従軍慰安婦の真相
<検証編>



日本軍に強制連行される女性の絵 挺身隊に志願すると書かれた日記



1.従軍慰安婦問題・年表
2.告発書の検証
3.被害者証言の検証
4.一次資料から見た実態
5.当時を知る人々の証言
6.インドネシアの場合






従軍慰安婦問題・年表



赤い項目の事件の{英字}は、青い項目の{英字}に対応。
緑の項目は、日本政府が尽力した補償について。
1965年
{ A }

島田俊彦氏『関東軍』出版。関東軍特別演習に備え、慰安婦を集めたという話を紹介。
初めて慰安婦の話が登場。


1973年
{ B }

千田夏光氏『従軍慰安婦』が出版。
軍属を意味する「従軍慰安婦」の言葉が初めて登場。

1977年
{ C }

吉田清治氏『朝鮮人慰安婦と日本人』出版。
初の加害証言。

1980年 ユンジョンオク氏(梨花女子大学英文科)挺身隊の調査開始
1982年
6月
吉田氏、大阪で「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」と講演
同年
9月、11月
吉田氏「第一次樺太朝鮮人裁判」(原告代表 高木健一弁護士)で原告側証人として、朝鮮人奴隷狩りを証言
1983年 吉田氏『私の戦争犯罪』が出版。吉田氏「謝罪の碑」を韓国の天安市に建立。韓国のテレビが「謝罪の旅」として1時間番組を流す。以後も、各地で講演等を積極的にこなす
1986年 吉田氏「心に刻む会」で講演(『アジアの声』に証言を採録)
1989年 吉田氏『私の戦争犯罪』が韓国語に翻訳され、後にドラマ化
6月 高木弁護士、「第一次樺太朝鮮人裁判」の提訴取り下げ。後に韓国政府から、国民勲章を授与され「これをモデルケースとしてこれからも同じように補償裁判を起こしていく」と発言
8月14日
{ C }

慰安婦狩りが行われたとされる済州島の『済州新聞』が、現地調査の結果、吉田氏の『私の戦争犯罪』が作り話だった事を暴露

1990年
1月4日〜24日
ユンジョンオク氏 『「挺身隊」怨念の足跡取材記』をハンギョレ新聞に四回に渡って連載
5月 国会で竹村泰子議員(社会党)が慰安婦の調査要求。以後、吉岡吉典議員(共産党)、本岡昭次議員(社会党)が慰安婦で質問。臼杵敬子氏、「遺族会」の戦後処理要求イベントを取材。
6月6日 参議院予算委員会で本岡昭次議員(社会党)が慰安婦の実態調査を日本政府に要求。清水傳雄・労働省職業安定局長は、慰安婦は「民間の業者が軍とともに連れ歩いた」「調査はできかねる」と答弁
10月17日 韓国女性団体連合、韓国教会女性連合会など37の女性団体が、日本政府の国会答弁に抗議する公開書簡を送付
11月16日 「韓国教会女性連合会」(1967年結成)、「韓国女性団体連合」(1987年結成)等が参加して「韓国挺身隊問題対策協議会」(代表ユンジュンオク氏)(以下「挺対協」)を結成
12月 臼杵敬子氏等が「日本の戦後責任をハッキリさせる会」を結成
1991年
4月
「ハッキリ会」韓国へ調査に向かう。以後も数次にわたり訪韓調査
1991年
4月1日
参議院予算委員会で、本岡昭次議員が韓国女性団体の「公開書簡」への回答を求めたのに対し、谷野作太郎・外務省アジア局長は「調査したが手がかりになる資料がない」、若林之矩・労働省職業安定局長は「当時の担当部署は全く関与していなかった」と答弁
8月11日
{ D }

慰安婦被害者が初めて登場。朝日新聞が、名乗り出た金学順が「強制連行された」と証言したと報道

8月14日 高木弁護士(「ハッキリ会」と「心に刻む会」が支援)が中心となり「戦後補償国際フォーラム」開催、「遺族会」から五十三人が参加。「挺対協」の呼びかけに応じて、金学順が参加。
8月15日
{ D }

ハンギョレ新聞により、金学順は「親に置屋に売り飛ばされた」と証言していた事が判明

12月6日 金学順ら元慰安婦3名が、軍人・軍属らとともに、高木氏を主任弁護士として、日本政府に謝罪と補償を求めて、三十五人で東京地裁に提訴
1月11日
旧日本軍の慰安所設置、慰安婦募集統制を示す資料が、吉見義明・中央大教授により、防衛庁防衛研究所図書館で発見されたことを『朝日新聞』が報道


しかし、その資料は「軍と警察が協力して、違法な業者を取り締まる」という内容だった。

1月17日 訪韓した宮沢喜一首相が、盧泰愚大統領に慰安婦問題に対して公式謝罪
2月1日 日朝国交正常化交渉で、日本政府が慰安婦問題に関し、北朝鮮側に謝罪表明
5月上旬
{ C }

秦郁彦「従軍慰安婦たちの春秋」(『正論』1992年6月号)が、自らの現地調査により、吉田清治『私の戦争犯罪』の虚構を暴く。

7月6日
日本政府、第1次調査結果公表。政府の直接関与を公式に認めたが、強制連行を立証する資料は発見されず。「補償に代わる措置」検討表明

12月25日 韓国・釜山などの元慰安婦、元女子勤労挺身隊員10名が、山口地裁下関支部に提訴(関釜裁判)
1993年
{ A・B }

加藤正夫(『現代コリア』93年2・3月号)の調査により、千田著書『従軍慰安婦』の記載が架空の話である事が判明。

4月2日 マリア・ロサ・ヘンソンらフィリピン人元慰安婦、東京地裁に提訴
4月5日 在日コリアの元慰安婦の宋神道、東京地裁に提訴
5月11日 94年度用高校日本史教科書のすべて(7社9種)に、慰安婦に関する記述のあることが判明
8月4日
{ E }

日本政府、第2次調査結果発表。河野洋平官房長官、談話で慰安婦の募集、移送、管理などが「本人たちの意志に反して行われた」ことを認め「お詫びと反省の気持ち」を表明

1994年
1月25日
オランダ人元慰安婦・捕虜など東京地裁に提訴
8月13日
日本の新聞各紙が「民間募金による見舞金支給」構想を報道。補償問題は、とっくの昔に条約を交わして終了済みであった為、日本政府は、第三者機関(民間機関)の基金に政府が援助する形を取って、補償する事を検討

8月22日 元慰安婦および支援35団体が「民間募金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表
11月22日 ICJ(国際法律家委員会)が報告書を発表。慰安婦被害者には個人補償請求権があると結論。日本政府に行政機関の設置、立法措置、仲裁裁判に応ずべきと勧告
7月19日
「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、アジア女性基金)発足。韓国・挺対協など内外43団体が基金発足に反対する声明発表
運営費の全額(総額約42億円)を日本政府が負担。

