死 体 編

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ニセ斬首クビ
全裸で殺された捕虜たち
二人の車夫の死因





ニセ斬首クビ






「写真A」は、日本の朝日新聞(北朝鮮のスパイ機関)が1984年8月4日夕刊で「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首の写真。日本軍によって首をはねられた人々だという。

「写真B」は、1938年のLife誌の1月10日号に記載された写真。日時は、南京陥落直前の12月14日。場所は、南京郊外の鉄条網のバリケードの上。日本軍によって首をはねられ、楔を打ち込まれた反日中国人の生首であるという。

「写真C」も、「南京大虐殺の証拠写真」として出回っているもの。

以下、本当にこれが、日本軍によって殺され、日本刀で首をはねられた人々の首なのかを検証する。





検証1・本当に日本刀で斬られた生首と比較

「写真D」は、1867年、長野の処刑場で処刑された死刑囚の晒し首。
撮影者は、Felice A. Beato。

「写真E」は、1864年に英国人を殺害した鎌倉事件の主犯格とされる清水清次の晒し首の写真。
横浜戸部暗闇坂上の刑場で死刑の後、吉田橋の袂で三日間晒されている所。
撮影者は、F.ベアト。名刺写真。

日本刀で斬られた生首の特徴

「写真D」「写真E」を見れば分かるように、どの生首も、首の周囲を盛り土を用いて支えられている。
これは、生首に頚椎が残っている為である。

生きた人間の首をはねれば、首の皮や筋肉は収縮する。だが、首の骨まで収縮する事は無い。
ゆえに、頚椎が残っている部分を中心に生首の底面が盛り上がってしまう為、「写真D・E」のように盛り土をして支えねば、台や地面の上に据える事が出来ないのである。

「写真D」の写真の場合、左から、一番目、三番目、四番目、五番目の生首は、うなじを挟み込むような形で、左右の頬が盛り土で支えられている。
二番目の写真は、首全体の周囲を盛り土で支えている。頭蓋骨が後方に傾いているにも関わらず、そのまま後ろに転落する事無く、アゴもズレてはいない。これは、アゴと頭蓋骨の間を繋ぐ頚椎とウナジが残っている為である。
「写真E」も、盛り土でしっかりと両頬をはさみ込んで支えている。


側面から見た頭蓋骨と頚椎 後から見た頚椎
ご覧の通り、頭蓋骨まで七つの頚椎(首の骨)が密接して連なっている。
どの位置を斬っても、必ず幾つかの脊椎(首の骨)が頭蓋骨側に残ってしまう。



検証2・写真A・B・Cの生首は頚椎が存在しない

日本刀で首を斬った場合、頚椎が邪魔になる為に、地面や台の上に据えるには盛り土が必要となる。
ところが、 「写真A・B・C」の生首は、盛り土をしていないのに台や地面の上に据える事ができている。
なぜ、盛り土無しで、据える事ができるのか?
その理由は「写真A・B・C」の生首に頚椎が存在しない為である。

写真Aの骨の状態 写真Bの骨の状態
写真Cの状態

「写真A」は、邪魔な頚椎がない為に、アゴの下が底面となり、頭蓋骨が後ろへと傾く。ゆえに、口が開いた状態になっている。
「写真B」も、邪魔な頚椎がない為、丸太の上にスッポリ乗せる事ができている。
「写真C」は、頭蓋骨が後ろの壁に支えられている為、頭蓋骨が傾かず、口が閉じた状態となっている。
しかし、アゴと頭蓋骨の間を繋ぐ頚椎とウナジが存在しない為、アゴは前方へとややズレている。


ご覧の通り、「写真A・B・C」の生首には、頚椎が残っていないのだ。
日本刀で首をはねたのであれば頚椎は残る。ゆえに、これらは別の方法によって切断された生首である。

頚椎が残っている生首 頚椎のない生首
頚椎が邪魔で、盛り土無しでは据える事は出来ない。
アゴと頭蓋骨の間を結ぶ頚椎とウナジが残っている為、アゴがズレる事も無い。
邪魔な頚椎もウナジもない為、地面や台の上にそのまま据える事が出来る。
後頭部が傾いた時は口が開いた状態になる。
後頭部が壁などに支えられて口を閉じた状態になっている場合は、アゴが前にズレる事が多い。


検証3・用いられたのは押し切り器

では、どんな方法を用いれば、「写真A・B・C」のような頚椎のない生首を作る事ができるのか?
方法は至って簡単である。
中国で盛んに用いられていた“押し切り器”を使えば良いのだ。
“押し切り器”とは、中国人が死刑囚や捕虜を処刑する時に用いていた小型のギロチンの事だ。
(紙を切る時に使う「裁断器」を大きくした物だと思えば良い)

