プロパガンダ写真館
<軍刀編2>

(Fraudulent photograph, composite picture, and falsification photograph)
A fraudulent photograph is investigated.

基本知識
グリップ
鑑定NO.1 鑑定NO.2
鑑定NO.3 鑑定NO.4
鑑定NO.5 [英信流]
鑑定NO.6 [エスクリム]
鑑定NO.7 [纏頭刀?]




基本知識
旧日本軍では、元々は“剣道”が、軍刀術の主体をなしていた。
剣道とは、武徳会(1895年に設立された全武道流派の包括組織)によって制定された防具と竹刀を用いて打ち合う近代剣術だ。
1916年に陸軍戸山学校に軍刀術として採用された剣道は、1941年の日米開戦の年には、国民学校で必修科目に取り入れられるほど当時は重視されていた。
しかし、竹刀(竹製の模擬刀)を用いる剣道の刀法では、正しい刃筋も習得し辛く、対象物を斬るのに不可欠な“引き斬り(対象物に触れた瞬間、弧を描きながら刃を引く動作)”も身に付かない。剣道の修練だけでは、真剣を用いても人を斬ることは困難である。

日中戦争(1937~1945年)勃発後、この事実に気付いた陸軍戸山学校は、1940年より真剣操作が可能な軍刀術の研究を始めた。もともと戸山学校にあった“居合術”を改正し、白兵戦の経験を持つ海軍の高山政吉が編み出した技術を取り入れた。
こうして、1940年11月に制定されたのが、基本的な真剣操作法を伝える「軍刀の操法及び試斬」である。そして、その翌々年の1942年1月には、より実戦的な「短期速成教育軍刀(一撃必殺)要領」が制定された。


この刀法は、「前面の敵を斬る」「右の敵を斬る」「左の敵を斬る」「後の敵を斬る」「前に突撃しながら斬る」「前後の敵を斬る」「左右の敵を斬る」の七つの型からなる極めてシンプルなものだ。
1943年11月に一般公開されるまで、戸山学校に入学を許可された歩兵科の生徒のみが、学ぶ事ができた。
(戦後、この刀法は戸山流居合道として確立・普及し、海軍の高山政吉の軍刀術の方は高山流抜刀道として今も残っている)
戸山流居合術・一本目(正面の敵を斬る)
抜刀準備 一(抜刀) 一(抜刀) 二(諸手へ)
三(振りかぶる) 三(振りかぶる) 四(切り下ろす) 四(切り下ろす)
「軍刀の操法及び試斬」国防武道協会発行 1943年11月 27~28頁
陸軍の軍刀術は、この“戸山流居合術”と“剣道”からなる。そして、実際に人を斬る事が可能だったのは、“戸山流居合術”の方だ。
このファイルでは、「軍刀を奮って蛮行を働く日本兵」と称して出回っているプロパガンダ写真を“剣道”“戸山流居合術”及び“日本古武道“の刀法を参考にしながら、本物かヤラセかを鑑定する。


<グリップ>


以下に、玄人のグリップと素人のグリップを一覧する。
ヤラセか本物かを判定するには、執行者のグリップを見る事が一番だ。
もし、グリップを見ても判定困難な場合やグリップが写っていない場合は、執行者の構えや姿勢、犠牲者の姿勢や立ち位置から、虚実の判断を行う。


握り方
コンバットグリップ 剣道・戸山流居合術・日本古武道で用いるグリップ。
柄から手が滑らないように斜めに指を添える。握りを自在に変化させる為にも、手首や腕への負荷を無くす為にも、柔らかく握る。

ハンマーグリップ 素人が得物を持った時のグリップ(写真では大袈裟に握っている)。
五指を柄に対して垂直に握り、全体的に硬く握っている。武道の教練を受けたものならば、まず、この握りで刀剣を操作することはない。

セイバーグリップ 西洋のサーベル剣術で良く用いられるグリップ。片手で柄を持ち、刃筋を正す為に側面に親指を添える。

龍(たつ)の口 人差し指と親指を環にする日本古武道・柳生新陰流のグリップ。

セイバーグリップも、龍(たつ)の口も、コンバットグリップをベースとする。

手 幅
竹刀用 剣道で用いる手幅。
日本古武道でも、竹刀等で打ち合う稽古を良く行う流派ほど、この手幅を用いる。
だが、これでは人を斬るのは困難だ。

真剣用
戸山流で採用された手幅。日本古武道では、最も一般的な手幅だ。
試し斬りを良く行う流派ほど、この手幅を特に重んじる。

斬首用 江戸時代の斬首刑に良く用いられた手幅。
江戸時代の斬首と試し斬りの専門家・山田浅右衛門とその一族も、この手幅を用いた。


角度
刃筋を正す為のグリップ。
両拳の親指が、内側に位置する。
両掌を広げた時、掌が真下に向くように握る。

素人のグリップ。
柄を左右の横側からつかんで握っている。
教練を受けた者ならば、こんな握り方はしない。







鑑定NO.1 鑑定NO.2
被写体:NO.1&NO.2 ともに、日本兵と中国人婦女子。

状況:日本兵が、女子供の首を刎ねる所。

撮影日時:不明。南京戦の時だといわれる。

撮影者:不明。
鑑定
デタラメなグリップ 間違いだらけの構図

デタラメなグリップ  [鑑定NO.1]