1996年
1月4日
クマラスワミ特別報告官、国連人権委員会に慰安婦問題に関する報告書提出、日本政府に国際法違反の法的責任を受け入れるよう勧告(2月6日報告書の内容が公表)
3月30日 ソウル、マニラ、台北各市長が日本政府に被害賠償を促す書簡を発送
4月9日 自民党の「終戦五十周年国会議員連盟」が「明るい日本・国会議員連盟」(会長・奥野誠亮、事務局長・板垣正)と名称変更。6月4日の結成総会で、奥野会長が「慰安婦は商行為」「強制連行はなかった」と発言、教科書の記述を批判する。
4月29日 国連人権委員会、クマラスワミ報告書全体に留意する(take note)との支持決議採択
6月27日 97年度用中学校社会科教科書の検定結果が公表。7冊すべてが慰安婦に関して記述
7月20日 自由主義史観研究会、中学校教科書からの慰安婦記述削除要求など、歴史教科書批判を全国規模で展開することを決定(1996年8月付で、緊急アピール「中学校教科書から『従軍慰安婦』の記述の削除を要求する」発表)
8月14日
アジア女性基金、フィリピンの元慰安婦に償い金を支給する手続きを開始

1997年
1月11日

アジア女性基金、非公開のうちに韓国の元慰安婦7人への償い金支給を開始。韓国政府、「支給を強行したことは遺憾」とコメント

1月30日
{ E }

参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問に対し、平林博・外政審議室室長が実は強制連行を示す資料は無かった事を告白。

櫻井よしこ(「文塾春秋」平成9年4月号の「密約外交の代償」)が、当時、内閣官房副長官だった石原信雄から、韓国政府から強い要請があり、それに屈していたという証言を得る。

1998年
4月27日
「関釜裁判」で山口地裁下関支部が、日本国に対し元慰安婦3名に各々30万円の賠償金支払いを命じる判決
6月6日 VAWW-NET Japan(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)発足(代表・松井やより)
8月8日 国連差別防止・少数者保護小委員会のマクドガル特別報告書の内容が明らかになる。慰安婦問題について、責任者処罰、元慰安婦への損害賠償などを日本政府に勧告
9月18日 アメリカ・ワシントン連邦地方裁判所に、日本政府を相手取って損害賠償を求める集団訴訟を起こす
2000年
12月7日〜12月12日
VAWW-NET Japan、東京・九段会館で 「女性国際戦犯法廷」を開催。のべ約5000名が参加。昭和天皇と9人の軍部・政府指導者を人道に対する罪で有罪と認定し、日本政府には国際法違反により賠償する国家責任があると判断(2001.12月4、オランダ・ハーグで最終判決)
*以上が、慰安婦問題が最も盛んにメディアを賑せた2000年頃までの経緯である。





告発書の検証



『従軍慰安婦』

講談社文庫 1984年出版 千田夏光著書
初めて「従軍慰安婦」という言葉が登場した本
< 内容 >

本書の中で、千田は、1941年の関東軍特別演習(ソ連戦に備え、70万人も動員された大演習)の時に、二万人の慰安婦の大動員計画があった事を告発。
その事実は、後方担当参謀だった原善四郎元少佐より直接聞き取ったという。
また、朝鮮人女性が強制的に慰安婦にさせられた事を紹介しており、挺身隊として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が慰安婦にさせられたとしている。

< 検証 >

@予算担当者だった陸軍省軍務局軍事課の加登川幸太郎少佐、関東軍参謀今岡豊中佐(兵站主任)等は、「慰安婦動員計画など聞いたことが無い」と否定。

A演習は二ヶ月間の予定で、極秘に計画されたもの。大々的な慰安婦の大動員など考えられない。

B本書で、原の経歴が「関東軍司令部第三課」と紹介されているが、本当は「関東軍司令部第一課」。

C「挺身隊」は軍事工場へ勤労動員(1943年9月に閣議決定)された国民を指し、「慰安婦」とは全くの別物。「挺身隊」が「慰安婦」になった例はない。

D「従軍慰安婦」の“従軍”は軍属を表し、軍によって徴用された慰安婦という意味を持つ。しかし、実際には、こんな用語は存在しない。

E上記の点を現代史研究家の加藤正夫が、千田に問いつめた所、千田は、武蔵大学教授の島田俊彦さんが書いた「関東軍」(中公新書81 1965/10)の176頁に載っていた話を引用したと主張。(要するに、原から聞き取った話ではなかった)しかし、島田の「関東軍」には、慰安婦を集めたという出典不明の記載があるだけだった。

参考)現代コリア93年2・3月号
< 事実 >

@「従軍慰安婦」は、千田が勝手に作った言葉。

A千田は、原に直接取材しておらず、軍が慰安婦を強制動員したという話は、島田俊彦の「関東軍」をヒントにした架空の話。

B「挺身隊」が「慰安婦」になったという話も根拠不明。




『朝鮮人慰安婦と日本人』
新人物往来 1977年出版 吉田清治著書

『私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行』
三一書房 1983年出版 吉田清治著書
初めての加害者自身による告白本

< 内容 >

「私は、朝鮮人女性を強制的に慰安婦にした」と証言する吉田清治の告白書。本書の中で、朝鮮半島の済州島に出向き、205人の女性を強制連行したと証言し、当時の命令書の内容も克明に記載している。

< 補足 >

吉田氏は、1982年6月に大阪で加害行為を講演した他、「第一次樺太朝鮮人裁判」(原告代表・高木健一弁護士)でも、朝鮮人奴隷狩りを証言。
1983年には、韓国に謝罪行脚に出かけ、各地で講演。1989年に本書は韓国で史実としてドラマ化。90年代は、国連人権委員会にも盛んに働きかける。

< 検証 >

@済州島の『済州新聞』(1989年8月14日付)が吉田の著書を全面否定

解放44周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され大きな証言を与えている。しかし裏付け証言がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制挑発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山里の住民のチョン・オク・タン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でない事を発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物だと思われる」と憤慨している。


A同じく現地調査を行い、虚構である事を突き止めた日本大学教授・秦郁彦による指摘。
1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年出版)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(1983年出版)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。
3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。
@とAの引用元)「昭和史の謎を追う」下巻 文藝春秋 1999年 秦郁彦

B吉田は、1940年に中華航空株式会社に入社。同年、上海支社の営業所主任として勤務中、フランス領事館に頼まれた中国人が、朝鮮人テロリストの「金九」を上海から広東行きの臨時便中島式AT機に載せたと記載。
しかし、金九は1938年10月に、既に上海から重慶に潜入済み。
参考)『諸君』1992年7月号 板倉由明の指摘