まず、“押し切り器”の台の上に犠牲者の頭を乗せ、喉とアゴの間を広げさせる。
次に、後頭部の外後頭隆起から頤(おとがい)に掛けてのラインに“押し切り器”の刃をあてがう。
最後に、その状態で裁断する。
たったこれだけで、頭蓋骨と第一頚椎の隙間を断つ事ができ、写真「A・B・C」のような生首を作れるのである。

紙用の裁断器を思い浮かべれば分かるが、“押し切り器”という代物は、さほど切断しやすい道具ではない。
少し硬い物に当たったり、切断する対象が十分に固定されていなかっただけで、斬る事が難しくなる。
ゆえに、“押し切り器”は生きた人間ではなく、既に処刑し終わった死体の首を“さらし首”にする為に用いられていたと思われる。
また、無理やり頚椎を押し切っていたのでは、直ぐに刃が壊れてしまう為、前述の頭蓋骨と第一頚椎の隙間を断つ方法は必要不可欠だった事だろう。(しかも、この切断方法ならば、そのまま首を地面に据える事もできる)

左の写真は、中国で行われていた“押し切り器”による首の切断場面。
中国では、首と胴体が離れると、五体満足な体で祖先の霊に会う事ができないとされている。ゆえに、死後も苦しめる為に、銃殺後、さらに“押し斬り器”で死体の首を切り離す事があった。

左の写真では、後頭部の外後頭隆起から頤(おとがい)に掛けてのラインに刃を押し当てる為、犠牲者(死体)は横向きに寝かされている。
刀剣のような鋭利な刃を用いると破損しやすい為、押し切り器の刃は、オノやナタに近い“丸刃”だったと思われる。


番外・ホミサイド・ラボ著「人の殺され方 さまざまな死とその結果」の間違い

ちなみに、一般人向けの法医学書として書かれたホミサイド・ラボ著「人の殺され方 さまざまな死とその結果」(データハウス出版 2006/03 133頁)には、日本刀で首を切断した場合、生首には頚椎が残らないという奇妙な説明が記されている。
その証拠として、著者は江戸時代のさらし首の写真を掲載しているのだが、その写真の生首は全て盛り土で支えられており、明らかに頚椎は残っていた。

なぜ、ホミサイド・ラボは、このような事を主張しているのか?
この主張の根拠となっているのは、その引用元である 高橋長雄著「関節はふしぎ」(講談社 1993/07 28頁)を見れば分かる。
この本において高橋長雄氏は、江戸時代の首切りと試し斬りの専門家である山田浅右衛門は、頭蓋骨と第一頚椎の隙間を断てる特別な斬り方が出来た事を紹介し、「斬首の名人は頭蓋骨と第一頚椎を切り離す切り方を用いていた」と主張しているのだ。
そして、この主張の根拠となっているのは、
「秘剣、豪剣、魔剣」 縄田一男編 415頁(新潮文庫 1990)の渡辺淳一作「項の貌」の内容である。
この「項の貌」において渡辺氏は、「普通の刀なら二百回は首を切れるが、山田浅右衛門の刀は、首を五百回斬っても刃こぼれしなかった」という謎を解く為に、医学的な検証を行っている。そして、山田浅右衛門が斬首した“生首の絵に頚椎が描かれていなかった”という点から、頭蓋骨と第一頚椎の隙間を断つ特別な斬首方法が用いられていたのだと考え、遂には、その特別な斬首方法を突き止めるに至っている。
その方法とは、
第一に、役人が二人掛で科人(罪人)の両腕を後ろに引っ張りつつ、背中を前に押し出させる。そうする事で、科人にウナジを真っ直ぐに伸ばした姿勢を取らせる。
第二に、科人が暴れてアゴを突き出す瞬間を持つ。
第三に、顎を前に突き出した瞬間、後頭部の“外後頭隆起”の真下に正確に刀を振り下ろす。
というものである。
こうすれば、頭蓋骨と第一頚椎の間に生じる五ミリ弱の隙間を切断する事ができ、頭蓋骨と頚椎を切り離せるというのだ。
そして、渡辺氏は、「山田浅右衛門は長年の経験からこの斬り方を無意識にマスターしており、それゆえに、山田浅右衛門の刀は五百回斬っても刃こぼれが生じなかった」と主張している。

