プロパガンダ写真
<軍刀編>


(Fraudulent photograph, composite picture, and falsification photograph)
A fraudulent photograph is investigated.

鑑定NO.1 [ 合成写真 ]
鑑定NO.2 [ 特撮写真 ]
鑑定NO.3 [ 歪曲写真 ]
鑑定NO.4 [ ヤラセ写真 ]
鑑定NO.5 [ トリック写真 ]
鑑定NO.6 [ 50%偽写真 ]





戸山学校の正門

画像元)大日本帝國陸海軍史料館
http://moijan0.hp.infoseek.co.jp/index.htm


旧日本軍の軍刀術は、陸軍の戸山学校で開発された。
戸山学校とは、各隊から抜粋した将校や下士官に射撃・体操・剣術・戦略等を教える目的で、1873 年に創設された軍事学校だ。
この学校の“剣術科”では、武道界の第一人者・中山博道{*1}を招いて軍刀術の研究が行われ、“剣道”を主体に、簡単な“居合術”が五本教練されていた。
“居合”とは、「抜く」「斬る」「納刀」の動作からなる武道だ。

千葉周作

(1793 年~1856 年1月17 日)

当時の“剣道”は組打(取っ組み合い)を許可していたという点を除けば、今日の“剣道”と同じものだ。

この“剣道”は、剣豪・千葉周作が創始した北辰一刀流がベースとなっている。
両足を正面に向け、右足を常に前に出すという独特の足運び、その足運びを隠す為の長袴の着用、各流派の基本技を集大成・簡易化した技術など、今日の“剣道”のほとんどの技術は、千葉周作が考案したものだ。

剣道


この北辰一刀流の技術は、、剣術の試合には最適であった為、19世紀以降、流派を越えて広く普及し、一つのスタイルとして定着した。
1895 年、全ての武道流派を包括する「大日本武徳会」が設立されると、このスタイルを用いる剣術は、“剣道”と名を改められ、高野佐三郎{*2}の尽力によって用語と技術の統一が図られた。
以降、“剣道”は日本全国に普及し、戸山学校で軍刀術として採用されたばかりか、1911 年には中等学校の正科となり、1941 年には国民学校の必修科目にまで上り詰めたほどだった。

しかし、“剣道”はあくまで競技用剣術であり、その得物の握り方から刀法に至るまで、実際の軍刀術には余りにも不向きだったといわれる。
その実例として中村泰三郎(戦中は特別剣術教官を勤め、戦後は日本居合道界の最高峰に位置した人物)が、部隊内で実施した試し斬り大会の記録がある。
参加人数は、剣道有段者を多数含む50 名。試し斬りの対象物は生木を入れないカマス。結果は、両断に成功したのはわずか15 名。他の者は全員切り損じてしまい、6名が刀身を曲げ、1 名が自分の左膝を切ってしまう有様だった。{*3}

1937 年、日中戦争が勃発すると、白兵戦を通して“剣道”では人が切れない事が判明し、戸山学校でも軍刀術の見直しが始まった。
1940 年11 月、陸軍戸山学校田中久一学校長の指導の下、初の実用的な軍刀術である「軍刀の操法及び試斬」が制定された。
1942 年1 月には、「短期速成教育軍刀(一撃必殺)要領」が制定され、ようやく実戦で通用する軍刀術が誕生するに至った。

しかし、軍刀術を直接学ぶ機会があったのは、戸山学校に入学を許された歩兵科の生徒のみであり、ほとんどの将校は正しい軍刀術を学ぶ機会はなかった。
また、官給軍刀には粗悪品が多かった他、鉄製の目釘(刀身と柄を繋ぐ芯)を使用することも多く、切れずに逆に柄が破損することがあった。{*4}

戦時中、実際に軍刀を扱えた者は小数に過ぎず、人が切れるほどしっかりとした軍刀も少なかったのである。
馬賊{*5}や捕虜の処刑に、斬首刑を用いるケースがあった事は事実だが、これは極めて例外的なものだ。
にもかかわらず、第二次大戦中は日本軍の野蛮さを強調する為に、中国の国民党政府やアメリカによって、日本兵が軍刀を奮って蛮行を働く偽写真が大量に作成され、各メディアにばら撒かれてしまった。