執行者は、右の八相(肩側に刀を添える構えの総称)の位置に構えている。
右の八相に構えた場合、左拳がサイドに開き、右拳が刃筋の向きに等しくなる。だが、執行者の両拳の向きは、左右逆だ。
これでは、刀を振ることすらできない。

ポイント1:執行者のグリップはデタラメ。



右の写真は、左の八相の位置に構えた時の拳の向き。
写真の執行者と、拳の向きが逆である点に注目。

右拳の向きと姿勢から推測し、右腕を青いラインでなぞってみる。
左拳が刃筋の向きに等しいのに対し、右拳がサイドに開いている事が分かる。
鑑 定 結 果

両拳の角度は、刃筋に等しくなるのが基本だ。だが、構えを変えた時や垂直以外の角度から切り込む時は、拳の角度は変化させねばならない。
右八相に構えた時は、右拳の角度はそのままで、左拳をサイドに開く。そうしなければ刃筋が歪んでしまう。だが、執行者の両拳の角度は逆になっている。
両拳の角度が、このような状態になってしまったのは、おそらく、執行者は剣道の“基本の握り”のみ教わった為だと思われる。
剣道では、左拳の小指を半分余らしてしまうくらい、柄の端ギリギリの位置を握る。この位置は素人に取っては微妙であり、初めは“この握りを崩すまい”と意識しがちである。
執行者は、この左拳のグリップを崩すまいと意識した為に、八相の位置に構えても左拳が固定されたままになってしまい、逆に右拳の方がサイドに開いてしまったのだろう。その為、右腕も非常に不恰好になっている。

この執行者は、剣道の“基本の握り”のみを教わり、構えも刀法も学んでいない事は明白である。しかも、この写真に続きはない。百%、役者を使ったヤラセ写真だ。


間違いだらけの構図 [鑑定NO.2]
執行者は、右手の上に左手を重ねている。こんな握り方はない。全くの素人のグリップだ。

ポイント1:執行者は素人。


刀は、柄の短さから考えて、官給の三十二年式軍刀に見えるが、護拳が付いていない為、違う。

ポイント2:日本軍の刀ではない。


また、直立の相手の首を刎ねる為に、上段構えを用いている。このような高い
位置の首を刎ねる場合は、通常よりも高い八相の構えを取った方が良い。

ポイント3:構えが不適切。

犠牲者が直立している。
昔の西洋では、“薄刃の剣”と呼ばれる処刑用の剣を頭上で三回転させて勢いを付け、直立させた状態の囚人の首を水平に刎ねる処刑方法があった。
だが日本には、囚人を直立させた状態で首を刎ねる方法はない。(日本の16~17 世紀初頭に掛けては、囚人を生きたまま刀で切り殺す“生き試し”という処刑方法があった。その中には、直立させた状態で切り殺す方法もあったが、斬るのは胴体であり、斬首は行わない)

ポイント4:日本の処刑方法ではない。


また、執行者が犠牲者の右側に立っている。斬首刑を行う時は、古今東西を問わず、執行者は左側に立つのが普通だ。執行者が左利きならば別だが、グリップを見る限り右利きだ。

ポイント5:立ち位置が間違っている。

鑑 定 結 果

執行者の刀は、日本軍のものではない。グリップと立ち位置はデタラメだ。
構えと処刑方法も不適切だ。むろん、この写真に続きはない。
執行者は間違いなく素人であり、これも百%役者を使ったヤラセ写真だ。







鑑定NO.3 鑑定NO.4
被写体:NO.3 は日本兵と中国人。NO.4 は日本兵と白人捕虜(一説では、オーストラリア航空兵)

状況:日本兵が、捕虜の首を刎ねる所。

撮影日時:不明。

撮影者:不明。

鑑定
不可能な斬首刑 下手糞な斬首刑

不可能な斬首刑 [鑑定NO.3]
両拳は、ハンマーグリップに近い。
手幅は、左拳の小指側に柄頭が見えない為、剣道(竹刀用)の手幅と同じだ。
手元を見る限り、戸山流ではない。

ポイント1:執行者のグリップは、真剣用ではない。

また、上段に構えているが、戸山流は居合ゆえに“構え”はない。
剣道の上段構えとも大きく異なり、日本古武道の各流派でも、このような低い位置に構える上段構えは見かけない。
刀身や執行者の腕にブレがない為、上段に振り上げようとする瞬間を撮影したものとも思えない。

