従軍慰安婦の真相
<解説編>


戦後補償を訴える元従軍慰安婦 軍の関与を示す公文章



1.従軍慰安婦問題の経緯
2.従軍慰安婦問題の検証
3.日本人が作った慰安婦問題





従軍慰安婦問題の経緯



以下、「国際派日本人養成講座」のコラムを通して、慰安婦問題の経緯を追う。
<転載許可済み>
国際派日本人養成講座 編集長・伊勢雅臣
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
「従軍慰安婦」問題(上)H11.09.25
■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■

米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦からの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。


女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000 円の前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還している。経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月に1000〜2000 円、兵士の月給は15 日〜25 円。
引用元)「慰安婦の戦場の性」 秦郁彦 新潮選書 1999/6 270頁

慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、・・・・寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された

引用元)同書の275頁
原文)米国立公文書館所蔵

また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポートを裏付けている。


支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。
将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像をみに行った・・・・ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母の無事を祈って帰ってきた。
引用元)「慰安婦の戦場の性」 秦郁彦 新潮選書 1999/6 276頁


ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万6145 円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。
千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在の貨幣価値なら、4〜5千万円程度の金額を、3年足らずで貯めたことになる。
参考)「闇に挑む!」 西岡力 徳間文庫 1998/9 301頁

「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery(軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひたすら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。
しかし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されている。一体、どちらが真実に近いのか?



26145 円の貯金があったという文玉珠
毎日新聞 1992 年5 月22 日の記事

第二次世界大戦中『従軍慰安婦』として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めていた韓国・大邸市在住の文(ムン)玉珠(オクス)さん(68 歳)が11 日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、預けた貯金の原簿があったことが分かった。(中略)文さんは『個人の請求権は消滅していない。
当時「日本人として貯金した個人のお金だから直ちに返して」と訴えている。(中略)
原簿によると43 年6 月から45 年9 月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円となっている。



以下は、日本陸軍将兵の年俸と月給。
文玉珠の貯金が、いかに巨額であったかを物語っている。

昭和史研究所会報1999年12月号
日本陸軍の階級別年俸 1943年7月現在 以下は月給
大将 6600円 曹長 75~32円
中将 5800円 軍曹 32~23円
少将 5000円 伍長 20円
大佐 4440~3720円 兵長 13.5円
中佐 3720~2640円 上等兵 10.5円
少佐 2640~2040円 一等兵 9円
大尉 1860~1470円 二等兵 9~6円
中尉 1130~1020円
少尉 850円





■2.慰安婦問題の経緯■

まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。

1)昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の中で、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表。
朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌年にかけ、4回にわたり、報道。
2)同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
3)同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示募集含め統制・監督」と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。
4)同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあった」と発表。

この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機として、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記述されることになっていった。

今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけの事実に基づいていたのかが明らかになってきた。次項、この4点を検証する。








従軍慰安婦問題の検証


国際派日本人養成講座 編集長・伊勢雅臣
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
「従軍慰安婦」問題(上)H11.09.25
■3.吉田清治の慰安婦狩り■

まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写している。


若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。


当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開業させていた。戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などは、軍の関与が当然あった。これらは当時、合法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。

「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、軍が組織的に行ったか、どうか」の問題なのである。したがって、吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家的犯罪となる。


■4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物■

吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だが、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、以下のような記事を書いている。

島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。

郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。

現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮したという。
参考)「慰安婦の戦場の性」 秦郁彦 新潮選書 1999/6 323頁


この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつりと起用をやめた。今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。





秦 郁彦

1932年12月12日生まれ 山口県出身
1956年、大蔵省入省。 防衛庁防衛局。防衛研修所(防衛研究所)教官。防衛大学校講師。
1971~1976年、大蔵省財政史室室長。大蔵省大臣官房参事官。プリンストン大学客員教授。拓殖大学政経学部教授。千葉大学教授。日本大学法学部教授。
2003年、同定年退職。
現在、日本大学講師。