この手の写真は、今日も歴史資料として用いられているばかりか、日本国内では北朝鮮と繋がりを持つ左翼団体が「反戦教育の教材」と称しては活用し、日本人の愛国心を破壊する為の道具として悪用し続けている。
このファイルでは、そういった軍刀で蛮行を働く日本兵と称して出回っている写真の真偽を鑑定する。







鑑定NO.1 [ 合成写真 ]

被写体:日本海軍の水兵。

状況:水兵が中国人の首を切り落とし、手にさげている。両足の間には、中国人の首無し死体が横たわっている。

撮影日時:正確な日時は不明。日本軍が上海から南京に攻め上がった時のものだという。
(海軍陸戦隊も南京攻略戦に参加し、1937 年12 月17 日、南京入城式では、ゆう江門より分列行進している)

撮影者:不明
鑑 定
不自然な箇所 塗りつぶされた箇所

不自然な箇所

刀身には、一滴の血痕も見られない。
この水兵が持つ軍刀には、人を斬った痕跡がない。

ポイント1:軍刀は使用していない

普通、長髪をつかめば、つかんだ指の隙間から毛が溢れる。当然、生首の額にも余った毛が垂れる。
だが、指の隙間からは一本の毛も溢れず、生首の額にも毛は一本も垂れていない。生首は、もみ上げも短く、実は短髪である事が分かる。
また、生首の頭髪は陽光で白光しているが、手の親指側と薬指側から溢れているはずの頭髪は白光しておらず、真っ黒だ。周辺を黒く塗りつぶし、あたかも髪の毛をつかんでいるように見せかけている事が分かる。

ポイント2:髪をつかんではいない

(a)は首無し死体。
(b)は水兵の左足。
(c)は水兵の影。
(d)は、地面の凹凸か、あるいは首無し胴体の左膝。


左足(b)から影が伸び、上半身の影(c)へと繋がるはずが、なぜか左足(b)の影が見当たらない。

ポイント3:左足の影がない。

なお、(d)がただの地面の凹凸だとすれば、(c)の位置に死体の下半身が存在するはずだが、見当たらない。
もっとも、(d)が死体の左膝だとすれば、左足を曲げた状態で(d)の位置に膝を突き出し、右足は真ん中奥に向って伸ばしていると考えられる為、 (c)の位置に下半身が見当たらなくともおかしくはない。

塗りつぶされた箇所
(c)の線を堺に、空間(a)と空間(b)の陰の濃度が異なる事が分かる。(a)が濃く、(b)は淡い。
おそらく、空間(b)に存在する“なにか”をインクで塗りつぶしており、その痕跡を隠す為に(b)の位置に薄いフィルムを貼っているのだろう。

ポイント4:写真の右下側が塗りつぶされている

一見、手の内側から(a)の位置にあふれ出した髪の毛に、親指が隠れているように見える。
だが、(a)の位置に本当に髪の毛が溢れているのならば、下部の生首の頭髪同様、その髪の毛は陽光で白光しているはずだ。
だが、白光せず、塗りつぶしたように真っ黒だ。
小指側(b)には、何か環のような曲線が見える。
(a)(b)の濃度が右の空間(D)と同じである為、“左手に握っている何か”が塗りつぶされている事が分かる。
また、陽光は左から射しているが、なぜか手の真下(c)に影が出来ている。
そして、この(c)の影の濃度は、右側の空間(D)と同じだ。
生首の頭頂部と左手の下部を塗りつぶす事によって、水兵が頭髪をつかんでいるように見せかけている事が分かる。

ポイント5:本当は髪をつかんではいない

空間(D)から(a)(b)に掛けて塗りつぶしが行われている点と、(b)の環の痕跡と、(a)の塗りつぶし跡の形から察するに、この左手は環のついた棒状の物体を握っている可能性が高い。
おそらく、刀の鞘だと思われる。

ポイント6:髪の毛ではなく、本当は刀の鞘をつかんでいる

首無し死体(a)に左から陽光が当たっている。
地面(c)にまで陽光が届いている。
だが、陽光が当たるはずの左足(b)には、全く陽光が当たっていない。真っ黒だ。
明らかに、左足はインクで塗りつぶされている。