C吉田は、上記の件で、憲兵隊に捕まり、軍法会議に掛けられた。法務官の少佐から「懲役二年」を宣告され、南京の桜井部隊本部の軍刑務所に送られ、1942年6月20日に出所。出所後は、同郷の先輩の世話で、山口県労務報国会下関支部の動員部長として就職と記載。
しかし、二年間刑務所にいた前科者が、直ちに内務省系の動員部長に任用されることはありえない。また、中華航空の社員である“民間人”の吉田は軍法会議の対象にはなりえない。
共産主義などの思想犯を取り締まる治安維持法の法律違反者は地方裁判所で裁かれる。
参考)「歴史を捏造する韓国」徳間書店 2003年出版 中川八洋著 229頁

D吉田は、1943年5月頃の済州島では「事実上の軍政をしいていた」と書いている。しかし、戦時中、日本は、日本本土にも朝鮮にも軍政はしいていない。

E吉田は、慰安婦狩りの命令を「西部軍指令部付きの中尉」がしたと記載。
朝鮮軍指揮下にある済州島に駐屯していた日本陸軍部隊が、内務省系の、しかも下関市レベルの一団体に協力することなどありえない。また、内務省の管轄下にある末端組織に、軍が直接依頼することもありえない。
DとEの参考)「歴史を捏造する韓国」徳間書店 2003年出版 中川八洋著 100頁

F吉田は、昭和22年4月の下関市議選に共産党から立候補。僅か129票の得票で落選している。
(吉田は、中国か北朝鮮のスパイだと思われる)
出典)『週刊新潮」1995年1月5日号「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」






被害者証言の検証



1.金学順と文玉珠

慰安婦問題が浮上した当初、韓国のソウル大学教授・安秉直を中心とするチームが、コンタクトを取れた40人以上の慰安婦被害者に対して、証言の聞き取りと裏付け調査を行った。
「証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースは調査を中断」という原則の下、19人の証言が採用された。その内、強制連行を主張したのは4人だった。
しかし、2人は戦地ではなく、民間の売春施設があった富山と釜山の慰安所に連行されたと主張。(軍の慰安婦ではありえない)
残り2人は、金学順と文玉珠だが、彼らの主張には大きな矛盾があった。
参考)『諸君』平成九年五月号 西岡力著


一番、最初に名乗り出た慰安婦被害者
  金学順(キムハンスク)
1923年 中国東北(満州)の吉林省に生まれ
1991年8月14日、慰安婦被害者として初めて名乗り出る。
1991年12月16日、日本政府に対して謝罪と賠償を求めて提訴。
1997年12月16日死去

1)1991年8月14日の記者会見での最初の証言

「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」

引用元)「ハンギョレ新聞」91年8月15日付


2)1991年12月16日、東京地裁に提出された訴状内容

1923年、中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌へ戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、14歳から三年間キーセン(妓生)学校に通った。
注釈)キーセン=芸者・公娼の意味

1939年、「金儲けができる」と説得され、一歳上のエミ子とともに養父に連れられ中国へ渡った。
北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元チャン)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子どもを得て終戦の翌年、韓国へ帰った。
朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコものむような生活を送った。
身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め、謝罪すべきである。


3)いつの間にか、「親に売られた」が「日本軍に連行された」に変更

金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言。「その日から将校の相手をさせられ、抵抗するとけられた。日に何十人もの兵隊が来て、そこにいると死ぬしかないと思った」と語った。半年ほど後に逃走し、日本の敗戦後に韓国に帰国した。

引用元)共同通信(夕刊) 1997年12月16日付

*もともと彼女は、キーセン出身であり、「親に売り飛ばされ、軍隊相手の売春をさせられていた」と語っていた。彼女の訴えは、「強制連行」に対するものではなく、「人生の不幸」に対する補償だった。



もう一人の被害者・文玉珠。実は、三年足らずで、莫大な蓄財を築いていた。
毎日新聞 1992 年5 月22 日の記事

第二次世界大戦中『従軍慰安婦』として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めていた韓国・大邸市在住の文(ムン)玉珠(オクス)さん(68 歳)が11 日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、預けた貯金の原簿があったことが分かった。(中略)文さんは『個人の請求権は消滅していない。
当時「日本人として貯金した個人のお金だから直ちに返して」と訴えている。(中略)
原簿によると43 年6 月から45 年9 月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円となっている。




文玉珠の蓄財と、将兵の年俸・月給を比較
昭和史研究所会報1999年12月号
日本陸軍の階級別年俸 1943年7月現在 以下は月給
大将 6600円 曹長 75~32円
中将 5800円 軍曹 32~23円
少将 5000円 伍長 20円
大佐 4440~3720円 兵長 13.5円
中佐 3720~2640円 上等兵 10.5円
少佐 2640~2040円 一等兵 9円
大尉 1860~1470円 二等兵 9~6円
中尉 1130~1020円
少尉 850円
*強制連行され、強制売春させられたといいながら、わずか二年三ヶ月間で、陸軍大将の年俸の四倍近い額を稼いでいた。



彼女が稼いだ額は、現在の韓国の貨幣価値に変換すると約10億WON。日本円では一億円相当に当たる。ちょうど、以下の金塊や札束と同じ価値である。
日本で一番額が高い「一万円札」が一万枚




2.矛盾だらけの証言をする被害者たち


   黄錦周(ファンクムジュ)
1912年生まれ。1941年に慰安婦にさせられる。
出典)元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会 1997年12月5日 福岡市都久志会館ホ−ル
1922年生まれ。17歳の時に(1938~39年)慰安婦にさせられる。
出典)朝日新聞 1995年7月24日夕刊
1927年生まれ。シンガポール陥落の年(1942)に慰安婦にさせられる。
出典)「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」伊藤孝司氏編著 風媒社 1992

1)高木健一著書「従軍慰安婦と戦後補償」(三一書房 1992年出版)に記載された証言

生活は貧しく、12歳の時100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となった



2)1995年7月24~27日(夕刊)に、朝日新聞に四回に渡って掲載された証言の矛盾点と嘘

@1922年生まれと証言。しかし、彼女は過去に1927年生まれと称していた。
A17歳(1938~39年)の時に、“国民徴用令”で軍事工場に動員され、慰安婦にさせられたと証言。しかし、朝鮮で、国民徴用令がしかれたのは1944年であり、ありえない。
B中国の吉林で軍の慰安婦にされたと証言。しかし、吉林は戦場ではなく、公娼制度が導入された歓楽街。わざわざ軍が慰安婦を設ける必要はない。
Cクリスマスの日は、一番客が多かったと証言。しかし、日本軍にクリスマスを祝う習慣はない。

参考)「戦争論2」 小林よしのり著書 幻冬舎出版 2001 第12章


3)1996年1月4日、国連・経済社会理事会クマラスワミ報告

17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工 場に働きに行くように命じました。
そのとき私は労働者として徴用されたのだと思い ました。
3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求 しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったので抵抗しまし た。私はまだ処女でした。



4)日韓社会科教育交流団韓国を訪問 1997夏期
京都福天草の根反核平和運動のwebサイトhttp://www2.nkansai.ne.jp/users/peace/heiwanews%EF%BC%95.htm#1(リンク切れ)に記載されていた黄錦周の証言

満18歳になった時のある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。



5)1997年12月5日、元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡市都久志会館ホ−ル)での証言

1912年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。
村の班長(日本人)に「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。
一家に一人 は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。



6)2001年5月17日、TBS「ここがヘンだよ日本人」で放送

私は19歳で学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に 行ったんだ!