ポイント2:構えが不自然。


「B」は、標的(犠牲者)の首の位置と執行者の腰の位置の差。
「C」は、この高さから執行者が軍刀を振り落とした時に、バッサリと斬れる範囲。

刀剣で標的を斬る場合、斬る側は、標的に対して腰の高さを合わせるのが普通だ。
軍刀を振り下ろして斬れるのは、腰から上の高さまでだ。それよりも標的が少し低い位置にある場合ならば、上半身を少し前傾させれば補える。(ただし、腰を「く」の字に曲げてはならない。背筋を真っ直ぐに保ったまま、あくまで前傾させる)
だが、これほど高低の差があっては、前傾になったくらいでは補えない。
この標的の首を落とすには、執行者は歩幅を広げて膝をしっかりと曲げ、「B」の上下の線が重なるくらいまで、十分に腰を沈めなければならない。

ポイント3:この高さでは、斬首不可能。

   また、執行者の軍刀には“剣緒”が見当たらない。右の写真は剣緒。

ポイント4:日本軍の軍刀と様式が異なる。
左は、1900 年頃、中国官憲によって行われた斬首場面。

標的の首が低い位置にある為、官憲が腰を深く沈めて高さを合わせ、上半身をやや前傾させている点に注目。
これが、低い位置にある首を斬る時の正しい姿勢だ。


右は、日本の19世紀頃の斬首刑を描いたもの。
囚人の首が低い位置にある為、役人が大股になって腰を沈め、高さを合わせている点に注目。
(手幅も、斬首用になっている)

出典)藤田新太郎 描工兼編集「徳川幕府刑事圖譜」神戸直吉出版 1893 年 44頁
鑑 定 結 果

グリップと構えを見る限り、執行者は真剣操作を学んだ事がない素人。
執行者は、標的(犠牲者)の首が低い位置にあるのに、全然、腰の高さを合わせていない。ただ、上段に構えて突っ立っているだけだ。
むろん、この写真にも続きはない。
また、垂直に刀を振り下ろして首を刎ねる場合、地表に刀が衝突して破損する恐れがある。これを避ける為に、事前に標的の首の下の地表を掘り下げるか、段差のある地形を利用する(首を低い段側に突き出させる)が、そういった配慮も行われていない。軍刀も、日本軍の様式ではない。
グリップの角度に問題はなく、手幅も剣道(竹刀用)と同じである為、撮影前に“剣道の基本的な握り方だけ教わった”役者によるヤラセだと思われる。

下手糞な斬首刑 [鑑定NO.4]
グリップは、ハンマーグリップ。
ゆえに素人の可能性が高い。だが、“引き切り”を用いずに垂直に切り下ろす際は、振りかぶった瞬間と振り下ろした瞬間が、ハンマーグリップになるケースが玄人にも見られる。よって、一概には判断できない。

ポイント1:執行者は、若干素人の可能性がある。
上は、戸山流で上段に振りかぶった時の状態。
左拳の位置が高ければ高いほど、切先は背中側に垂れるのが普通だ。
手幅は、左拳の小指側に柄頭が見えない為、剣道(竹刀用)の手幅と同じだ。
ならば剣道経験者か?否、上段に構えているが、上段の構えが異様に高すぎ、剣道の上段構えとは大きく異なる。
一方、戸山流は居合ゆえに“構え”はない。しかし、上段に振りかぶる動作は良く用いる。ならば、これは上段に振りかぶった瞬間か?
否、刀身にも腕にもブレが見られない為、振りかぶった瞬間とは思えない。
それに、左拳が頭頂部の真上まで来ている。これほど高い位置に振りかぶれば、刀の切先は既に背中側に垂れているはずだ。
執行者は、右拳をさらに高く掲げて刀身を支え、非常にアンバランスな上段構えを取っている。

真剣を扱った事がない素人が、適当に頭上に振りかぶっているだけのような印象を受ける。

ポイント2:執行者は、真剣操作には不慣れ。


そして、この執行者の軍刀にも、やはり剣緒が付いていない。
ポイント3:日本軍の軍刀と様式が異なる。


白人捕虜の体格が大きく、執行者の体格が小さい為、捕虜と執行者の間に十分な距離があるように見える。
だが、足元をみれば、執行者は非常に近い距離にいる事が分かる。

日本刀で斬る場合、切先三寸(尖った切先の付け根より6~9センチまで)の部分を標的に打ち付ける。その瞬間に“引き切り”するか、峰(刀身の背)に掌を押し当てて“押し切り”するかで、初めて標的の両断を可能とする。
この切先三寸から、標的が少しでもずれれば満足には切れない為、正確な間合い(距離)を取ることが非常に重視される。
熟練者でも、この間合いを取ることは難しく、難易度の高い試し斬りを行う際は、一度、切先三寸部分を標的にあてがって距離を測ってから振りかぶる事が多い。

執行者の間合いは近すぎ、これでは切先三寸で捕虜の首をとらえる事はできな
い。

ポイント4:執行者の間合いはデタラメ。距離を全く意識していない。
鑑 定 結 果

グリップ、手幅、構えから見る限り、執行者は真剣操作の素人だ。
間合いの取り方も全く分かっておらず、ただ捕虜の横に突っ立って、頭上に軍刀を振りかぶってポーズを取っているだけである。軍刀も日本軍の様式と異なる。
そして、この写真にも続きはない。
もし、これが本当に処刑執行場面であり、執行者が本物の日本兵であり、間合いと構えがおかしいのは真剣操作が不慣れなだけだとしても、これでは首は落とせなかった事だろう。