ポイント7:左足も塗りつぶされている


左の写真は、1931年の天津暴動の際、租界を警備する海軍陸戦隊員の写真。
出典)「1億人の昭和史日本の戦史2満州事変」毎日新聞社62 頁の写真の一部。
本物の海軍陸戦隊は、肩バンドを入れ、鉄兜と脚絆を装備している。

ポイント8:生首を持つ水兵の武装はデタラメ。
ポイント9:水兵の左足の形状もおかしい。


鑑 定 結 果

軍刀に血痕はなく、使用した痕跡はない。
水兵の左手周辺と写真右下に掛けて、塗りつぶしの痕跡が確認できる。塗りつぶし跡から察して、水兵は左手に刀の鞘を握っていた可能性が高い。
つかむ事のできない短髪の生首は、上から貼り付けただけの合成だと思われる。
(首無し死体も、同様に合成だと思われる)
この生首と左手の間を塗りつぶす事によって、生首の髪をつかんでいるように見せかけているのだ。
また、水兵の左足は、陽光が全く当たっておらず、足の影も見当たらない。本物の海軍陸戦隊員の足と比較すると形状もおかしい。
これは、この水兵の左足がインクで描かれた偽物である事を示している。
おそらく、水兵の足元に首無し死体の写真を貼り付けた為に、水兵の本物の左足が隠れてしまったのだろう。だからこそ、貼り付けた首無し死体の上から、インクで偽の足を描いたのだ。
この写真は元は、右手に軍刀をさげ、左手に鞘を握る水兵の記念写真だったと思われる。その記念写真の上から、合成と塗りつぶしを行い、蛮行写真に見せかけているのだ。







鑑定NO.2 [ 特撮写真 ]

被写体:
日本軍兵士

状況:日本兵が複数の中国人を切り殺し、切り落とした首をさげている。

撮影日時:不明。南京戦の時だといわれている。

撮影者:不明。
                                                                            
鑑 定
不可解な点 矛盾点

不可解な点

良く見ると、この生首には頭髪らしきものが全くない。
耳の付け根にモミ上げらしきものがあるが、ボリュームがなくモミ上げではない。
陽光は、左からほぼ水平に射している為、これは耳の影でもない。
本物の頭髪の代わりに、インクで髪が描かれているように思える。

ポイント1:頭髪が全く無い


顔全体が丸びを帯び、頬骨や顎骨の硬質が感じられない。
死体硬直が過ぎ、筋肉が弛緩しているのか?
否、筋肉が弛緩すれば、顎を支える側頭筋、咬筋、外側翼突筋、内側翼突筋なども弛緩する。ゆえに、このように横向きに持てば、顎は左頬側に傾く。
だが、顎はしっかりと固定されている。

ポイント2:頭蓋骨の存在感がない


また、この生首は切断された後、胴体から噴き出す血で出来た血溜まりの中から拾い上げられたはずだ。しかし、この生首には泥も血も付着していない。

ポイント3:綺麗過ぎる生首


眉の形、額中央の突起といい、この頭部の形状は仏像を連想させる。

ポイント4:まるで作り物のような頭

矛盾点

足元に転がる二体の死体と手に持つ生首から察して、日本兵は複数の中国人を切り殺したように見える。
ところが、刀身には全く血痕が見当たらない。

ポイント5:この軍刀は使用していない


軍刀を奮って虐殺を行ったはずが、軍服には一切返り血を浴びていない。
首を拾い上げた左手にも、血液の付着は見られない。

ポイント6:日本兵の体には、虐殺を行った痕跡がない。


(D)の死体には首がついている。
生首の胴体が見当たらない。

ポイント7:生首には胴体が無い


背後(E)には、長い影が左から右に複数伸びている。だが、日本兵と手前の死体には、その影が掛かっていない。

ポイント8:手前と背後の風景が異なる

鑑 定 結 果

左手に持っている生首は、頭髪もなく、血も泥も付着しておらず、胴体も見当たらず、顎関節もあるようには見えない。
本物ではなく、仏像を模した祭事用の張り子の頭だと思われる。
そして、日本兵の軍服にも軍刀にも虐殺の痕跡が見当たらない。
完全武装の状態で軍刀を持ちながら腰には鞘を付けていない事から、撮影の時に抜き身の軍刀を持たされただけなのだろう。
手前と背後の風景が若干異なる為、背景は写真パネルの可能性も考えられる。