専攻は日本近現代史、第二次世界大戦を中心とする軍事史。東大在学中にA級戦犯を含む多くの旧日本軍将校らからのヒアリングを実施した。日本では、最も客観的な実証を重んじる実証史家として知られる。
大蔵官僚時代には、日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版され、現在でも開戦外交史の決定版とされる。
大蔵省財政史室長時に、占領期における財政史の編集に従事した。近現代史に係る多くの事典の編纂でも知られ、特に東京大学出版会より刊行した『日本陸海軍総合事典』は日本軍研究の為の最高権威書である。
家永教科書裁判においては、国側証人として出廷した。


慰安婦問題では、獨協大学名誉教授・中村粲、戦史研究家・板倉由明、歴史教科書研究家・上杉千年らに続き、現地取材により吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の捏造を暴く。
参考)『諸君』1992年7月号、『諸君』1992年8月号、「週刊新潮」1996年5月2・9日ゴールデンウィーク特集号「従軍慰安婦強制連行 『虚偽レポート』の元凶」



■5.名乗り出た慰安婦■

次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が」名乗り出たと報じた。

しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。ある韓国紙はそれを次のように報じた。
出典)「闇に挑む!」 西岡力 徳間文庫 1998/9 291頁


「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」

「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付

当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。
国家による組織的な強制連行とは関係ない。

そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定されたもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在していない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。

さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかった。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員ではなく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であると読者に思い込ませるための造語である。

金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であり、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内容はよく知っていたはずである。

金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊として連行された」というこの記事は槙村記者による、意図的な捏造記事である。その後の訂正記事も出していない。



金 学順
1923年 中国東北(満州)の吉林省に生まれ
1991年8月14日、慰安婦被害者として初めて名乗り出る。韓国の記者会見では、「義父に売られた」と証言。
1991年12月16日、日本政府に対して謝罪と賠償を求めて提訴。
 訴状内容 

1923年、中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌へ戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、14歳から三年間キーセン(妓生)学校に通った。
注釈)キーセン=芸者・公娼の意味
1939年、「金儲けができる」と説得され、一歳上のエミ子とともに養父に連れられ中国へ渡った。
北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元チャン)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子どもを得て終戦の翌年、韓国へ帰った。
朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコものむような生活を送った。
身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め、謝罪すべきである。

*金学順の訴えは、「自分の人生の不幸」に対する補償であり、「義父に売り飛ばされた」と主張していた。しかし、彼女は後に「日本軍に強制連行された」と証言をすり替えている。
変更した証言の出典)京都新聞1997/12/16付け夕刊(ソウル16日共同)





■6.強制連行された慰安婦はいたか?■

韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。
今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。
結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。
出典)「闇に挑む!」 西岡力 徳間文庫 1998/9 275頁


■7.軍の関与とは■

次に宮沢首相の訪韓直前に発表され、公式謝罪に追い込んだ
3)の「慰安所、軍関与示す資料」の朝日新聞記事はどうか。
発見された文書とは昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」であり、その中では、
民間業者が慰安婦を募集する際、@軍部諒解の名儀を悪用、A従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、B誘拐に類する方法を使って警察に取調べられるなどの問題が多発しているので、業者の選定をしっかりし、地方憲兵警察と連繋を密にせよ
参考)「闇に挑む!」 西岡力 徳間文庫 1998/9 267頁

と命じている。すなわち「関与」とは、民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察と協カしてやめさせようとした事なのである。
この内容を「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示募集含め統制・監督」とタイトルをつけて、一面トップで報道し、さらに次のような解説を載せた。


従軍慰安婦。1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる。


これらをあわせ読めば、ほとんどの読者は、「日本軍が組織的に強制連行に関与した」と思い込むであろう。まことに巧妙なひっかけ記事である。
この記事が、狙い済ましたように、宮沢首相訪韓のわずか5日前に発表されたことから、絶大な効果を発揮した。ソウル市内では抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれる中で、宮沢首相は事実を確認する余裕もなく、8回も盧泰愚大統領に謝罪を繰り返した。