7)2001年07月17日、黄錦周さんの証言を聞く会(東京大学にて)

14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。


*証言の度に、内容はおろか、年齢や生まれた年まで変わっている。


金順徳(キムスンドク)
1)2003年4月4日、高槻市立総合市民交流センターでの証言
http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8268/6.html

「日帝時代、『準看護婦』として韓国から連れられた」

2)朝日新聞 asahi.com 2003年6月12日付
金順徳(キムスンドク)さんは1937年、17歳のとき、「日本の工場で働く娘を募集している」という言葉にだまされ、中国・上海の慰安所に連れていかれた
*これも証言が矛盾。ちなみに、内地(日本)の企業が朝鮮での求人活動が許可されたのは、国家総動員法が成立した1938年からである。


 李容洙(イヨンス)
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。
1944年に慰安婦にさせられる。
出典)2005年10月22日、旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時集会(in三重)

1942年(14歳の時)に慰安婦にさせられる。
出典)2002年6月26日、日本共産党機関紙「赤旗」

1)2002年6月26日、赤旗で紹介されたプロフィール

韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、 拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。


2)2005年10月22日、三重で行われた講演会でのプロフィール

1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。

*証言が矛盾。また、1944年から3年間という事は、日本が敗れ、日本軍が解体した1945年以降も、慰安婦をやっていた事になる。


1995年9月、中国で開かれた北京女性大会で、韓国代表として慰安婦被害を訴えたチョン・ソウンの矛盾点
中央日報 2004年2月26日付

13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった
「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道鎮海(キョンサンナムド・チンヘ)の自宅で老患で亡くなった。80歳
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、日本軍の蛮行を知らせた人物だ。

*2004年に80歳で死亡という事は、1924年産まれ。13歳から7年間インドネシアで慰安婦という事は、1937〜42年まで慰安婦だった事になる。
しかし、日本軍がインドネシアを占領していたのは、1942〜45年。
この女性は、日本がインドネシアを占領する以前から、インドネシアで慰安婦を行っていた事になる。明らかにおかしい。



  鄭陳桃(ジョン・チェンタオ)
1922年11月14日台北生まれ
16歳の時に売り飛ばされ、1942年に軍の慰安所で働かされる。
出典)平成11年7月14日付で、東京地方裁判所に提出された訴状(台湾元「慰安婦」損害賠償請求事件) 


1)フォーカス台湾 2013年7月7日の記事

鄭陳さんは壇上に立つと日本語で自己紹介、当時、高校への通学途中、突然警察官にジープに乗るよう強要され、その後海外に連れて行かれたと語り始めたが、何度ものどをつまらせ泣き出し、話を続けることができなくなってしまった。



2)東京地方裁判所に提出された訴状の内容

中学(高等課)にすすんだが、戦争の為これを中退した。一六歳の時に叔父と継母は原告鄭を板橋(台北近郊)の林金という者に売買した。林金は原告鄭に客を取るよう強要したが、原告鄭が「酒の相手ならするが客をとるのは嫌だ」と拒否すると、台南塩水の柯鼻という者に売り渡した。

中略

一九四二年、原告鄭が一九歳のときに柯鼻は原告鄭を魏という高雄の者に売り渡した。魏の妻は、原告鄭に対して看護婦の助手として読み書きのできる人が必要だからといって(原告鄭は読み書きができた)、アンダマンに行くことを指示した。二年間という説明であった。二一名の女性が一軒の旅館に集められ一週間程待機した後、同年六月四日高雄から日本の貨物船に乗船した。途中ペナン等に寄り、アンダマン(インド洋上の島)に上陸した。魏の妻も同行した。
アンダマンは小さな島であり、海岸線に日本軍の基地があり、現地人は山間部に居住していた。
日本軍と現地人との交流や接触は一切なかった。近くには集落といえるものも無かった。原告鄭の感じでは二千人位の兵隊が駐屯していた。部隊名は石川部隊といい、イー一九 或いはイー一七の番号がついていた。基地は囲い等はなく、軍用の建物が幾つかあり、その中の一つが原告鄭等女性用として割り当てられた。この建物は二四部屋あったが、現地に到着した女性は一八名であり、各部屋を割り当てられた。原告鄭の部屋は三号であった。尚、先に居た女性はいない。
上陸後すぐには何もなく、五日目位に魏の妻が原告鄭らを集めて「慰安所」であることを話した。

*訴状には、はっきりと、義理の両親に売り飛ばされ、さらに別の業者に売り飛ばされたと書かれており、政府や軍に強制連行されたとは一言も言っていない。にも関わらず、いつの間にかストーリーが変更しており、中学中退でありながら高校時代に警察に拉致されたと主張している。
なお、当時の台湾に高校は存在せず、台湾教育令の高等普通学級を指しているとしても、これは1928年に廃止されており、年齢的に辻褄が合わない。
さらに、日本におけるジープの登場は、新三菱重工業がウィリス社のジープ部品を輸入して生産したのが始まりであり、これは1953年である。それ以前は生産も導入もされていない。




3.オランダ人被害者の場合


一部の軍人が犯した犯罪であり、しかも処罰済み。

産経web 2007年03月10日付
慰安婦問題対日非難は蒸し返し
(前略)

オランダ女性の事例末端将兵の行為すでに厳刑

8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。
ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。
日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した−などという点が明記されている。






一次資料から見た実態



1.米軍の公文章から見る慰安婦の実態


1944年夏、北ビルマのミートキーナーにて、米軍に捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と雇用主の北村夫婦からの尋問記録の要約(米国立公文書館所蔵)
UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator
APO 689