鑑定NO.3 [ 歪曲写真 ]
鑑 定 結 果

被写体:
国民党兵士の中国兵たち

状況:中国兵が、共産主義者の疑いを掛けた中国人の首を刎ねている。

撮影日時:1927 年12 月。場所は中国の広東。

撮影者:Jay Calvin Huston

日中戦争中、中国は、日本軍と最も敵対した国民党軍の他、共産主義を掲げる共産党軍や、各地方の軍閥に分かれていた。
このように中国人同士でも盛んに斬首刑は行われており、その手の写真が、一部で日本兵の蛮行場面として出回っているケースがある。
ちなみに、この写真で使用されている刀剣は、中国の環刀か鬼頭刀だと思われる。

環刀(軍用) 鬼頭刀(斬首用)
画像元)中国武器武術博物館
http://www.gaopu.com/index.html






鑑定NO.4 [ ヤラセ写真 ]

被写体:刀の手入れをする日本兵

状況:殺人ゲームを行った日本兵が、刀の手入れを行っている所。

撮影日時:不明。南京戦の時だといわれている。

撮影者:不明。
鑑定

日本刀の手入れは、埃や湿気から刀身を守る為に行う。
日本刀は、一回の研ぎに10 工程以上(作業工程の分類の仕方によって異なる)掛り、日数にして最低でも十日前後、長くて一ヶ月近く掛かる。
研ぎたての刀は、刀身に水分が滲んでいる為、初めは頻繁に手入れが必要となる。
この兵士らが本当に虐殺を行ったのであれば、刀を研ぎに出した十日以上後の光景であり、刀身の水分を除去する為の手入れという事になる。

基本的な大間違い デタラメな手入れ

基本的な大間違い
手入れの手順

日本刀の手入れは、初めに良く揉んだ和紙や奉書紙か、あるいは、綿やネルの生地で、刀身の湿気や埃や古い保存油を拭い取る事から始まる。
(この紙や布は、“打粉”を拭う時や“丁子油”を塗る時にも用いる)
次に、“打粉(うちこ)”を刀身に軽く打つ(掛ける)。
“打粉”とは砥石の粉であり、この粉に刀身の湿気や油を染み込ませる。
“打粉”を打っては拭う作業を一、二回繰り返す事で、刀身の湿気と油を完全に除去する。
最後に、刀身を湿気と錆から守る為に、“丁子油(ちょうじあぶら)”など保存用の油を刀身全体に薄く塗りつけて終わる。


三人とも、刀の柄と鍔が付いた状態のまま、手入れを行っている。
刀の手入れは、刀身が露出した部分とハバキ(刀身の根元を覆い、柄に固定する為の金具)で覆われた部分まで行う。
ゆえに、手入れの際は、柄、鍔、ハバキなどの付属品は全て取外し、裸の状態にする。

打粉”を打つ時も、粉がハバキに詰まってしまう恐れがある為、必ず取り外さねばならない。

ポイント1:三人は、手入れの一番基本的な手順を間違えている

青い部分がハバキ

画像元)旧日本帝国陸海軍軍刀
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/
デタラメな手入れ

刀身に“打粉”を打っている場面。
右は、“打粉”。
棒の先に付いた丸い布袋の中に砥石の粉を入れ、刀身を軽く打つことで“打粉”を振りかける。


刀身を拭う時や丁子油を塗る時は、拭い紙を真ん中で二つ折りにし、刀身の棟(刃の反対側)を挟むようにする。
この兵士は、拭い紙を親指と四指の間に挟んで、刀身の側面に当てているだけに過ぎない。

ポイント2:拭い紙の使い方がおかしい

(a) の箇所に小さな長方形の塊が見える。
(b) の箇所に細い棒状のものが見える。
形状から見て“目釘抜き”だ。
(右の写真は、目釘抜き)
“目釘抜き”は、刀身と柄を繋ぐ芯である“目釘”を抜く為に用いる。だが、この兵士は刀身に用いている