*海外の方には、この宮沢首相の「事実確認をせずに謝罪する」という行為が理解できないと想われる為、補足する。
欧米では、謝罪とは「罪を認めて責任を取る事」を意味する。
しかし、日本では、謝罪とは「相手の感情をなだめ、争いを避ける事」を意味している。
(ゆえに日本では、込み合った電車の中で他人の足を踏んでも、踏んだ側と踏まれた側が、共に謝罪し合うという現象が良く見られる)
宮沢首相の謝罪は、まさに日本式の「相手の感情をなだめる為の謝罪」である。



強制連行の証拠とされた公文章
軍慰安所従業婦等募集に関する件
以下は分かり易く現代語訳
 件名  『軍の慰安所従業婦等募集について』

副官より、中国北部方面軍、及び、中国中部派遣軍 参謀長宛の通牒案

日中戦争における慰安所設置の為、募集業者が慰安婦を募集する際、“日本軍の名義・権威を利用し、その結果 日本軍の威信を傷つけ、庶民の誤解を招く事例”や“従軍記者、慰問者などを通じて、不統制に募集し、社会問題を惹起する事例”や“慰安婦を募集する業者が相応しくない場合、誘拐に類した方法を使い、警察の検挙・取調べを受ける事例”など注意を要する事例が少なくない。
将来、慰安婦の募集に関しては、派遣軍がこれを統制し、慰安婦募集業者の選定を周到・適切に行い、慰安婦募集に際しては、関係地方の憲兵、警察当局と協力すること。
日本軍の威信保持、また社会問題上、遺漏のないよう十分配慮することを依命、通牒する。

1938年3月4日






日本人が作った慰安婦問題


国際派日本人養成講座 編集長・伊勢雅臣
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
「従軍慰安婦」問題(下)H11.10.02
■1.強制を示す文書はなかった■

宮沢首相は、盧泰愚大統領に調査を約束し、その結果が、
4)翌平成5年8月4日の河野官房長官談話となった。
政府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあった」と発表され、慰安婦強制連行があったことは、政府の公式見解となった。
この発表のために、政府はおおがかりな文書調査と、元慰安婦への聞き込みを行った。前号冒頭に紹介した米軍の報告書も、この文書調査で発見されたものだ。それでは、いかなる事実によって「官憲等が直接に荷担した」と結論づけたのか?
この調査を実施した平林博・外政審議室室長は、平成9年1月30日、参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問に対し、次のような答弁をしている。


政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしました。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せませんでした。

ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、そういうことでございます。
引用元)「慰安婦強制連行はなかった」 太子堂経慰 展転社 1999/2 204頁



■2.総合的に判断した結果■

資料はなかったが、「総合的に判断した結果」、強制性があったという。この判断の過程について、当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。


強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしてもなかった。結局談話発表の直前にソウルで行った元慰安婦十六名の証言が決め手になった。彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しいという韓国側の強い要請に応えて、納得できる証拠、証言はなかったが強制性を認めた。

もしもこれが日本政府による国家賠償の前提としての話だったら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求める。これは両国関係に配慮して善意で認めたものである。
元慰安婦の証言だけで強制性を認めるという結論にもっていったことへの議論のあることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから弁解はしない。
引用元)櫻井よしこ「密約外交の代償」「文塾春秋」平成9年4月号



元慰安婦からの聞き取り調査は、非公開、かつ裏付けもとられていないと明かされているが、そうした調査の結果、「韓国側の強い要請」のもとで「納得できる証拠、証言はなかったが強制性を認めた」ものなのである。

聞き取りが終わったのが7月30日。そのわずか5日後の8月4日、河野談話が発表された。同日、宮沢政権は総辞職をした。
まさに「飛ぶ鳥跡を濁して」の結論であった。


■3.日本の言論機関が、反日感情を焚きつけた■

「強い要請」を行ったという韓国政府の態度について、石原氏は国会議員との会合で次のように語っている。


もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では私は韓国政府がこれをあおるということはなかったと。むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれども、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こして大きくするという行動を現地へいってやりまして、そしてこれに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなことがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけないという、そういう状況があったことは事実です。
引用元)「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える 若手議員の会編 展転社 1997/12/23 314頁