しかし、この渡辺氏の検証は全くの間違いである。
なぜならば、解剖学者・森於菟(文豪・森鴎外の長男)が、1877年に浅右衛門が処刑した死体で解剖実習を行っているが、その時の死体の首の切り口について「時に上にそれて下顎に切りかけ、または下に外れて肩口に切り込み・・・」と、切り口は必ずしも一定ではなかった事を証言しているからだ。山田浅右衛門は、渡辺氏がいうような斬り方をしていないのである。
参考)「父親としての森鴎外」 森於菟著 筑摩書房  1993年

また、渡辺氏は“生首の絵に頚椎が描かれていなかった”事を根拠に、頭蓋骨と頚椎を切り離す斬首方法を行ったと解釈しているが、絵はあくまで絵である。幕末のさらし首の写真を確認した所、いずれの首にも頚椎は残っており、盛り土で支えられていた。

そして、何よりも、渡辺氏が検証を始める切っ掛けとなった「普通の刀なら二百回は首を切れるが、山田浅右衛門の刀は、首を五百回斬っても刃こぼれしなかった」という伝承は、明らかに誤伝であり、日本刀の常識から考えて有り得ない話である。百回、二百回とそんなにスパスパ斬れるものではない。


ちなみに、渡辺氏は「山田浅右衛門だけが頭蓋骨と頚椎を切り離す、特別な斬首ができた」と主張しているのに対し、それを引用した高橋氏の著書では「斬首の名人は、頭蓋骨と第一頚椎を切り離す事ができた」という主張に変わっている。
そして、さらに高橋氏の主張を引用したホミサイド・ラボの著書では「日本刀で斬首を行うと頚椎が残らない。頚椎が残らないのが、日本刀で斬首された生首の特徴」という主張に変わっているのである。
実に、引用を重ねる内に、著者たちの思い込みが追加されて行き、「山田浅右衛門だけが、頭蓋骨と頚椎を切り離す斬首ができた」(渡辺著)→「斬首の名人たちは頭蓋骨と頚椎を切り離す刀法を行った」(高橋著)→「日本の晒し首には頚椎が無い。だから支え無しで据えることができる」(ラボ著)という具合に、間違いがどんどん大きくなっているのだ。


以上、ホミサイド・ラボ著「人の殺され方 さまざまな死とその結果」(データハウス出版 2006/03 133頁)に記されている「日本刀で首を斬ると頚椎が残らない」という説明は全くの間違いであり、逆である。
誰かが、この間違った説明を根拠に「写真A・B・Cの生首には頚椎が無い。これは日本刀で斬った証拠だ」と言い出すかも知れない為、先に、ここに明記しておく。
ついでにいうが、同書に記載されている日本刀に関するその他の解説も、全てデタラメである。
(ホミサイド・ラボ氏は、他人が書いた法医学の知識を引用して並べ、それにカゲキな死体写真を載せているだけであり、本人は全く法医学の知識を持たない素人だと思われる)



検証4・実はキャプションがカットされている

しかも「写真A」は、1931年に会寧にある文房具兼写真屋で「処刑された馬賊の首」として売られていた写真である事が判明している。
出典)世界日報社刊 1986年1月13日付 一面トップ

さらに、オリジナル写真には「鉄嶺にて銃殺された馬賊の首」と明記されているにも関わらず、この部分がカットされていた。

この他にも、キャプションを塗りつぶしたタイプのものも出回っている。

この写真の持ち主は、神奈川県藤沢市天神町に住む建築業、佐藤進氏(74)。
佐藤氏は昭和6(1931)年10月、当時の朝鮮と中国の国境に位置する会寧の工兵19大隊に入隊し、歩兵75連隊とともに国境警備にあたった。
佐藤氏によれば、同年末から翌年にかけて、この会寧にある文房具兼写真屋で、約10枚買った写真の1枚が、「朝日新聞」昭和59(1984)年8月4日付夕刊の“南京大虐殺”報道に用いられた写真の一枚と同じものという。白黒でタテ9.7センチ、ヨコ13.5センチの大きさである。
佐藤氏は「写真はせいぜい1枚5銭だった。ちょっと変わっている写真だったので買った。
同年配の兵隊仲間ならこの写真を持っている人もいるでしょう」と語る。
引用元)世界日報社刊 1986年1月13日付

現在の北朝鮮、会寧で買った「馬賊の首」の写真を手にする佐藤進氏=昭和61(1986)年1月12日午後、藤沢市の自宅で(上写真)




結 論

「写真A」「写真B」「写真C」の生首は頚椎が残っていない事から、これは日本刀で斬られた首ではない。
“押し切り器”を用いて切断された首だと思われる。
“押し切り器”は中国側の処刑方法だ。処刑した人間の首を切り離す為に用いられていた。
処刑後、さらにその首を切り離すのは、「首と胴体が離れれば、死後、祖先に五体満足な体で会いにいけない」という中国独特の死生観が存在する為である。