鑑定NO.5
被写体:日本兵と中国人

状況:日本兵が、中国人の首を刎ねる所。

撮影日時:不明。南京戦の時ともいわれる。

撮影者:不明。

鑑定
注目すべき所

構えを鑑定

「A」の左膝が、体の左横を向いている。対し、「B」の右足は、体の胸側に向いている。
この事から、両足の角度はほぼ90度近い事が分かる。
これは典型的な“左半身立ち”だ。
ポイント1:執行者の立ち方は“左半身立ち”


「C」の左腕が、左の腰に垂れている。これは腰の鞘を抑える為だ。だが、鞘を付けていない為、単に垂らすだけにしている。
ポイント2:鞘を付けていないので垂らしているが、本来は鞘を抑えるのに用いる。


「D」の右手が、刀を片手で持っている。刀身は、棟(刀の背)を背中に向けた状態で後方に垂れている。
ポイント3:右片手に刀を持ち、背中に棟を向けた状態で、後方に垂らしている。

戸山流に、このような動作も構えもない。むろん、剣道にもない。
しかし、日本古武道には、執行者と同じ動作を取る流派がある。居合術の流派として名高い無双直伝英信流だ。
ポイント4:実は英信流の構え。

無双直伝英信流 (正座之部 七本目) 「介錯」

出典)京一輔 「居合道指南 無双直伝英信流」 愛隆堂 2005/01 60-61頁

英信流には、正座の状態から立ち上がって斬り付ける技が十一本ある。これは七本目の「介錯」の技だ。
「介錯」とは、切腹する侍を安楽死させる為に、首を刎ねる行為を指す。

立ち位置を鑑定

執行者の構えは、紛れもなく英信流の構えだ。
英信流の「介錯」を行う時の刀法であり、捕虜の首を刎ねるにはもってこいだ。
だが、この写真には一つ大きな間違いがある。
それは、執行者と犠牲者の立ち位置だ。

写真の立ち位置


写真では、犠牲者は執行者の斜め前に立っている。
だが、実際の英信流の立ち位置では、以下のようになる。

無双直伝英信流 (正座之部 七本目) 「介錯」の立ち位置

写真の執行者と犠牲者の立ち位置は、全くのデタラメ。
これでは「介錯」の刀法で切る事はできない。

ポイント5:執行者と犠牲者の立ち位置がデタラメ。



上記が、「介錯」の刀法を用いた時の動き。
このように“前進”“反転”しながら、十二分に刀を加速させて首に切り込むのが、本来の刀法だ。

鑑 定 結 果

わざわざ、日本古武道の斬首用の刀法を再現した点は、感服に値する。
だが、再現したのは構えのみであり、執行者と犠牲者の立ち位置は全くのデタラメときている。
この刀法を良く理解していなかったのだろう。

執行者が左半身立ちになっている以上、標的は、必ず左足の進行方向に位置せねばならない。これが英信流の「介錯」の刀法ではなかったとしても、絶対にありえない立ち位置だ。
このような立ち位置になったのは、二人の被写体をクローズアップした状態で、撮影したかった為だろう。わざわざ脚立まで用いているらしく、少し高い位置から撮影している事が分かる。
もちろん、この写真にも続きはない。
これも百%、役者を用いたヤラセ写真だ。







鑑定NO.6
被写体:二人の日本兵と中国人

状況:Editor and Publisher 10 月2 日号の報道によれば、これは、縛り付けた中国人を日本兵が銃剣で刺殺している場面だとされる。
しかし、the Chinese Section of General Staff の高橋担大佐が、当時の米国にて「中国人が日本軍の軍服を着て撮影した」と主張している。

撮影日時:1937 年9 月5 日。場所は天津。

撮影者:中国のカメラマン。

鑑定
不審な部分 不可解なもの

使用している武器

二人の執行者が使用している武器は、銃剣を着剣した“銃”と銃剣を脱剣した“短剣(銃剣)”。
着剣状態の銃で戦う術を“銃剣術”。脱剣状態の短剣で戦う術を“短剣術”という。
“銃剣術”は、伝統的な槍術の極めて基本的な動作を元に開発され、1892 年11 月に陸軍戸山学校で制式科目に定められた。
“短剣術”は、古武道の中でも小太刀を得意とする中條流(富田流)の技術を元に、1919~1920年に掛けて研究・制定された。

銃に着剣もでき、脱剣して戦う事もできる銃剣

画像元)旧日本帝国陸海軍軍刀
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/
右肘のみが見え、右小手が見えない。
これは腰側から腹部側に掛けて、右小手が水平に横に向いている為だ。