この「いま申した人物」について、石原氏は「ある日本の弁護士さん」として、名前は明かしていない。

慰安婦問題は、日本の一部の人間が焚きつけた、という認識は、韓国側の盧泰愚大統領の次の発言にも、見られる。


日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。
出典)「文芸春秋」平成5年3月号




盧 泰愚
1932年12月4日生まれ 大邱出身
第13代韓国大統領(在任:1988―1993年)
朝鮮戦争勃発に伴い入隊し、空輸特戦旅団長・第9師団長などを歴任。1981年に退役。
1987年、民主化を宣言(6・29民主化宣言)し、16年ぶりに行われた選挙で大統領当選。
退任後の1995年に政治資金隠匿が発覚。
民衆を武力鎮圧した光州事件でも追及を受け、懲役刑を受ける(1997年12月特赦)。



■4.インドネシアに現れた日本人弁護士たち■

日韓関係と同様、インドネシアとの間でも、慰安婦問題が焚きつけられた。平成5年に高木健一氏(金学順さんらの日本政府に対する訴訟の主任)ら、日本の弁護士3人がインドネシアにやってきて、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した。
参考)「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」 中嶋慎三郎 祖国と青年 1996/12

兵補協会のラハルジョ会長は、「補償要求のやり方は、東京の高木健一弁護士の指示を受け」、慰安婦登録を始めた。会長は取材した中嶋慎三郎ASEANセンター代表に対して、「慰安婦に2百万円払え」と怒号したというから、名乗りでれば、2百万円もらえると宣伝している模様であった、と言う。

インドネシアでの2百万円とは、日本なら2億円にも相当する金額なので、大騒ぎとなり、2万2千人もが元慰安婦として名乗りをあげた。ちなみに、当時ジャワにいた日本兵は2万余である。

この様子を報道した中京テレビ製作のドキュメンタリー「IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には」に、英字紙「インドネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長は次のように語った。
出典)日本テレビ系列「NNNドキュメント’96」の96年9月29日、放送分


ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。
「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない。

注釈)これはアリ会長と三十年来の親友である中嶋慎三郎が、本人から直接聞いた言葉。出典は、前述の「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」

■5.慰安婦番組での仕掛け■

ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出てくるが、ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、
日本語の字幕で


戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。


と出ているのだが、実際には、インドネシア語で、


あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。


と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、戦争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。

■6.あなた方日本人の手で何とかしてください■

この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたことから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党により、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したようだ。
スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を明らかにした。
注釈)1996 年11 月14 日、情報省ビル会議室の記者会見にて

1)インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。
2)しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
3)日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。

インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみは頓挫した。この声明の後で、取材した中嶋氏は、数名のインドネシア閣僚から、次のように言われたという。


今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください。


*兵補=大東亜戦争において、南方地域で日本軍の兵力を補いその補助に充てるため、敵性を有しない原住民のうちの志願者(主としてインドネシア人)から募集した補助兵。主として警備・輸送・補給などの補助的業務に服した。
出典)[戦史叢書102、陸海軍年表 付・兵語・用語の解説]





■7.国内で急速に冷める関心■

地道に調査を進める人々の努力により、奴隷狩りのような強制連行の事実はないことが明らかになると、さすがに慰安婦問題を糾弾する人々の間でも、強制性の定義を修正せざるを得なくなってきた。たとえば、糾弾派の中心人物である吉見義明・中央大学教授は、岩波新書の「従軍慰安婦」で、次のように述べている。


その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはない・・・たとえ本人が、自由意思でその道を選んだように見えるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。
引用元)「従軍慰安婦」 吉見義明 岩波新書 1995/4 103頁


「強制性」をここまで広義に解釈すれば、現代の風俗関係の女性たちも、貧困や失業など何らかの「強制の結果」であり、国家が謝罪と補償をすべきだ、ということになってしまう。さすがにこのような暴論では、常識ある国民の理解を得られるはずもなく、国内の慰安婦問題に関する関心は急速に冷めていった。