よって、これら生首は、中国側によって処刑された馬賊の類だと思われる。
事実、「写真A」に至っては、馬賊の生首として売られていたのだ。

こういった残酷写真に、「日本軍の蛮行」という偽の説明を付けたものが、既に日中戦争当時から出回っていたのである。


★追加★
「写真C」の左から四番目の首は、アゴの状態からみて頚椎が残っている可能性がある。
生首が傾き地面から浮いているにも関わらず、アゴが全くズレていないからだ。
頭蓋骨と第一頚椎を切り離さずに押し切ったのか?それとも別の方法で切られているのか?
それとも、生首の下が影になっている為、地面から浮いているように見えているだけなのか?
この画質では、判断しようがない。
もう少し画質の良い写真が手に入ったら、「写真C」は、さらに鑑定してみようと思う。








全裸で殺された捕虜たち






左は、川岸に散乱する死体。
これを撮影したのは、東京目黒輜重隊の村瀬守保。
場所は南京城外。揚子江岸の下関のどこか。
日時は、1937年の12月頃。
これは、その時に彼が撮影した写真の一枚。
彼が12月13日から二週間ばかり足止めされた後に揚子江に行ったと言っている為、それが本当ならば、撮影したのは27日以降という事になる。

1937年12月13日は、日本軍によって二十万以上の中国人(兵士・捕虜・民間人含む)が殺されたとされる南京大虐殺が発生したとされる日である。
ゆえに、この写真は大虐殺の証拠写真として用いられている。
村瀬氏の証言

十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。
私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。
どこからともなく城内で大虐殺が行われている、という噂が流れてきました。捕虜を南京の背後ある、紫金山のふもとへかりたて、機関銃を打ちまくって数千いや、数万人も殺りくしたというのです。

(17)大虐殺のうわさが…
ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。

「私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録 村瀬守保写真集」(村瀬守保著 日本機関紙出版センター 2005/03)より



証言の不審点

日本では、共産圏と繋がりを持つ団体が、「平和運動」「人権運動」「反戦運動」と称した活動を行っている事は承知の通りである。「平和」とは程遠い事をしてきた新左翼すら、同様の活動を行っている。
むろん、彼らの口にする「平和」や「反戦」は、反政府活動を正当化する為の建前に過ぎない。
(だからこそ彼らの多くは、中国や北朝鮮の軍国主義や人権侵害には目をそむけ、時には擁護する)
彼らは、テロ活動を「人権運動」「反戦運動」と称する事でカモフラージュし、「日本の人権侵害」や「日本の戦争犯罪」を批判するという形で、日本政府を合法的に攻撃しているのである。
彼らは、この合法的に攻撃できるカードを増強する為に、捏造まで繰り返している。
吉田清次という偽加害者を用意し、「架空の戦争犯罪」を証言させる事で、日本政府を攻撃する口実と成したのは良い例である。
朝日新聞が、日本の国際的信用を失わせる為に、故意に誤報を流し続けるのは、まさにこの活動に加担している為だろう。
参考)朝日新聞を購読しましょう
参考)従軍慰安婦の真相<検証編>



ならば、この村瀬氏の証言は、そのまま信用する事はできない。
はたして彼の証言は、事実に基づくものなのか?それとも例の如く左翼団体が用意したものなのか?
少なくとも村瀬氏の証言は、上記に引用した部分だけでも不審点が存在する。


<不審点1>
村瀬氏は、「女子供の死体も混ざっているようだった」と主張しつつも、肝心の写真には、女子供の死体らしきものは写っていない。
また、東京裁判に提出された死体の埋葬記録でも婦女子の比率は0.3%に過ぎず、婦女子の死体はほとんど無かったとされている。


<不審点2>
村瀬氏は、「死臭で息もつけない」と主張しているが、南京の12月の平均気温は4.4度であり、1月に至っては2度である。

南京の平均気温の参照元
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257eZenTech/world/infomation/kion/china_nanjing.htm

このような気温下の死体は、ちょうど冷蔵庫に保存されている状態に等しく、ほとんど腐敗しない。
南京大虐殺が始まったとされる日時は、12月13日である。そして、村瀬氏が死体の場所に来たのは12月27日以降。
13日以降に殺された死体であれば、気温から考えて、ほとんど腐敗していないはずである。
また、それ以前に殺されて腐敗が進んでいた死体であったとしても、平均気温2度の1月に近い27日以降であれば、その腐敗すら停止してしまう。
にも関わらず、「死臭で息もつけない」というのは妙な話である。