前書き

このレポートはビルマ、ミーチーナ陥落後1944年8月10日前後の、掃討作戦により捕らえられた、20人の韓国人「慰安婦」と、2人の日本民間人の取調べから得られた情報である。
このレポートは日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする。
「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。「慰安婦」と言う言葉は日本人特有のものである。他のレポートでは「慰安婦」とは日本陸軍が戦う為に不可欠なものであり、どこでも見受けられると記されている。このレポートではしかし、日本人に募集され、ビルマにて彼らの陸軍に付属していた韓国人「慰安婦」のみを扱うものである。日本人は1942年、ビルマに703名のこれらの女性を送ったと報告している。



募集:

1942年5月上旬、東南アジアの新しく勝ち得た属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的により、日本人代理業者は韓国に到着した。この「奉仕」の本質は特定されず、病院の負傷患者の訪問、包帯を巻いたり、軍人を明るくする事に関連する物と考えられた。
この代理業者が動機として利用したものは大金、家族の借金の返済、簡単な仕事、新天地シンガポールで新しい人生を送れるなどである。この虚偽の説明に基づいて、多くの女性が海外勤務に志願し、何百円かの前金を受けた。
これらの大部分の女性は無知で、教養が無かった。しかし、わずかながらだが以前から売春と関連があった者も居る。彼女らはサインした契約書により、家族の借金返済の為受けとった前金の金額により、6ヶ月から1年間、軍規と「舎監」に束縛された。
おおよそ、800名の女性がこのように集められ、彼女らは1942年、8月20日前後ラングーンに彼女らの舎監と降り立った。彼女らは8人から22人のグループで到着した。ここから彼女らはビルマの各地、大抵は近くに日本陸軍基地があるまあまあ大きな町へに分散していった。最終的に4つのグループがミーチーナにたどり着いた。彼らはキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤマであった。キョウエイの一家は「マルヤマクラブ」と呼ばれていた。が、彼女らがミーチーナに到着した後、ミーチーナ駐屯地の司令官である
マルヤマ大佐と同じ名前の為変更された。



性格:

取調べでは、平均的韓国人「慰安婦」は約25歳、無教養、大人気なく、利己的であることを見せる。彼女は白人の基準からも、日本人の基準からも可愛くはない。彼女は自己中心的な傾向があり、自分の事を話すのが好きである。彼女の知らない人の前での態度は静かで、控えめだが、彼女は「男を手玉に取る方法を知っている。」
彼女は自分の「専門職」が好きでない事を申し立て、その事や、家族の事に付いて話したがらない。ミーチーナとレドゥーでの米国軍人から捕虜として受けた扱いにより、彼女は彼らの方が日本軍人よりも感情的だと感じている。
彼女は中国とインドの部隊を恐れている。



住居と仕事の状況:

ミーチーナで彼女らは大抵大きな2階建ての建物を宿舎として与えられ、各女性に個別の部屋が割り当てられ、各々の女性は生活し、睡眠をとり、業務に勤めた。
ミーチーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無い為、舎監によって、準備されそして購入していた。彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。この事は彼らのビルマ2年目では特にそうである。彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。
ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。



優先システム:

彼女らの業務状態は陸軍規定の元にあり、過密地域では規則は厳格に実施された。
陸軍は過密地域では金額、優先順位、各種の部隊が過密して働いてる地域での計画が必要だと考えた。取調べによると、平均的なシステムは以下の通り。

1 兵士     10AM〜5PM    1.50円   20〜30分
2 NGO      5PM〜9PM    3.00円   30〜40分
3 将校      9PM〜12PM   5.00円   30〜40分

これらは中央ビルマでの平均金額である。将校は12円で一晩留まる事が許された。
ミーチーナではマルヤマ大佐が平均金額のほぼ半分まで金額を削減させた。



日程:

兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。
陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けずまま去らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士らを識別する為、建物に駐在した。
秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。
下記に記したものがナイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊がキョウエイで使用した日程である。

日曜    18師団、司令部、所属
月曜    機甲部隊
火曜    工兵
水曜    休日、毎週の健康診断
木曜    衛生兵
金曜    山岳砲兵部隊
土曜    輸送部隊

将校は週7日来る事が許されていた。
彼女らはこの日程でも過密極まりなく、その為、全ての客に構っていられないと文句を言い、それ故多くの兵隊に悪感情をもたらした。

兵士は建物を訪れ、支払いをし、左側に順番、右側に名前の書かれた約5センチ四方のボール紙のチケットを受け取る。「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、個人が酷く酔っていた時等、頻繁に行使された。



給料と居住状況:

「舎監」は彼女達が契約した時に被った債務金額に次第で彼女らの総収入の50〜60%を受け取る。これによると、月平均で女性は1500円を総収益をあげ、彼女は750円を「マスター」に返済する事になる。多くの「マスター」は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を困難なものにした。

1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。

この取調べでは彼女らの健康状態も良い事を示している。
彼女らはあらゆる種類の避妊用具を十分に支給され、しばしば、兵士自身も陸軍から支給された物を持って来る事があった。彼女らは衛生の問題において客と自分の世話が出来る様、良く訓練されていた。

かかりつけの日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。この同じ手順が陸軍内部でも遂行された。が、興味深い事には兵士は彼が拘束された(病気による隔離)期間の間、給料を失う事は無かった。



日本人兵士への反応:

取調べにより、彼女らと将兵との間柄に置いては、二つの名前に帰結した。
それらは、ミーチーナ駐屯地の司令官である、あのマルヤマ大佐と援軍を率いて来たミズカミ少将である。二人は対照的で、前者は堅物で利己的で冷淡で、部下への配慮も無い。後者は善良、親切な男で、立派な軍人であり、彼の元働く部下へも最大の配慮をする。
大佐は彼女らの常連であり、少将が訪れた事は聞かれた事が無い。
ミーチーナの陥落とともに、マルヤマ大佐は逃亡したと思われ、一方、ミズカミ少将は、部下を撤退させることができなかった故に自決した。



兵士の反応:

普通の日本軍人は慰安ハウスで見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。

全ての女性が彼女らの所へ来た将兵のうち、翌日前線へ向かう兵士と、酔った物が最悪であると同意した。しかし同様に、酷く酔った日本人兵士であっても、彼女らと機密や軍事問題を話題にする者が居ない事にも同意した。
しかし、女性の方から軍事問題を会話を始めても、将校又は下士官兵は話さず、むしろ「そのような女性らしくない話題について話す事を説教された。酔っ払ったマルヤマ大佐でさえ決してそのような問題について話す事は無かった。」

兵士はよく実家からの雑誌や、手紙や、新聞を受け取ることをいかに楽しみにしているか
表現したと言う。彼らはまた、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅や服であふれた慰安袋を受け取った事にも言及した。
口紅と服は女性の物であり、彼女達は何故実家の人達がそのような物を送るのか理解出来ないが、送り主は彼女自身か、現地の女かしか受け入れられなかったと憶測する。

原文

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator
APO 689


Japanese Prisoner
of War Interrogation
Report No. 49. Place interrogated : Ledo Stookade
Date Interrogated : Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report : October 1, 1944
By : T/3 Alex Yorichi
Prisoners : 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture : August 10, 1944
Date of Arrival : August 15, 1994
at Stookade


PREFACE

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.