ポイント3:“目釘抜き”の使い方がデタラメ


左は“目釘”を抜く所。
柄の外に飛び出しているタイプの“目釘”は、槌の方で叩いて押し出す。

画像元)僕の日本刀日記
http://www4.ocn.ne.jp/~ikkaku/
鑑 定 結 果

これが南京戦(1937 年12 月9 日に南京城を包囲。10 日に総攻撃。13 日に陥落)の時に撮影されたものならば、冬場だ。
冬場は湿度が低いとはいえ、湿気が氷結し易い。そのような時期に、野外で、刀身の湿気を取り除く為の手入れを行う事は無い。
そして、三人とも基本的な手入れの手順を間違えている。しかも、右の二人の手入れの仕方は全くデタラメときている。
百%、役者を使ったヤラセ写真である。







鑑定NO.5 [ トリック写真 ]

被写体:
左は、中国人と日本軍兵士。右は、中国人の死体と日本軍兵士。

状況:中国人の首を刎ねる日本兵。

撮影日時:不明。南京戦の時だといわれている。

撮影者:不明。
                                                                            
鑑 定
注目すべき点 不審な点

注目すべき点

執行者(A)は、八相{*6}の位置に刀を構えている。
素人が八相に構えれば、刃筋かグリップが歪む。だが、刃筋に乱れは無く、グリップも構えに適したもの。
左拳は、柄頭を余らせた位置を握っている。これは陸軍の軍刀術(戸山流と高山流)でも採用されていた手幅であり、真剣操作には不可欠な位置だ。

犠牲者(C)の方は、上着を脱がされ、素肌をさらしている。
弛んだ布は、簡単には刃物を通さないという事を執行者は知っているらしい。

ポイント1:執行者は玄人


幕末、斬首と死体を用いた試し斬りの専門家として活躍した山田浅右衛門が、明治の頃に剣豪・山岡鉄舟と対談した時の記録がある。
その中で浅右衛門は、どんな囚人でも斬首の時は激しく暴れるか狼狽するのが普通だったと証言している。彼の生涯の中で、大人しく処刑された者は、大盗賊の鼠小僧と浅右衛門を名指しで指名した花魁の女性の二人しかいなかったという。
犠牲者の表情(B)をご覧いただきたい。少しも狼狽の色が無い。
これは、彼が普通の一般人ではない事を示している。

しかも、この犠牲者はウナジ(B)を真っ直ぐに伸ばし、膝立ち(D)になって、首の高さを執行者の腰の位置に合わせている。
これは執行者にとって、非常に斬りやすい姿勢だ。この犠牲者は、どういう姿勢を取れば斬首が失敗せずに済むか、否、楽に死ねるか知っているらしい。

ポイント2:犠牲者は普通の一般人ではない

不審な点(1)

刀の鍔が異様に小さい。
日本刀ではなく、鍔が小さいタイプの倭刀(日本刀型の中国刀)とも考えられる。
また、右手の親指の状態から察するに、人差し指と親指で環を作っているように見える。これは回し打ち(片手を支点にして、刀身を一回転させる刀法)を行う時のグリップだ。
中国の倭刀や苗刀(諸手大刀)の場合、回し打ちの動作を非常に多用する為、構えた時から既に環を作っているケースを良く見かける。
この執行者は、中国の苗刀術の使い手である可能性が高い。
もっとも、鍔の大きさと指の環は、私の見間違いである可能性の方が高いが。

ポイント3:苗刀の使い手である可能性も若干ある。


左足を正面に向け、右足を横に向けている。
人体の中央を通る正中線を斜め前に向ける半身の姿勢だ。
軍刀は八相の位置。
これは、古武道では非常に一般的な八相構え。
だが、陸軍の戸山学校で開発された軍刀術(戸山流居合術・高山流抜刀術)に、八相の構えはない。
剣道の八相構えとも異なる。(剣道は正中線を正面に向ける)