■8.国連での攻防■

しかし国際社会では、事実の伝わりにくさを利用して、慰安婦問題をスキャンダルに仕立てようとするアプローチが今も展開されている。その最初は宮沢首相の訪韓直後の平成4年2月17日、日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安婦を人道上の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言をした事である。
平成8年3月にジュネーブで開かれた国連の人権委員会に提出されたクマラスワミ女史の報告書は、家庭内暴力を主テーマにしているのに、その付属文書に「戦時の軍用性奴隷制問題に関する報告書」と題して、半世紀以上前の日本の慰安婦問題を取り上げている。
戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員(社会党→民主党)とともに、デモやロビー活動を行っている。
報告書は、やはり吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上げている。その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、

仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を切り落とし、「肉を茹でて、食べさせろ」と命じた。

などという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生まれ、13歳の時に一人の日本兵に拉致されたという拉致されたというのだが、1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍専用の慰安所はなかった。その程度の事実確認もされていない証言が、4例紹介され、その上で日本政府に対し、被害者への補償、犯罪者の追及と処罰を勧告している。

日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作成し、根回し工作をしたもようだ。西側諸国代表の間では、クマラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、韓国、北朝鮮、中国、フィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。

このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本文は「賞賛する」という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する部分は、takenote(留意する)という最低の評価であった。
出典)「慰安婦の戦場の性」 秦郁彦 新潮選書 1999/6




国連人権委員会(The United Nations Commission on Human Rights)
国際連合の経済社会理事会(ECOSOC)に属する機能委員会の一つ。
しばしばUNCHRと略される。
国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)の協力の基で、国際的な人権保護および課題解決を目的としている。
2006年3月15日には国連総会において組織を発展的に解消し、新たに国連人権理事会(Human Rights Council)を設ける決議が賛成多数により可決された。





■9.情報戦争から、いかに国益と国際友好関係を守るか■

平成10年8月、今度は、ゲイ・マクドゥーガル女史が、旧ユーゴスラビアなど戦時下における対女性暴力問題を調査した報告書を作成したが、その付属文書で、またも慰安婦問題を取り上げ、「レイプ・センターの責任者、利用者の逮捕」と「元慰安婦への法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告した。

慰安所は「レイプ・センター(強姦所)」と改称されている。
しかし、これは人権小委員会の勧告としては採択されず、日本政府はマ女史の個人報告書に過ぎない、としている。

平成11年8月には、米カリフォルニア州上下院が第二次大戦中に日本軍が行ったとされる戦争犯罪について、「日本政府はより明確に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべきだ」とする決議を採択した。この「戦争犯罪」には、捕虜の強制労働、「南京虐殺」とならんで、「従軍慰安婦の強要」が含まれている。
参考)産経新聞 1999/08/27 東京朝刊 4頁 国際2面

カリフォルニア州議会の決議には、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」の影響が指摘されている。チャンの本については、本講座60号で紹介したように、中国政府の資金援助を受けたシナ系米人の団体が支援している。

☆JOG(60) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog060.html

南京事件と慰安婦問題は基本的に同じ構造をしている。チャンの本は、日米関係に対する楔であり、慰安婦は日韓友好への楔として仕掛けられた。これらの問題について、米国や韓国の対応を非難することは、友好関係を破壊しようとする狙いに乗ることになる。

国家の安全を脅かすものは、テポドンや工作船のようなハードの武力だけではない。一国の国際的地位を貶め、友好国との関係に楔を打ち込むような情報戦争が、外国と国内勢力の結託により次々と仕掛けられている。こうした攻撃から、いかにわが国の国益と国際友好関係を守るか、ソフト面の自衛体制が不可欠となっている。








従軍慰安婦の真相(検証編)へ
従軍慰安婦の真相(陰謀編)へ



「印刷用・PDFファイル」
印刷して、日教組の先生や、在日コリアの人に見せて上げましょう。

TOP

別館「反日勢力撃退用・PDF資料館」

本館「2ch裏の歴史と噂話と真相」


inserted by FC2 system