短剣術で“突き”を行う時は、中段の構えから始める。しかし、執行者の腕の状態は、全然、中段の構えではない。
それに突き技は、腕の力だけで行うのではない。
突くと同時に、後足を蹴って、先足を踏み出す。そうする事で体全体の重量を利用して突く。
(逆に引き抜く時は、先足を後足側に引き寄せた瞬間、一気に、先足で地を蹴って後足を後方に送り出して離れる。いわゆる“継ぎ足”を使う)
その為にも、右小手は体を土台とした状態で、進行方向に肘から短剣の切先までを向けておかねば為らない。だが、全然、進行方向を向いていない。
突きを繰り出す時も、突き刺した時も、引き抜く時も、右腕がこんな方向に傾くことはない。

ポイント1:右腕の動作がおかしい。
短剣術では、左手は左腰に添える。
これは邪魔な左腕を敵の攻撃から保護する為だ。
左腰に左腕を当てて、右半身に構えれば、まず左腕を攻撃される恐れはない。
これは日本古武道の全ての短剣術(短刀術・小太刀・懐剣術)に共通するスタイルだ。
正中線(体の中央を通る線)を正面に向けて小太刀を奮うという珍しいスタイルを取る薩摩の示現流ですら、左手は腰に添える。
だが、この執行者の左手は宙に浮いている。
日本の短剣術にはありえないスタイルだ。

ポイント2:左腕のスタイルが日本武道ではない。

腰を深く沈めている事が分かる。
腰を沈めるスタイルを取るのは、戦国期(16世紀)の介者剣法(鎧合
戦用の剣術)の特徴だ。旧日本軍の短剣術のスタイルではない。
相手の脛など低い位置へ攻撃する時は、高さを合わせる為に体を沈めるが、旧日本軍の短剣術には脛への攻撃技はない。古武道でも、短剣で脛を攻撃する技術は余り見かけない。

ポイント3:重心の高さも、短剣術と異なる。

左は、基本である中段構え。
この構えより、突きを行う。
立ち方は、半身立ち。
腰は沈めず、膝にほどよく余裕を持たせた状態で両足を伸ばす。
左手は、邪魔にならぬ為にも保護する為にも、左腰の位置に据える。
右腕は、土台である体からズレないように伸ばす。

ポイント4:本当の短剣術は、写真の執行者と、全くスタイルが異なる。

画像元)高橋華王 「銃剣道教本」 ベースボールマガジン社 1993 年 102 頁
ご覧の通り、縛り付けられている捕虜は、腕を束縛されていない。
目隠しをした状態で危害を加えられそうになれば、両手で体を庇おうとするのが普通だ。
だが、この捕虜は両腕が自由であるにも関らず、ダラリと垂れたままで大人しくしている。
短剣術や銃剣術で刺された時も、大人しく垂れたままだ。口元を見ても苦痛に歪んでいる様子がない。
おそらく、この縛り付けられている人物は、初めから死亡しているのだと思われる。
死体を縛りつけ、目隠しをかぶせる事によって、あたかも生きた人間であるかのように見せかけているのだろう。

ポイント5:標的は死体。

鑑 定 結 果

銃剣を脱剣状態で操作する執行者は、そのスタイルが、旧日本軍の短剣術とは全く異なる。日本のいかなる古武道とも異なる。

バランスを取る為に左腕を上げ、腰を深く沈めるスタイルといえば、フランス剣術のエスクリム(フェンシング)だ。
これは、エスクリムのアンガルドの姿勢だ。
エスクリムは、突きを行う際は、得物を持った腕を先に突き出し、その後を追うようにして体を送り出す。ゆえに、突く前に、一旦「A」のように腕を退いている場面ならば良く見かける。
ならば、エスクリムを学んだ日本兵による刺殺場面か?
否。後足の膝が曲がり、先足の膝が伸びている。
アンガルドより、攻撃(ファンデヴ)した際、蹴り出した後足の膝は伸び、踏み込んだ先足の膝は曲がる。写真ように逆になる事はない。あるとすれば、後退(ロンペ)した時だ。しかし、後退しながら突きを行う事はない。
ゆえに、これは短剣を持って、刺殺しているかのようにポーズを取っているだけだ。
犠牲者が、もともと死体である可能性も高い為、高橋担大佐の主張が正しいと思われる。(彼は“構え”から、偽日本兵である事に気づいたのだろう)







鑑定NO.7
被写体:複数の日本兵と数人の中国人。

状況:日本兵が、数人の中国人を斬首刑にしている場面。

撮影日時:正確な日時は不明。南京戦の時だといわれる。

撮影者:日本軍将校?








その他、おそらく同一場面の写真だと思われるもの

出典)Look1938年11月22日号 55頁

出典)Look1938年11月22日号 表表紙に記載
鑑 定

この「A〜G」の写真は、「恥」と題された手帳に納められている写真の一部。
16枚ある写真の内、軍刀関連のものを上に掲載した。
2005 年2 月16 日、羅瑾老人によって侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館に寄贈された。
現在、京中国第二歴史档案館に現存。

写真を入手した羅瑾氏は、1937 年12 月の日本軍の占領時、南京にある「華東写真館」で働いていた。
1938 年1 月頃、日本軍少尉から受け取ったフィルムを現像する際に、焼き増す事によって入手。
その後、友人の手を経て、南京軍事法廷の際に日本の戦犯を裁く時に証拠資料として提出された。