ポイント4:日本軍の軍刀術の構えではない。
備 考

1943 年11 月、一般の軍人の為に、戸山学校の軍刀術が『軍刀の操法及試斬』のタイトルで出版されている。その教本の中で、剣道の刀法は「僅(わず)かに敵の被服を裂き、皮膚を傷くる程度の効果を得るに止る(48 頁)」と注意を受けている。が、既に広く普及していた剣道は、軍内で廃される事は無く、戸山学校が制定した実戦用の軍刀術(戸山流・高山流)以上に盛んであり、最後まで軍の軍刀術の主流を成していた。
終戦まもない1944 年に入隊した故・井上正孝(戦後、剣道界の第一人者)も、軍で剣道指導教官に任命され、剣道の指導を行ったという。{*7}

不審な点(2)

犠牲者の膝から上半身(a)に掛けて、インクで塗りつぶされている。
インクで塗りつぶす事によって、一見、衣服を着ているように見せている。
だが、衣服ならば肌蹴た状態で背中(b)にある。
どうやら何かを隠す為に塗りつぶし、その塗りつぶし跡を衣服に見せかけているようだ。
塗りつぶし跡の形状から察するに、膝の上に、中央が少し裂けた長方形の布が掛けられているらしい。これを隠す為に、インクで塗りつぶしているようだ。

ポイント5:膝の上には、長方形の布が掛けられている。これを隠す為に、塗りつぶし、まるで衣服の一部のように見せかけている。

長方形の布 着色

旗だとすれば、国民党軍が掲げていた“青天白日旗”か?
否、長方形の布の塗りつぶされていない部分は白い。
モノクロ写真では、赤は黒に近い色合いになる。
晴天白日旗は赤地だ。
そして、共産党軍の旗も赤地だ。
布は白地であり、旗だとすれば“日の丸”の可能性が高い。

ポイント6:旗は“日の丸”の可能性が高い                          

国民党(晴天白日旗)
モノクロ化
共産党の旗
モノクロ化
日の丸
モノクロ化

塗りつぶされた部分を復元
1.旗を再現 2.上着を着色
3.体を再現 4.体を着色

顔も着色したかったが、上手く行かなかった為、旗、上着、胴体を復元・着色するまでに留めた。
塗りつぶし跡から察して、犠牲者は、元々はこのような姿で座らされていたと思われる。

ポイント7:犠牲者は、上着をはだけた状態で、膝の上に日の丸をかぶせられている

鑑 定 結 果

犠牲者は、覚悟ができている上に、斬首の成功率を高める姿勢(楽に死ねる姿勢)まで承知している事から、一般人ではない。
執行者は、グリップの正しさと、犠牲者の上着を肌蹴させている(衣服越しには斬りづらい事を知っている)点から見て、軍刀術の玄人である事が分かる。
ゆえに、これは普通に日本兵が中国人捕虜を処刑する場面だと解釈する事ができる。

だが、一つ不可解な点がある。
それは、なぜか犠牲者の体が塗りつぶされているという点だ。
塗りつぶし跡から察するに、どうやら“旗”が塗りつぶされているらしい。
そう。この犠牲者の膝の上には、なぜか旗がかぶせられているのだ。

なぜ、旗をかぶせているのか?その理由は二つに別けられる。
一つは、敵の旗を穢す為だ。
犠牲者の膝の上に旗をかぶせた状態で首を刎ねれば、その旗は血で穢れてしまう。膝上の旗が“晴天白日旗”であれば、国民党軍を侮辱する目的で日本兵が膝にかぶせたと解釈できる。
だが、旗は白地である為、“日の丸”である可能性が高い。日本兵が、自分で自分の旗を穢すはずがない。
もう一つの理由は、記念の為だ。
すなわち、日本兵が捕虜を殺す記念に、犠牲者の膝に“日の丸”をかぶせて撮影を行ったと解釈できる。
だが、日本兵に取って、“日の丸”は愛国心の象徴だ。出征する時は、もう二度と会えないかも知れない家族や友人らに寄せ書きをしてもらい、それを死ぬまで大切に持ち続ける。その“日の丸”を、このような娯楽の道具に使う感覚は、当時の日本人にはない。

それ以前に、「穢す」「記念」のいずれの目的であろうと、旗が“晴天白日旗”“日の丸”のいずれであろうと、中国側は旗を塗りつぶす必要はないはずだ。
旗を塗りつぶし、衣服に偽装したという事は、この写真には隠さねばならぬ不都合があった為だろう。
いかなる不都合があって、塗りつぶしたのか?