<不審点3>
村瀬氏の証言を信じるならば、これらの死体は、村瀬氏が撮影した川原で殺され、川岸に遺棄された死体という事になる。
だが、どう考えてもこれらの死体は、この場所で殺され、この場所に遺棄された死体ではない。
その根拠は、死体の位置にある。

川に死体を遺棄するのは、下流に流す為である。(当たり前の話だが)
流すのが目的であれば、当然、大量の死体が直ぐに流れる場所に遺棄する。
すなわち、川岸に近い深瀬で、十分な水流がある場所だ。
ゆえに、川岸に近い深瀬に“死体溜”ができ、そこより下流の中ほどに向かって、流されかけた死体がバラつく。
写真をご覧頂きたい。
どうみても場所は浅瀬である。しかも“死体溜”もなく、川岸に沿って死体が並んでいる。
大量の死体を流れない浅瀬に遺棄することは無い。わざわざ川岸に沿って死体を並べて遺棄する事も無い。

また、写真を良く見れば、木片など様々なものが川岸に溢れており、それが死体の下敷きになったり上にかぶさったりしている事が分かる。
中には拡大写真「A」のように泥に埋もれている死体も存在する。
これは、死体がこれら木片や泥と一緒に押し流されてきた証拠である。
「場所が浅瀬」「川岸に沿って並んでいる」「木片等が死体の上や下に溢れている」の三点から考えて、明らかに、この死体は上流から流れ着いたものである。


このような不審点から考えて、村瀬氏の証言は、死体の写真を虐殺の証拠にする為に左翼側が創作したものだとも考えられる。
あるいは、村瀬氏の記憶違いかのいずれかだろう。

ならば、この写真に写っている死体は何なのか?
以下、検証によって、この死体の正体を追跡する。



検証1(死体は捕虜)

以下の拡大写真は、たまたま見かけた左翼サイトからパクってきたもの。
ご覧の通り、ほとんどの死体が後手に縛られている。
この事から、死体は捕虜である事が容易に分かる。



検証2(事故死ではなく他殺)

また、この捕虜の死体は“凍死”や“溺死”ではない。

人間が凍死する場合、死に際(ぎわ)に四肢を縮め、その姿勢のまま死亡し硬直する。
だが、各死体は四肢を縮めてはおらず、束縛されていない足は伸びたままである。
ゆえに、全裸で放置された為に凍死した訳でもなければ、渡河中に凍えて死亡した訳でもない。

人間が溺死する場合、水を飲んでしまい、胸(肺に水が溜まる)や腹部が膨張する。
また、束縛された両手を解こうと激しく暴れる為、手首を損傷し、そこが腐敗しやすくなる。
(特に水中では、手の皮が真っ先に腐敗・剥離する)
だが、拡大写真「B」「C」を見ても、別段、腹部や胸に目立った膨張は見られない。
写真「D」「E」を見ても、手元には激しい腐敗は見られない。
ゆえに、溺死した訳でもない。

これらの死体は“凍死”や“溺死”ではなく、“殺害”されてから川に投げ捨てられているのだ。
少なくとも、“凍死”“溺死”といった、事故の可能性を含む死に方はしていない。



検証3(死亡日時は12月13日以前か?)

通常、人が死亡すると、最初に下腹部に変色が現れる。
(最初に下腹部が変色するのは、腸内細菌が原因である)
続いて上腹部胸部へと変色が続く。
2〜3日も経つと、血液は腐敗溶血し、皮膚全体に静脈に沿って腐敗網と呼ばれる変色が生じる。
そして、3〜4日も経てば、表皮の下にヘモグロビンなどの液体や腐敗ガスが溜まり、皮膚は焼けただれたようになり膨張が起きる。
これを“腐敗水泡”という。
五日目で、全身に腐敗ガスが溜まりだし、全身の膨張が生じる。
しかし、気温が五度以下であった場合、この速度は遅れ、腐敗はほとんど生じない。
(この点は法医学の先生に尋ねて確認しました)
南京の12月の平均気温は4.4度であり、1月は2度にまで下がる。

南京の平均気温の参照元
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257eZenTech/world/infomation/kion/china_nanjing.htm

このような気温下である以上、この捕虜たちが12月13日以降に殺されたのであれば、腐敗は生じないはずである。
にも関わらず、死体には部分的に“腐敗水泡”が出来ている。