「E」の写真は、東中野教授の著書『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社 2005 年)のP138 に記載されていた写真であり、web 上から入手した。写真映りが良かった為、使用させて頂く。


執行者と犠牲者の数を確認
まず写真「A」を見る。ズボンをはいた犠牲者が首を刎ねられている。
写真「H」の手前に死体が横たわっているが、場所が同じであり、同じくズボンをはいている事から、写真「A」の犠牲者と同一だと思われる。

次に、写真「B」「C」を見る。
「B」「C」の犠牲者は、撮影している角度こそ違うものの、場所が同じである上に、「帽子をかぶている(a)」「右腰にポシェットを付けている(b)」「はいている靴が同じ(c)」「半ズボン(d)」の四点が共通する事から、同一人物である事が分かる。
「B」の腰辺りに筋が見えるが、これはただのシワだ。ゆえに「C」で前傾になった時にシワが消えている。
ただし、「A」の犠牲者はズボンをはいている為、「B・C」とは別人だ。
この時点で、少なくとも犠牲者は二人いる事になる。

一方、写真「A・C」の執行者の顔は、坊主の割にはモミヒゲ跡が長く、しかも髭面という点が一致する為、同一人物である可能性が高い。
「A」「C」では服装が異なるが、「A」で斬った時に動きづらかった為に、「C」の時に上着を脱ぎ、脚絆をはいたのだと解釈すれば、辻褄があう。

ポイント1:この時点で、犠牲者二人、執行者一人を確認。


続いて写真「D」「C」を見る。
「D」「C」の犠牲者も、撮影場所が同じである上に、「帽子をかぶっていない(a)」「正座の仕方が同じ(b)」「靴の踵と足首を紐で縛っている(c)」「半ズボン(d)」の四点が共通している為、同一人物である事が分かる。
一方、執行者は「A・B・C」と同じ髭面であり、上着を脱いで脚絆をはいている事から、「B・C」の人物を斬った後、「D・E」の人物を斬ったのだと思われる。

備 考
写真「H」の奥では、兵士が、犠牲者に頭を上げてウナジを伸ばすようにと、支持しているような様子が見える。
そして、「H」の犠牲者の足元を拡大してみると、非常に分かりにくいが、半ズボンで、靴紐のある靴をはいている事が分かる。(足首辺りに靴紐が見える)
帽子もかぶっていない為、「D・E」の犠牲者と同一人物だろう。

「H」の兵士は脚絆をはいているが、上着を着ている。もし、この兵士と執行者が同一ならば、一度、上着を着なおしている事になる。
斬首を二人で済ますつもりで上着を着た所、何らかの理由で三人目も斬る事になったのか?

ポイント2:この時点で、少なくとも犠牲者は三人いる事が分かる。

次に写真「F」「G」を見る。
一見、同一場面を別角度から撮ったように見える。
しかし、奥に立っているヒゲ面の兵士(a)が、「F」では刀を地面に立てているに対し、「G」では刀を持っていない(右手に、柄頭と鍔が黒い刀を水平に持っている為に、正面からは見えないだけか?)。
また、手前の執行者の足元(b)を良く見ると、「F」では崖のギリギリの所に左足を出しているのに対し、「G」では少し崖から離れた位置に出している事が分かる。
この二点から、実は別の時間帯に撮影されたものだと分かる。


ならば、「F」「G」では、二人の犠牲者が切られている事になる。
が、「F」の時点では、犠牲者の首に刀をあてがって間合い(距離)を計っているだけであり、「G」が改めて斬った瞬間だとも考えられる。
また、執行者の方は「A〜E」の執行者とは明らかに別人だ。

ポイント3:執行者は述べ二人。犠牲者数は少なくとも四人から五人。

備 考
「F」「G」の執行者は、歩幅を前後に広げ、腰をやや沈めている。上半身もやや前傾させている。
これは犠牲者の首が低い位置にある為、執行者側が高さを合わせているのだ。
向って右から左に掛けて刀を振っているのに対し、左足の方を踏み込んでいる。
この事から、もともと執行者は、犠牲者と距離をおいた斜め右手前に立っていた可能性が考えられる。
その位置から右足で地を蹴って、左足を前方の斜め左へと送り出し、その加速を利用して刀を右から左へと斜めに振り下ろしたのだろう。


不可解な点をチェック
執行者の持つ、この刀。
全然、日本刀ではない。
第一に、ハバキ(a)が見当たらない。
第二に、日本軍の軍刀には柄頭にデカイ兜金(b)がついているが付いていない。
第三に、柄は柄巻(c)といって、独特の組糸で巻くが、何も巻いていない。
第四に、兜金には革の剣緒(d)が通してあるのだが、それがない。                        
本当の日本軍の軍刀

画像元)旧日本帝国陸海軍軍刀
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/
日本刀と同じ形状でありながら、ハバキがなく、柄巻がなく、剣緒がない刀剣といえば、中国の苗刀だ。
苗刀には、兜金が付いているものと付いていないものがある。
これは兜金が付いていないタイプの苗刀だ。