そのヒントは、執行者の構えにある。
執行者は“八相構え”を用いている。これは、日本古武道では一般的な構えとはいえ、日本軍の軍刀術では採用されていない構えだ。
戸山学校で制定された軍刀術(戸山流・高山流)には、“八相構え”はない。その軍刀術制定以前から軍内で学ばれていた剣道には“八相構え”が存在するが、構え方が異なる。
この事から、この執行者は、実は“苗刀術”を扱う“撹乱工作兵”である可能性が考えられる。
苗刀とは、日本刀の影響を受けて作られた中国刀だ。中国側には、苗刀術を学んだ兵士たちが多数おり、彼らは日本刀を操作する事もできた。{*8}
撹乱工作兵とは、民衆の反日感情を鼓舞する為に、国民党軍が擁していた偽日本兵だ。国民党軍は、この工作兵たちに民衆を襲わせる事で、中国人民の反日感情を鼓舞していた。{*9}

もし、執行者が撹乱工作兵(偽日本兵)ならば、犠牲者は何者なのか?
おそらく、犠牲者の方が、日本兵だと思われる。
犠牲者は覚悟ができており、自ら楽に死ねる姿勢を取っている。
死を恐れず、特攻や玉砕を躊躇(ちゅうちょ)しない日本兵ならば、大人しく死を受け入れることはできよう。

ならば、犠牲者の膝の上に“日の丸”を乗せた理由も説明が付く。
すなわち、撹乱工作兵は、日本兵による虐殺場面である事をアピールする為に、“日の丸”を膝の上に乗せたのだ。斬首した時の血で、“日の丸”を穢す目的もあったかも知れない。
執行者の背後では、三人の日本兵が見学し、この風景を笑っている。
この三人も撹乱工作兵だと解釈すれば、日本人でありながら、中国人捕虜と称して処刑されてしまうという皮肉が滑稽に思えて、笑っているのだと説明が付く。
最終的に旗を塗りつぶし、衣服に偽装したのは、このようなアピールは却って不自然だと気付いた為だろう。日本兵が大切な“日の丸”を娯楽の道具に使っているという点を怪しまれない為にも、塗りつぶさねばならなくなったのだろう。(しかも、その日の丸は中央が裂けている)

この写真は、日本兵と中国兵が入れ替わったトリック写真である可能性が高い。







鑑定NO.6 [ 50%偽写真 ]

被写体:日本軍兵士と中国人。

状況:中国人の首を刎ねる日本兵。

撮影日時:不明。南京戦の時だといわれている。

撮影者:不明。

鑑 定
刀と刀法を調査 縛り方を調査

刀と刀法を調査

左小手が、右腕に隠れている。
これは左拳で刀の柄を握っている為だ。
諸手で刀を持ち、振り抜けば、右肘は伸び、左肘は曲がる。
左肘が曲がっている為に、左小手が写真奥から正面に向って水平に近い状態になっている。その為、正面からでは左小手が余り見えなくなっている。
そして、わずかに見えるはずの部分ですら、右腕に隠れてしまっているのだ。
この事から、この執行者は両手で刀を握っている事が分かる。

ポイント1:執行者は両手操作の刀を使っている


刀身は片刃。
切先は尖っている。
身幅は、先端に行くほど薄くなっている。
これに該当する刀は、日本の日本刀の他、中国の刀である苗刀か倭刀のいずれかだ。

ポイント2:刀は、日本刀や苗刀に似ている
中国の苗刀
刀法

執行者のフォームを見る限り、日本の“袈裟切り”か、中国の“斜劈刀”だと思われる。いずれも斜めに斬る刀法であり、これだけで日本と中国のいずれの刀法であるかは判別できない。

縛り方を調査

背中上部に、筋が見える。
縄が食い込んでいる為に生じた筋か?
もし、そうならば、背中下部の結び目を経由した縄が、背後から首に引っ掛けられている事になる。
これは、束縛した者が暴れた際、自動的に首が絞まるという工夫であり、捕縄術では良く用いられる。
もっとも、単なる衣服のシワかも知れないが。