ならば、12月の半ばは、まだ腐敗が生じる程度の気温を保っていたのか?
否。
拡大写真「A」「F」をご覧頂きたい。
「A」は土に埋もれ、「F」は全身に泥をかぶっている。
(ズボンにも泥がかぶさっている為、“腐敗水泡”が泥に見えている訳ではない)
カスパーの法則では、土の中に埋もれた死体は通常の八倍の速度で腐敗が進む。
ゆえに、腐敗が生じる程度の気温を保っていたのであれば、写真「A」「F」の死体はもっと腐敗が進んでいるはずである。
しかし、写真「A」の死体は、腐敗ガスによる全身の膨張が見られないばかりか、土から突出した両手の指がまだハッキリと原型を留めている。
(全身の膨張が始まると、泥に埋まった死体は大きく地表に盛り上がる)
写真「F」の死体も、全身の膨張は見られない。

さらに、前述の「証言の不審点」で詳細したように、これらの死体は上流から流れ着いたものである。
水中に投げ込まれた死体は、皮膚角化層の膨化によって2〜3時間の内に手の皮がふやけて膨れ上がる。そして、一日か二日で手の皮が袋状に剥離する。しかし、死体の写真「D」「F」を見ても、そのような痕跡は全く見られない。
ゆえに、水中に投げ込まれた時から、既に腐敗しないほど気温(水温)が下がっていた事が分かる。

この事から、これらの捕虜は、11月から12月初旬に掛けて殺されており、少しばかり腐敗した後、4.4度という12月の気温のせいで腐敗が停止したと思われる。



検証4(11月以前の可能性すらある)

写真を良くご覧頂きたい。
白黒写真とはいえ、各死体の腐敗していない部分が、異様に白んでいる事が分かる。

冷たい水中に沈んでいた死体は、脂肪と蛋白が脂肪酸とグリセリンに分解され、さらに脂肪酸がCaイオンやMgイオンと結合して鹸化し始める。
この現象が生じると、死体は腐敗が停止し、初期の段階では白み出し、最終的には灰色に変わる。
環境によるが、早くて半年、遅くとも三年も経てば、死体はまるで蝋人形のようになる。
これを“死蝋化”という。
南京の冬季の平均気温の低さを考えれば、冬季に川底に沈んだ死体が“死蝋化”し始めてもおかしくはない。
そして、死体が異様に白んでいる事から、この捕虜は“死蝋化”し始めていた可能性が考えられる。

もし、“死蝋化”し掛けていたのならば、この捕虜は11月どころか10月に殺されていてもおかしくはない。
すなわち、10月に殺されていても、“腐敗水泡”が生じて間もなく川に遺棄されたのであれば、“死蝋化”し始めたお陰で腐敗が停止するからだ。
ゆえに、腐敗が停止した状態で10月頃から川底に沈んでおり、11月か12月に川岸に押し出されたとも考えられるのだ。



検証5(軍服を奪われた日本兵)

私が鑑定したヤラセ写真を見れば分かる通り、多くの中国人が日本兵の軍服を着て、ヤラセ写真を作っていた事が分かる。
大勢のエキストラを動員している時すら、全員、日本兵の軍服を着ている。
(軍服を着用する時に季節を意識していない為、冬服と夏服がごっちゃ混ぜになっているケースが多い)

また、国民党軍は、抗日感情を鼓舞する為に、攪乱工作兵と呼ばれる偽日本兵の部隊を編成し、民衆に対して蛮行を働かせていた事で知られる。
彼ら攪乱工作兵たちも、日本兵の軍服を着用していたのだ。
下記は、攪乱工作兵の存在を取り上げた記事や日記の一部である。

ニューヨーク・タイムズ昭和13年1月4日

南京の金陵女子大学に避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名をかくまっていたことを発見し、心底から当惑した。
実のところ教授たちはこの大佐をそのキャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは大学の建物の中にライフル6丁と、ピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この将校たちは南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、おそらく処刑されるであろう。


チャイナ・プレス1月25日

12月28日までに、将校23名を含む1575名が安全地帯に機関銃やライフルを隠して潜伏しているのを摘発された。
その中には南京平和防衛軍 Nanking peace preservation corps 司令官王信労(ワン・シンラウ 音訳)がいた。
彼は陳弥(チェン・ミイ 音訳)という偽名で国際委員会の第4部門を率い、3人の部下とともに「略奪、扇動、強姦にたずさわった。


飯沼守少将の陣中日記1月4日

「八十八師副師長」を逮捕と記す当の第八十八師副師長馬包香(マア・ポウシャン 音訳)中将は、安全地帯で「反日攪乱行為の扇動」を指揮していた。



さて、ヤラセ写真を撮影した中国人や攪乱工作兵は、どうやって日本兵の軍服を手に入れていたのだろうか?
一番手っ取り早く、効率が良い入手方法は、捕らえた日本兵から奪い取る事だ。
ならば当然、軍服を奪われた日本兵は、全裸か平服を着ているはずである。

さて、もう一度写真をご覧頂きたい。そして、死体の多くが全裸だという点を再確認して頂きたい。
写真の死体は、なぜ、全裸なのか?