RECRUITING;

Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representaions many girls enlisted for overseas duty and were rewared with an advance of a few hundred yen.

The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six monthes to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

Approximatedly 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.


PERSONALITY;

The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.


LIVING AND WORKING CONDITIONS;

In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house(usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmotics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phono-graph and in the towns they were allowed to go shopping.


PRIOR SYSTEM;

The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interregations the average system was as follows ;


1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes
2. NGOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes
3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes


These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.


SCHEDULES :

The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situasions they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying . In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.



Sunday ----- 18th Div. Hdqs. Staff
Monday ----- Cavalry
Thuesday ----- Engineers
Wednesday ----- Day off and weekly physical exam.
Thursday ----- Medios
Friday ----- Mountain artillery
Saturday ----- Transport



Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.


PAY AND LIVING CONDITIONS;

The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnigs depending on how much of a de bt each girl had incurred when she signed her contract. This moant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

The interrogations further show that the health of these gilrs was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hycine. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.


REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina. and Maj.Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitue of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly desorted while Gen. Mizukami committed sucide because he could not evacuate the men.


SOLDIERS REACTIONS;

The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" acoording to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col.Maru yama when drunk would never discuss such matters."

The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminin and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".


MILITARY SITUATION;

"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

"Col.Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to stom the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evid ently Col.Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj.Gen.Mizukami of the 56th Division brought in reinfo rcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

It was the concensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.


RETREAT AND CAPTURE;

The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses(Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockado where the interrogation which form the basis of this report took place.


REQUESTS;

None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast"
They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilise the fact of their capture in any droppings planned for Korea.

*このレポートは、慰安婦をハッキリと「売春婦」と言い切っている。
また、民間業者による虚実を用いた募集があった事を報告しているが、日本軍による強制連行や奴隷狩りが行われたという指摘は全くない。
それ所か、日本軍は慰安婦たちの人権を尊重し、厚遇していた事が良く分かる。



参考サイト
http://www.geocities.com/theaterapo689/


1944年、3人の朝鮮人軍属から聴取した記録(USA公式文書)
Composite Report on three Korean Navy Civilians List No. 78,dated 28 March 1945,"Special Questions on Koreans"(U.S.National Archives)


太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、全て志願者か、両親に売られた者ばかりである。
もし女性達を強制動員すれば、老人も若者も朝鮮人は激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう





2.日本の公文章から見る、軍の関与


1992年1月11日、朝日新聞が「強制連行に軍が関与していた証拠」として報道した公文章

軍慰安所従業婦等募集に関する件
以下は分かり易く現代語訳
 件名  『軍の慰安所従業婦等募集について』

副官より、中国北部方面軍、及び、中国中部派遣軍 参謀長宛の通牒案

日中戦争における慰安所設置の為、募集業者が慰安婦を募集する際、“日本軍の名義・権威を利用し、その結果 日本軍の威信を傷つけ、庶民の誤解を招く事例”や“従軍記者、慰問者などを通じて、不統制に募集し、社会問題を惹起する事例”や“慰安婦を募集する業者が相応しくない場合、誘拐に類した方法を使い、警察の検挙・取調べを受ける事例”など注意を要する事例が少なくない。
将来、慰安婦の募集に関しては、派遣軍がこれを統制し、慰安婦募集業者の選定を周到・適切に行い、慰安婦募集に際しては、関係地方の憲兵、警察当局と協力すること。
日本軍の威信保持、また社会問題上、遺漏のないよう十分配慮することを依命、通牒する。

1938年3月4日
*しかし、見ての通り、これは軍と警察が協力して、民間の悪徳業者を取り締まれという内容である。




3.強制的な勧誘や違反行為は、厳しく取り締まっていた日本軍

軍部の許可条件を満たさない慰安所を設置した民間業者や、それを黙認した軍人は、極刑に処されていたという事実。
従軍慰安婦・政府調査の結果 毎日新聞 東京朝刊1993.08.05

<ジャワ島セラマン所在の慰安所関係の事件>(臨時軍法会議付託決定書に基づくもの)
元陸軍少佐・死刑=兵站関係担当将校として上記慰安所開設許可を軍本部に申請したものであるが、慰安所開設の際(1944年2月末頃)、軍本部の上記許可条件を満たしていないことを知っており、女性の全員又は多くが強制なしには売春に応じないであろうことを察知し得たにもかかわらず、監督を怠った事実、及び、慰安所で女性を脅して売春を強制するなどし、また部下の軍人又は民間人がそのような戦争犯罪行為を行うことを知り、又は知り得たのにそれを黙認した。この元陸軍少佐を含め陸軍軍人5人、民間人4人の判決は死刑1、有罪7(刑期7−20年)。

<バタビア臨時軍法会議の記録>(同)
慰安所経営者の民間人・有罪10年=1943年9月から45年9月頃までの間、ジャワ島バタビアにおいて、民間人のために設立された慰安所を経営し、同施設において売春させるための女性を募集し又は募集させ、応募してきた女性が辞めたがった場合には直接あるいは間接的に脅迫し、自由に辞めることができないようにして、売春を強制し、その自由を奪った。



防衛庁が公表した慰安業務に関する規定の解説

防衛庁が1994年12月5日に公表した「森川部隊特殊慰安業務ニ関スル規定」(森川部隊、1939年11月14日)の中には「慰安婦ニ対シ粗暴ナル行動ヲナスベカラズ」「慰安所ニ要スル経費ノ一切経営者の負担トス」「常ニ慰安所内ヲ清潔ニシ飲食物及酒肴ノ販売ヲ禁ス」とある。
防衛庁が1996年に公表した「後方施設ニ関スル内規」(1945年1月8日石第三五九六部隊)には慰安経営者や従業員にたいして礼儀を重んじることを命令している。「石兵団会報第74号(後方施設ニ就キ)」には雇用主は慰安婦にたいして「毎月稼高ノ百分ノ三」を「貯金」させ慰安婦をやめるときに「本人ニ交付スル」とあり、なおかつ「遊客其他ヨリ稼業婦ニ於テ直接収受シタル金品ハ全テ稼業婦ノ所得トス」「遊興費ノ不支ハ全テ営業主ノ負担トス」「稼業婦廃業シタルトキハ雇主ハ稼業当日迄ノ稼高ヲ清算スベシ」とある。
これではどうみても、慰安婦は強制連行され、強制売春されていた奴隷とはいえない。