ポイント4:執行者が奮う刀は日本刀ではなく、中国の苗刀。

中国の苗刀(兜金がないタイプ)
この靴。
良く見ると、短い靴下のような形状をしている。
その足の裏側には、足の形を模した別の素材で出来たものを付けている。
そして、それを靴紐のようなもので、足に縛り付けている事が分かる。

これは日本の地下足袋だ。
この地下足袋に、藁製のシューズを掛ける事を“草鞋掛け”と呼ぶが、まさに「E」は“草鞋掛け”になっている。
地下足袋は日本独特の履物だ。
“草鞋掛け”は日本独特のものだ。
この犠牲者は、履物から察して、日本人である可能性が高い。満州に移民した開拓民か?(単に、中国にも似た靴があるだけかも知れないが)

ポイント5:犠牲者は、日本人の可能性もある。

良く見ると、カメラマンが四人も映っている。これを撮影した者も含めれば、最低でも五人はいる事になる。
当時のカメラは、ボタン一つで撮影できるような代物ではない。
ピント合わせも、シャッタースピードの絞りも、自分で調節しなければならない。露出計が内臓されていない場合は、自分で露出も決めねばならず、フィルム装填も自分でせねばならない。庶民が気軽に持つような物ではなく、カメラを所有し、扱える者といえば、従軍記者か、地元のカメラ屋か、好事家か、資産家くらいだ。
一度に五人以上ものカメラマンが集うなど不可解な光景だ。

ポイント6:多すぎるカメラマン。

右は、戦時中有名だった「スーパーイコンタ532」(スプリングカメラ)。
ドイツのツアイスイコン社が製造。
「D」「E」で、執行者は水平斬りを用いて首を刎ねている。
日本には、水平斬りを用いる斬首刑はない。
ただでさえ難しい斬首刑に、難易度の高い水平斬りを用いるはずがない。
だが、この執行者は水平斬りを用い、しかも斬首に成功している。
足元を見ると、両踵を浅く浮かせた状態(a)から、両踵を高く浮かせた状態(b)に変化している事が分かる。足位置が移動せずに、踵の高さのみが変わっている。踏み込みを用いずに、体を左右に振るだけで斬っているのだ。
(見ようによっては、右半身に立っているようにも見えるが、右半身に立っているのであれば振りぬいた瞬間、このように両踵が高く浮くことは絶対にない)

普通、水平斬りで難しい斬首をやろうと思えば、次のような動作を行うべきだ。
1)左半身に構える。この状態から体を右半身に転じる事によって、体全体で遠心力を起こし、刀に勢いを付ける。
2)足を平行に並べる。右足で左に向って地を蹴って、左足を左に送り出すことによって、体全体で加速し、刀に勢いを付ける。

だが、いずれとも異なる。なぜ、こんなコンパクトな動作で斬首が出来るのか?
思うに、刀を”特別な方法で加速させている”可能性が考えられる。
その特別な方法とは、中国独自の刀術である纏頭刀(チャントウダオ)を用いる方法だ。
この刀術では、剣士は、まず刀を右片手に持ち、切先を下方に垂らした姿勢を取る。
そして、切先を下方に垂らしたまま、刀の背が左腕外側と背中を這うようにしながら、正面から見て弧を描くように刀を旋回させる。
こうやって刀を180 度旋回させる事によって加速を付け、最後に正面に向って刀を水平に薙ぎ払う。
中国の苗刀術では、片手で上記のように旋回させてから、繰り出した瞬間に諸手に持ち替えて斬り付けるという動作が良く見られる。
しかも、諸手に持ち替える瞬間、右拳を支点に、力点となった左拳が背面に垂れた刀身を一気に振り出す為、さらに加速は大きく増す。
執行者は、纏頭刀(チャントウダオ)を用いていると考えれば、踏み込みを用いずに、水平斬りで斬首できるのも納得が行く。

ポイント7:執行者は、中国刀術の使い手?

この写真を入手した羅瑾氏は、冬場である一月に手に入れたと主張している。
他の出典でも、これは南京戦(冬場)の時だといわれている。
だが、「B・C」「D・E」の犠牲者は半ズボンをはいている。背景に写っている兵士たちの多くも上着を脱いでいる。
南京の12月の平均気温は4.4 度であり、1月に至っては2 度である。
何で、そんな寒い時期に半ズボンをはいたり、野外で上着を脱ぐ者が大勢いるのか?
しかも上着の下は半袖だ。

ポイント8:出典の説明と季節が一致しない。

南京の平均気温の参照元)旅行のとも、ZenTech
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257eZenTech/index.htm
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257eZenTech/world/infomation/kion/china_nanjing.htm
良く見ると、犠牲者は全員フリーハンドだ。束縛されていない。
幕末、斬首と死体を用いた試し斬りの専門家として活躍した山田浅右衛門が、明治の頃に剣豪・山岡鉄舟と対談した時の記録がある。
その中で浅右衛門は、どんな囚人でも斬首の時は激しく暴れるか狼狽するのが普通だったと証言している。彼の生涯の中で、大人しく処刑された者は、大盗賊の鼠小僧と浅右衛門を名指しで指名した花魁の女性の二人しかいなかったという。
だが、写真の犠牲者らは、全て大人しい。
当時、大人しく殺されることができる者といえば、特攻や玉砕を躊躇(ちゅうちょ)なくできた日本兵か、死を受け入れる教育を受けて育った邦人か、中国の馬賊くらいだ。あるいは、死ぬ覚悟で潜入してきた便衣兵(ゲリラ)か?