結 論

南京占領時、治安維持の為に便衣兵(ゲリラ)の大量処刑があった事は、虐殺否定派も認めている事実である。
だが、村瀬氏の証言が、その不審点から左翼団体が用意した創作だとすれば、写真の死体は処刑された便衣兵以外のものである可能性が高い。

事実、「検証3」を見るに、死体の死亡時刻は12月13日以前だと考えられる。
「検証4」から、10月であってもおかしくはない。
日本軍が、南京への入城式を行ったのは12月17日である。
南京を陥落させたのは12月13日である。
そして、大虐殺が始まったとされる日時も13日以降である。
それ以前に殺されていた捕虜だとすれば、それは日本軍によって殺された捕虜ではない。
では、この捕虜は、どこの軍隊によって殺された捕虜なのか?
おそらく、国民党軍によって殺された日本兵だと思われる。


1937年、国民党軍に捕虜として生かされ、西安の捕虜収容所に入った日本兵は海軍航空兵を中心にわずか20〜50人に過ぎない。
その他の多くの日本兵は殺された。
「検証5」を見れば分かる通り、ヤラセ写真を取ったり、攪乱工作兵を編成する為に、日本兵は軍服を奪い取られた上で殺された事だろう。
ゆえに、殺された日本兵の捕虜は、その多くが全裸か平服を着た状態で死亡しているはずだ。
そして、写真の死体は、まさに多くが「全裸」なのだ。
川を流れている内に衣服が全て脱げ落ちる事は無い。
捕虜を縛る際に服を脱がす事はない(日本の捕縄術は、全て衣服の上より縛る)。
処刑する際に、一人一人の衣服を脱がす手間を掛ける必要性もない。
「全裸」である事が、この死体は軍服を奪われた日本兵である事を物語っている。

また、日本軍の南京占領後、日本兵の捕虜を埋めた塚等も発見されていない事から、殺された日本兵の死体は近くの揚子江に遺棄されているはずである。(中国に火葬の習慣はない)
そして、写真が撮られた場所は、まさに揚子江の川岸である。


以上の事から、写真に写っている死体は、10月〜12月初旬のいずれかの時期に軍服を奪われた状態で殺され、揚子江に投げ捨てられた日本兵だと思われる。








二人の車夫の死因






上記の焼死体は、資料によっては「日本軍の爆撃で死んだ中国人」「日本軍に生きたまま焼き殺された中国人車夫」のいずれかに分かれる。
1937年12月に起きたとされる南京事件の時のものとして出回っている写真である。
この二人の焼死体が、爆撃によるものなかか、生きたまま焼き殺されたのか、単なる火葬なのかは、この写真より焼死体を「検死」すれば容易に分かる事である。
そして、「検死」と共に状況から推理し、この二人の死因と殺害した犯人を可能な限り追求する。


検死1(死因は爆死でも焼死でもない)

爆撃による死因は、
@爆風による人体の飛散
A爆風に吹き飛ばされ、地面や壁に衝突する事による死亡
B爆風で飛ばされた破片飛散による致命的損傷
C急激に生じた気圧の変化による肺胞の死滅
が上げられる。
写真を一目見れば分かるが、上記のいずれでもない。
周囲には、焼け残った車以外に火災の痕跡が見られない為、爆撃による火災が原因でもない。
二人の車夫は、明らかに人為的に焼却されている。

では、これは生きたまま焼き殺された車夫なのか?
頭から燃料を掛けられて火を点けられれば、それを浴びた上半身だけが炭化し、下半身は燃え残る。
しかし、全身がくまなく焼けている為、地面に横たわった状態で燃料を掛けられ、燃やされた事が分かる。
では、寝ている時に燃やされたのか?
否。
生きた人間や、まだ内臓や筋肉組織が壊れていない死後五日以内の死体を焼けば、肘や膝が屈折し、四肢は体の内側へと曲がる。
ちょうど、生まれたての赤ん坊のような姿勢になる。
これは加熱によって筋肉のタンパク質が変化し、分子構造が短縮化される為に、肉自体が収縮してしまう為だ。
伸筋よりも屈筋の方が収縮しやすい為、加熱によって収縮した肉体は、その四肢が屈筋側に折れ曲がった形になり、赤ん坊・・・・あるいはボクシングのファイティングポーズに近い姿勢となる。