4.当時の慰安婦募集広告

強制連行どころか、慰安婦が公募されていた証拠。

左の広告を現代語訳 1944年10月27日字「毎日新報」慰安婦募集広告
慰安婦至急大募集

年齢 17歳以上23歳まで
勤め先 後方○○隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円まで可)

右の広告を現代語訳 1944年7月26日字「京城日報」慰安婦募集広告
『軍』慰安婦急募

1.行先    ○○部隊慰安所
1.応募資格  年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
1.募集期日  10月27日より11月8日
1.契約及待遇 本人面接後即時決定
1.募集人員  数十名
1.希望者   左記場所に至急問議の事 
                  京城府鍾路区○園町195   朝鮮旅館内
                               光○2645   (許氏)






当時を知る人々の証言



1.台湾の政府最高顧問の知る慰安婦の実態


許文龍(シー・ウンロン)

奇美実業会長、台湾総統府資政(資政=最高顧問)。
第2次世界大戦後、故郷の台湾・台南で、がん具・日用雑貨の製造を始め、
1959年に現在董事長を務める奇美実業を設立。
同社を家電や自動車部品の原料であるABS(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレン)樹脂で世界最大のメーカーに育て上げる。
『台湾論』 小林よしのり著 小学館 2000/11/01 231~232頁

慰安婦問題が騒がれた時に、最初にそれは嘘だと言ったのは私でね。
あまりにおかしな話なんで、私は調べたんですよ。
慰安婦を集めて「ホントのところはどうなんだ?」と聞くと「強制連行なんて、そんな事はなかった」と言ってましたよ。
事実、そんなことはありえないんですよ。
日本でも東北の貧しい家に女の子が生まれたら、売って口減らしをしたんです。
台湾でも同じですよ。12~13歳になったら売り出される、当時はそういう貧しい時代だった。
日本軍は人権にも気を配っていたから、軍の慰安婦になれると言ったら、彼女たちにとっては大出世で・・・
みんな、なりたがりこそすれ、そんな強制連行なんてことは考えられないんですよ。

普通、売り飛ばされたら、まともにお金もピンはねで自分の懐には入ってこないし。病気になったら使い捨てで、その辺に放り出されて、それで終わりなんですよ。
それが当然だった。
それなのに軍の慰安婦になったら、きちんと収入は得られて貯金もできる。
その上、衛生管理はきちんとしてもらえるし、言うことないんですよ。

コンドームだって、普通の女郎屋では、そんなもの着けないんですよ。
とにかくそんなことは、調べればすぐに分かる話であって、なんで日本では誰もきちんと調べて、そんなことはなかったという人が出てこないのか・・・
謝るばかりで、どんどん話が大きくなっていってしまう。
こういう事は、話が出た時点で、一刻も早く調べて決着をつけないとダメなんだ。




許文龍の発言に対する反響とその後

2001年2月7日、同書が台湾で出版されると、許文龍氏の発言が問題となり、マスコミからの批判が起きる。
2001年2月25日、氏は記者会見を開くと、慰安婦を二度も時代の荒波にさらす結果になった事を謝罪する。しかし、氏は「慰安婦は父母に売られた婦女子だ」と改めて強制連行を否定。
この記者会見と否定発言の内容は、中国紙「人民網日本語版」(2001年3月2日)でも取り上げられ、さらに批判される。
他方、台湾の新聞・聯合報は、
台湾の新聞・聯合報(28日付)

屏東県里港郷に住む90歳の蘇嘉謨(元医師)さんは27日、 60年前に海南島に3ヵ月いた経験に基づき、「彼が知っている慰安婦は、多くが自主的なもので、許文龍氏の発言は部分的には正しい」と証言した。


と、当時の慰安婦を知る医師の証言を記載し、許文龍の証言を支持。
同日、台湾の高雄市にある医者と教授の団体「台湾南社」は、許文龍氏を応援する為、書店で『台湾論』を大量に購入する。

なお、台湾で許文龍氏の発言に対する支持・批判の声が起きる中、日本のテロメディア・朝日新聞(2001年3月3日東京朝刊)は、許文龍氏は、『台湾論』に記載された自分の発言について「そんな発言はしていない」と主張したと、記者会見の内容と大きく異なる内容を報じた。

*台湾(中華民国)=元は、1885年に清国が新設した台湾省に属す、東アジア・太平洋の西岸に在る台湾島を中心とした地域の名称。
日清戦争後、日本が割譲し、1895年4月17日から1945年10月25日まで、日本が統治を行った。
日本から独立後は、大陸から戦いに敗れて逃れてきた国民党政権の支配を受けた。
現在の台湾は、「台湾の主権は大陸(中国共産党)に帰属すべきだ」という泛藍連盟派と、「主権は大陸には属さない」と台湾の独立を望む泛緑連盟派に別れ、対立を続けている。





2.フィリピン軍司令官に「軍隊における忠誠の見本」と讃えられた小野田寛郎が語る慰安婦の実態


 小野田寛郎
1922年和歌山県海南市に生まれ。
1942年、現役兵として歩兵第61連隊に入隊。
転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、当時軍の上層学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業する。
1944年12月、フィリピンのルバング島に着任。
終戦を迎えても、その事実に気づかず、密林にこもってゲキラ活動を展開。
二人の部下が戦死した後も、たった一人で任務を遂行。
戦後30年の歳月を経て、1974年3月9日、かつての上司・谷口義美元少佐が任務解除命令を出した事により、ようやく帰国。
帰国後は、すっかり変わり果てた日本社会に馴染めず、ブラジルに移住。
2004年12月17日、ブラジルで、サントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章。
『正論』2005年1月号「私が見た従軍慰安婦の正体」

◆漢口の「慰安所」を見学

商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。
(中略)
私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。
半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれ。ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。


◆どこにもいなかった「性的奴隷」

ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねばならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。
私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。
彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。
先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
(中略)
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性(さが)が存在するからだ。
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。