ポイント9:犠牲者は、普通の中国兵でも一般人でもない。

鑑 定 結 果
まず、犠牲者と見学の兵士たちの服装から見て、出典の説明と季節が一致しない。使用している刀も、柄側の形状から見て中国の苗刀だ。
執行者の刀法は、全然、戸山流ではない。もっとも、南京戦当時はまだ戸山流は開発されていない為、日本古武道を学んだ人物とも考えられる。が、「D」「E」の動作から見て中国の刀術(纏頭刀)を用いている可能性が高い。

大勢の目撃者(見学の兵士)がおり、これほどの軍刀操作の腕前を持った兵士がおり、これほど証拠(写真)があるにもかかわらず、部隊名、執行者の姓名、正確な日時は、全て不明ときている。(不明なのは、中国側が故意に隠蔽してる為ではないのか?)
カメラマンが五人以上いるという事は、この場面のフィルムを所有している家族が五件以上あるはずだが、一件たりとも確認されていない。撮影者自体不明だ。

そして、犠牲者らは全員覚悟ができており、一般人や普通の中国兵ではない事が分かる。馬賊出身の中国兵とも、日本兵とも、邦人とも考えられる。
事実、犠牲者の一人は、足元が地下足袋に草鞋掛けをしたようになっている。これは日本の様式だ(中国にも似た靴があるのかも知れないが)。

これは大勢の撹乱工作兵(偽日本兵)を用意し、馬賊か日本兵を用いて斬首を行っている場面だと考えられる。事実、私が鑑定した“銃剣を使って中国兵を刺殺する場面”と称した写真の中に、銃剣操作から見て、どう考えてもヤラセとしか思えないものがあった。その写真でも、今回と同じように大勢の偽日本兵が背景に並んでいた。

たとえ、本物の日本兵による斬首刑の場面だとしても、このような光景は極めて異例である。
その理由は、第一に軍刀操作をまともにできる日本兵が極端に少なかった事。

第二に斬首刑は極めて効率が悪い為だ。
日本には中国のように、首と胴体が離れれば冥土でも離れたままになってしまうなどという考え方はない。
あくまで、安楽死させる事を目的としている。
だが、斬首刑というものは非常に難しく、失敗率が高かった事で知られる。
侍の時代は、斬首刑の際は“斬り柄”という専用の柄を用い、刀を振る速度を増す為に鉛流しの鍔(鉛製の鍔)を付け、斬首用の手幅で切ったが、それでも失敗する事が多かった。

具体例を挙げると、幕末の堺事件(1868 年3 月8 日、無断で堺に上陸したフランス水兵20 名と、堺の警護を勤めていた土佐藩士との間で生じたトラブル。この時、銃撃戦となり、フランス水兵11 名が死亡。この責任を問われ土佐藩士20 名が切腹に処された)の時に切腹した箕浦猪之吉の例がある。
彼が切腹した時、介錯人(安楽死させる為の斬首役)の手元が狂い、ウナジの上部に刀が衝突して斬り損じてしまった。箕浦猪之吉は血を噴出しながら「何とせられたか!心静かに、心静かに!」と介錯人を励ましたが、二刀目でも両断する事ができず、三刀目でやっと首を落とす事に成功した。
この介錯を勤めた馬淵桃太郎は、北辰一刀流の使い手だ。(玄武館では坂本竜馬と共に修行を積んだ間柄)
この二十名の切腹には、無双直伝英信流の17 代・大江正路が立ち会っていたが、彼の証言によればほとんどの介錯人が斬り損じていたという。
大江の証言の出典)岩田 憲一 「古流居合の本道―全解・無双直伝英信流」 スキージャーナル社 2002/11

第三の理由は、刀の修復に手間が掛りすぎるためだ。
いかに日本刀が優れているとはいえ、使い手が悪ければ簡単に破損する。人を切れば刃こぼれも生じ、研ぎに出さねばならない。
日本刀は、一回の研ぎに10 工程以上(作業工程の分類の仕方によって異なる)掛り、日数にして最低でも十日前後、長くて一ヶ月近く掛かる。
人を殺す度に、修復に十日以上も掛ってしまうのであれば、銃剣で刺した方がはるかに効率が良い。

右は、土壇斬り(畳表を巻いた物を積み重ね、垂直に斬る事)で刃筋を乱してしまい、激しく折れ曲がってしまった日本刀。
一度でも刃筋を狂わせれば、畳表相手でも、この通り折れ曲がってしまう。

転載元)「歴史群像シリーズ 日本の剣術」 学習研究社 2005/05 131 頁 (国際抜刀道試斬連盟による試し斬りにて)



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