だが、写真をご覧いただきたい。
写真「A」の焼死体は、四肢が曲がるどころか水平に伸びている。写真「B」は足が炭化によって崩れているが、肘は伸びたままである。
これは焼かれる前に、既に死体が激しく腐敗していた証拠である。
腐敗とは、タンパク質が分解する事を意味する。
死亡後、一週間を経過した死体は、その筋肉のタンパク質の分解が激しい為に、焼いても四肢が曲がらないのだ。

ゆえに、この焼死体は、生きたまま焼き殺されたのではなく、手の付けられないほど腐敗していたが為に焼かれたのだ。
少なくとも、死後一週間以上経ってから焼かれたと思われる。


検死2(死亡時刻は、日本軍が入城前)

南京の12月の平均気温は4.4度であり、1月に至っては2度である。。

南京の平均気温の参照元
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257eZenTech/world/infomation/kion/china_nanjing.htm

この気温では、死体は冷蔵庫に保存されているのと同じ状態であり、ほとんど腐敗は進まない。
にも関わらず、タンパク質が分解してしまうほど腐敗していたという事は、まだ気温が高い時期に死亡し、長期間放置されていた事を意味する。
日本軍が南京を攻略したのは、12月13日である。入城した日本軍に殺されてのであれば、気温から考えて、ここまで腐敗する事は無い。
仮に12月半ばに気温が高かったとしても、冬場にここまで腐敗するには二週間前後は掛かってしまう。
死体は伝染病を媒介する為、迅速な処理を必要とされる。日本軍が入城した城内に、ここまで腐敗が進んでしまうまで放置されるなど、考えられない事だ。

ゆえに、この死体は日本軍が入城する以前から既に腐敗しきっていたと思われる。
おそらくまだ気温の高かった11月に死亡したのだろう。
そして、日本軍が入城した時、もはや手の付けられない状態であった為に、いったん焼却処理し、担架に乗せて運び出した(写真「B」)のだろう。
もしくは、日本軍が入城する前に、国民党軍側によって焼却処理状態で放置してあったとも考えられる。

そう。
二人の車夫は、気候と死体の状態から考えて、日本軍に殺されるどころか日本軍が入城する前に死亡しているのだ。


推理(誰が車夫を殺したのか?)

では、この車夫は、誰に殺されたのだろうか?
写真「A」をご覧頂きたい。焼かれた死体の下に、車の焼けた残骸が見える。
死体と共に車が焼かれているという事は、車にもたれかかった姿勢で死亡し、腐敗していたという事だ。
この車夫は、車引きの仕事中に死亡しているのだ。
ならば、この車夫を殺した犯人は、車夫を利用していた人物である可能性が高い。
そして、日本軍が接近する中、避難せずに車夫を利用している者がいるとすれば、それは南京にいた国民党軍兵士に他ならない。



結 論

日中戦争中、中国に数多くあった政府や軍閥の内、日本軍と主に戦ったのは蒋介石率いる国民党である。
蒋介石は
「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」
と言い放ち、民衆を犠牲にする政策や戦略を公然と繰り返した。
ある時は日本軍の補給を断つ為に、堅壁清野作戦(焦土作戦)を用いて農村を焼き払い、
ある時は日本軍の進路を断つ為に、鄭州東北郊外の花園口にある黄河の堤防を爆破して決壊し、河南省東部・安徽省北部・江蘇省北部を水没させて、数十万人を溺死させた。
ある時は、軍糧として過剰に食料を徴収して河南省の民衆を飢餓に追いやり、逆に日本軍がこれを救済する始末だった。
(この史実は、劉震雲によって小説化され、「温故一九四二」のタイトルで、中国書店より日本でも出版されている)
国民党軍は、民衆を一切守らず、逆に殺し続けていたのである。

国民党軍兵士には粗暴な馬賊出身者も多く、たびたび民衆といさかいを起していた。
おそらくこの車夫は、国民党軍兵士と運賃を巡っていさかいを起し、殺されたのだろう。
そして、日本軍の接近により、国民党軍が戦闘準備に入ったが為に処理される事無く、放置されてしまったのだと思われる。
長期間放置された事により、筋肉のタンパク質が分解してしまうほど腐敗が進み、最終的には国民党軍か日本軍の衛生兵によって焼却処理されたのだ。

むろん、国民党軍兵士に殺されたというのは推論に過ぎない。
だが、この死体を検死してみる限り、この車夫は“生きたまま焼き殺された”というのは明らかに歪曲であり、日本軍が入城する以前に死んでいた可能性が極めて高いのだ。


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