3.韓国側の研究者による慰安婦問題への批判の声


韓昇助 高麗大学名誉教授 正論4月号 2005年

水準以下の左翼的な心性の表れのひとつに従軍慰安婦の問題がある。共産主義世界では、性も革命の武器として活用せよという言葉がある。
太平洋戦争中に韓国人女性が日本軍の性的慰安物として利用されたといって、謝罪と賠償を要求し続けている様は、日本を奈落に突き落としてしまおうとした自分たちがむしろ先に落ちるという「邪悪さと愚かさ」の代表例ではなかろうか。
戦争中に軍人たちが女性を性的慰安物として利用するのは日本だけのことではない。日本が韓国の女性を戦争中にそのように利用したということも、戦争中の一時的なものであって例外の現象だった。そうした戦争の犠牲者が数万、数十万だったのであれば5W1Hの原則に従った明確な証拠を探し出し、正式に議論しなければならなかった。
しかしそんなに多い数ではなかったのに、そのような辱めを受けたと云う老婆を引き連れてきて誇張した事実をふりかざし何度も賠償金を要求する。こんなことが高尚な民族のふるまいといえるだろうか。
韓国の新聞や放送は何故このような老婆たちの行動や反日感情を刺激する記事を熱心に報道するのか。性の問題は金にかえらえぬことだというのに、なぜ金の問題と結びつけてまで恥さらしを続けるのか。このような恥さらしをしてどうして偉大な民族であると言えるのか。






インドネシアの場合



1993年、慰安婦訴訟を起こしていた高木健一氏らがインドネシアに訪問。
「慰安婦は名乗り出れば二百万の補償金がもらえる」という扇動が行われる。
インドネシアで200万円といえば、日本円で2億円に相当し、数世帯が一生遊んで暮らせる額である。
その為、実に2万2千人もの人々が「慰安婦被害者だ」と名乗りを上げ、大騒動となる。(なお、戦時中インドネシアに駐留していた日本兵は二万に過ぎない)
1996年には、中京テレビ製作のドキュメンタリー「IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には」が報道され、インドネシアの慰安婦の実態を広く伝えた。


実は、悪質な仕掛けがあった中京テレビ製作のドキュメンタリー番組
有名ドキュメンタリー番組『ドキュメント‘96』の、「ianfu・インドネシアの場合には」における情報操作!
週刊言志人 1997年5/26号 中宮崇



問題となっているのは、96年9月29日放送分の、「ianfu・インドネシアの場合には」。
(中略)
まず、元従軍慰安婦とされる女性の証言。彼女は何者かに拉致されて慰安婦とされたらしく、字幕は「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。日本兵に車に乗せられたのです」となっている。
ところが実際には彼女はこんな事は言っていないというのだ。
正確に翻訳すると「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。オランダの車、いや、日本の車に乗せられたのです」となるという。
番組の字幕に出ていたような「日本兵」などという言葉は、どこにも出てこない。番組が勝手に書き加えたのである。極めて悪質だ。
女性の証言を忠実に検証するなら、「買い物の途中で、何者かに拉致されて車に乗せられた」という事しか言えないはずなのに、番組は「日本兵が拉致したのだ」という勝手な解釈をした上で、そのような情報操作を全国番組で垂れ流したのだ。これはもう、モラルうんぬんの問題を越えて、放送法違反という、市民全体に対する犯罪行為である。早いところ警察に動いてもらわねばならない。

番組の情報操作行為はこれだけに止まらない。次に紹介するのは、現在タンジュブリオクという所に住んでおられる元慰安婦とされる女性の証言。
番組の字幕は、「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっちゃったんです。私 たちは無一文で置き去りにされたんです。手元に残ったのはお金じゃなくてキップ(軍票?)だけだった。キップという ただの紙キレだけ」
となっているが、正確に翻訳すると「はい、いま私が一番つらい事はこうなんです。私は体を悪くしているのでゆっくりしゃべります。(戦争が終わって)散り散りになって帰るとき…あの朝鮮人は誰だったろう。全員いなくなってしまったんです。一銭も手元に残されませんでした。キップが残されただけでした。紙キレのお金、それをキップと言っていました」
話の流れからして、「あの朝鮮人」というのは慰安所の経営者の事らしい。番組は経営者が朝鮮人だったということを隠し、わざとその部分を訳さなかったばかりか、勝手に「日本人」などという言葉を挿入して、あたかも日本人が慰安所を経営して、彼女たちを置き去りにしたというような大嘘を平気で流したのだ。いったいどういうつもりか?日本のテレビ局は、普段からこんなトンでもないことを平気でやっているのか?

三つ目に、スカブミ第4中学校で教師が、日本占領時代についての授業を行っている場面。先生の発言についての番組の字幕は、「社会面での苦悩の一つに女性の問題があります。女性たちは、「学校に行かせてやる」と誘われました。でも日本軍の性欲を満たすために使われたのです。女性たちはその地位をはずかしめられたのです」となっている。
ところがこれも、実際には先生は、「「学校に行かせてやる」と誘われました」などとは発言していないのだ。これも番組が勝手に付け加えたのである。これによって、慰安婦たちがあたかも、誰かに騙されて連れてこられたのだというような印象を与えるような「でっち上げ」発言になっている。
最後に、取材班が元従軍慰安婦の女性と一緒に、かつての慰安所の建物を訪れるシーン。
通訳が元慰安婦の女性に「この建物は当時のままですか、それとも改装されていますか?」と聞いているのであるが、女性が、「もう、違う」と言っている部分を番組では全く訳していない。まあ、この点に関しては他の点と違って「嘘」というような性質のものではないのかもしれないが、番組の全体にわたって、慰安婦問題を扇動的に扱おうとする意図が隠されているのだという傍証となるかもしれない。
「ドキュメント‘97」は、市民団体や左翼団体にとってのバイブルとでもいうべき番組である。実際筆者も、この番組を今まで興味深く見るとともに、社会問題について考えるときの参考としていた。ところがそのような番組が、このようなとんでもない悪質な情報操作行為を行っていたのだという事が暴かれてしまった。もはや日本には、信用すべきテレビ番組など無くなってしまったのかもしれない。




この事件を取材したアセアンセンター代表・中嶋慎三郎
中嶋慎三郎

1919年、東京生まれ。
府立実科工業卒。昭和十四年に入隊し、各地を転戦。
現在は、アセアンセンター代表。編著に『アジアに生きる大東亜戦争』ほか。
塩川財務大臣と50年来の友人。総理大臣の特使として、
何回もインドネシアやマレーシア、サウジアラビアに派遣。
現在のインドネシアのバンバン・ユドヨノ大統領や、前大統領ともホットラインをもつ日本で唯一の民間人。また、現在のインドネシア経団連のヒダヤット会長は、中島先生の弟子にあたる。

「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」 中嶋慎三郎 祖国と青年 1996/12
この番組を見た、英字紙「インドネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長が、直接、中嶋慎三郎に語った言葉


ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。
「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない。

*ちなみに、アリ会長と中嶋氏は、三十年来の親友である。


中嶋慎三郎氏が、インドネシア閣僚から告げられた言葉

今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください。



陰謀に気づいたインドネシア側の対応
1996年11月14日、情報省ビル会議室の記者会見にて、スエノ社会大臣の発表
1)インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。
2)しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
3)日本との補償問題は、1958 年の協定により、完結している。








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