処分す」(第32 軍司令部日々命令録)と命じていた。
調査団に加わった石原昌家教授は、これを根拠に「方言しか喋れない沖縄島民は殺しても構わない、と許可を与えていた」と解釈しており、軍そのものに責任があったと考えている。
(しかし、「処分」とは“公権力を用いて処罰する”という意味であり、“行政処分”等の言葉を見れば分かる通り、“死刑”という意味ではない。しかも、「軍人・軍属・準軍属・民間人を問わず」ではなく、「軍人・軍属を問わず」である為、民間人は対象外であった事も分かる。石原教授の解釈は早合点である)





日本を裏切った朝鮮人たち



1.引揚げ時の日本人を襲った朝鮮人


1945年、日本が敗戦。
それまで「日本人」を名乗って捕虜や現地人に横暴を働いていた朝鮮人は、今度は「戦勝国民」を名乗って日本人に対して横暴を働き出した。

敗戦と共に態度を豹変させた朝鮮人

「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000 年 日本教文社

昭和20 年8 月15 日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒 にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。



中国大陸と朝鮮半島から引揚げる日本人を襲ったのは、仲間であったはずの朝鮮人だった。
正論 2005 年 11 月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38 度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで
朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
(中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17 になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。(中略)
朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという
博多港から車で40 分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。
昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。
医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。
(中略)
京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。
しかも一度では済まず、相手も変わった。
兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。
救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った。
医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。
しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。
「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、『水子の譜』に収録されている。
同医師が昭和21 年6 月10 日付で救療部に提出した報告書によれば、
強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
(中略)
中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた。(後略)




恩を仇で返された和夫一家殺害事件

金 完燮

韓国人評論家・作家。光州広域市生まれ。サレジオ高校−ソウル大学卒。
本書の「日韓併合」を全面肯定した「親日派のための弁明」は、韓国では「青少年有害図書」に指定され、著者は「名誉毀損」と「外患扇動の罪」で逮捕された。
日本では発刊から4 ヶ月あまりで類書では異例の35 万部を売り上げ、ベストセラーとなった。
現在、国賊として中傷と迫害を受け続けている。

『親日派のための弁明』(日本語版) 扶桑社 2004年 (未翻訳部分)

日帝時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。ところが、和夫一家殺害事件のように、韓国人は自分たちの間違いを、日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し、事件を矮小化、隠蔽しようと躍起になっている。和夫の亡骸は、釜山に大切に移葬され、毎年、日本人の墓参りが絶えない。以下は、和夫夫婦が死んだ日、ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。事件当時、金ソンス君も加害者だったが、殺害行為には同調しなかったそうだ。
和夫氏は、日帝時代によく見られた、慶尚道地方の日本人地主だった。
(中略)
和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。
(中略)
彼がわが子のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼の家で教育を受け、育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は、次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを、子どもたちよ。
A:チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。

和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたというんだ。
お前たち、みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは、私もふだんから待ち望んできたことだ。踊りでも踊りたい気分の日に、なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け、育ててきた結果は、つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。
お前たちが望むなら、帰ってやるわ。

A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら、おれたちはどうやって食っていくんだ?)
B:死ね、チョッパリ、シッパルノマ。

間髪入れず鍬が、和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に、数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。このとき、和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。それまで黙っていたCは、和夫の妻を見て、彼女の長い髪をつかみ、庭の奥まったところに引きずっていった。そしてなんと13人がかりで、ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を、強姦しはじめた。(金ソンス君は、この期に及んで自分が止めに入ったら、自分も殺されただろうと言った)。強姦に耐えられなかった彼女は、行為の途中で死亡し、Dは、ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず、内臓をひきずり出して、まき散らした。
和夫には、一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは、放課後、家に帰ってきて、両親の身に起こった惨状を見、気が触れてしまった。
ヒミコが何日間も慟哭する声に、近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後、孤児になったヒミコは、食べ物を乞おうと、その付近をさまよったが、朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず、知らないふりをした。結局、彼女は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。当時、ヒミコは小学校6年生の幼子だった。和夫の財産は、勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り、この事件は村人たちの沈黙の中、しだいに忘れられて行った。
(中略)
振り返って考えてみれば、日本の敗戦後朝鮮半島では、このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。日本の無条件降伏以後、北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し、軍政を敷いたが、南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。したがって、約1カ月程度、南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。韓半島には、さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし、彼らは日本人を殺し、財産を強奪し、日本女性を強姦しただろうと思われる。

そして、朝鮮人たちが8月15 日、日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は、おそらく、日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。日本統治の最後の期間、特に大東亜戦争が始まった、最後の4 年間は、日本人はもちろん、日本の統治を受けていた地域の住民たちも、大きな苦痛に見舞われた時期だ。それゆえ、朝鮮人たちにとって8月15 日は、忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で、また日本人たちを殺し、財産を奪える機会が与えられたという点で、とても喜ばしいことだっただろう。

問題は、韓国社会において、朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず、また調査されたこともなく、われわれが受けた被害だけは、繰り返し強調されているという点だ。そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも、事実よりずっと膨らまされているだろうことは、容易に想像がつく。

朝鮮は日本の統治を受け、未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し、高い生活水準を享受してきた。しかし、日本が戦争に負けるやいなや、素知らぬ顔で、まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく、日本を呪詛し、彼らの財産を奪い、虐殺した行為は、明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと、南韓国と北韓国の政府は、強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び、堂々と山分けした。

もし日本が戦争で勝利したり、少なくとも領土を保全され、休戦にでもなったなら、はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。おそらく、前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ、忠誠を尽くしただろう。ところが、戦争に負け、くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間、彼らは態度を急変させ、日本に仇として接し始めたのだ。







2.なぜか、被害者側のテーブルについていたコリア


1965 年、日韓基本条約。
この時、なぜか韓国は「被害者」としてテーブルにつき、日本に謝罪と賠償を求めた。
日本とコリアは共に戦い、共に敗れた敗戦国である。
第二次大戦に関わった国々を加害者と被害者に分けるならば、日本とコリアは加害者側である。そして、日本軍の蛮行の多くは、コリアによって行われていた。
また、終戦と共に、多くの日本人がコリアに襲われ、生命と財産を奪われた。
しかし、なぜか彼らは被害者側に回り、日本に謝罪と賠償を求めた。
日本側は、日韓友好の為に、無償で3 億ドル(約1080 億円)、有償で2 億ドル(約720 億円)、民間借款で3 億ドルを支払った。
(民間借款を除いても、これは当時の韓国の国家予算の1.45 倍に当たる額。また、当時の日本の国家予算は3 兆7230 億円である)
さらに韓国に残した日本側の資産53 億ドルを全額譲渡した。
日本が韓国政府に補償し、韓国政府が韓国国民に個人補償を行う事が決定


植民地支配は合法とされており、世界の宗主国の中で、植民地に賠償を行った事がある国は、日本一カ国だけである。
(植民地を持ったイギリスもオランダも、賠償をせず、資産を取り返している)
さらに、1982 年の鈴木善幸首相を初め、歴代の首相は公式謝罪を行い、1984年には天皇すらも公式謝罪を行っている。
未だかつて、植民地に対して謝罪を行った宗主国はない。

しかし、それでも韓国は、「日本は謝罪も賠償も行っていない」と世界に向かって主張している。
これは、自らを加害者ではなく被害者である事をアピールする為の、パフォーマンス以外なにものでもない。



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