ポイント3:捕虜を縛る縄は、暴れれば首が絞まるように工夫されている


(a)に、縄の先端が垂れている。
(b)には、もう一方の縄の先端が後方に伸びている。これは捕虜が逃げないように、捕虜を連行した者が握り締めている為だろう。

ポイント4:一本分の縄の両端が見える


(c)では、両手を交差した状態で、手首が束縛されている。
(d)には、その手首を束縛した縄が、臀部に向ってのびている。しかし、弛んでいる為、単なる衣服のシワかも知れない。

ポイント5:手首が束縛されており、手首を束縛した縄が臀部側へ回されている


(e)の脇腹には、臀部から腹部に向って、斜め上方にのびる縄がハッキリと見える。
(f)の部分が、何かに締め付けられて、くぼんでいる。
この事から、臀部から両脇を通った縄が、腹部の前面で交差するか、結束されている事が分かる。

ポイント6:臀部から腹部に向けて、縄が掛けられている


(g)の二の腕部分は、一見、カウ・ヒッチ(雲雀結び)を掛けられているように見える。だ
が、良くみれば、縄を一重に巻いているだけだと分かる。
(h)には、その縄が複雑に結束している。
二の腕に結ばれた縄の位置の低さ、腹部の前面のくぼんでいる位置から察して、腹部の前面を経由した縄が左右の二の腕を経由し、背中側で繋ぎとめられている事が分かる。

ポイント7:腹部から二の腕を経由した縄が、背中側で結束されている


以上、(a)~(h)から察するに、次のように縄が掛けられている事が分かる。
第一に手首を束縛している。
第二に腰の周囲か股間を経由して、縄を臀部側に回している。
第三に、その臀部側に回した縄を左右の脇を通して、腹部の前面で交差させている。
第四に、腹部の前面で交差させた縄を左右の二の腕に巻きつけ、背中側で結束している。
以上、第一から第四の手順で縄を掛ける事によって、犠牲者は腕を完全に固定されている事が分かる。
その上で、さらに首にも縄を掛ける事によって、暴れれば首が絞まる工夫までされているらしい。
シンプルかつ、極めて合理的な縛り方だ。

フィギアを使って再現 背中上部の筋が見間違いだった場合
鑑 定 結 果

刀の形状や特徴、そして刀法からでは、本物の日本兵なのか撹乱工作兵なのか判定できない。
よって、私は捕虜の束縛方法に注目をおいた。
縛り方は極めて合理的であり、素人が適当に縄を掛けた訳ではない。
この縛り方を調べる為、日本の憲兵学校でも教練されていた捕縄術が掲載されている「兵法要務 柔術剣棒図解秘訣 明治20 年発刊」「兵法要務 武道圖解秘訣 明治38 年発刊」を取り寄せた。
が、この縛り方に該当する捕縄術、あるいは近い捕縄術は皆無だった。“割菱縛”や“下廻縄”が少し似ていたが、似ているだけで全然異なる。
次に、日本の捕縄術の大全集というべき「図解捕縄術 藤田西湖著書 名著刊行会」{*10}を取り寄せた。
だが、同一、あるいは似たような束縛方法を発見する事はできなかった。
東流の“胴搦”が一番似ていたが、二の腕を一重に巻くだけという点や手元の束縛方法や臀部に縄を回す点などが異なる。また“胴搦”は胸側も束縛するが、この犠牲者の胸元の衣服は丸くたるんでおり、束縛されていない事が分かる。
たとえ、捕虜の首に縄を掛けている点が私の見間違いだったと解釈しても、二の腕はただの一重巻きではなくカウ・ヒッチ(雲雀結び)だと解釈しても、やはり同一のものは発見できなかった。
それ以前に、この捕虜の束縛方法は、日本の捕縄術の特徴をなんら備えてすらいない。
この捕虜の束縛方法は、日本の束縛方法ではない。
では、これは撹乱工作兵による、日本人捕虜か馬賊を用いた処刑場面か?
それを確かめるには、中国側にこれと同じ束縛方法があるか否か調べねばならない。だが、資料が無く、その調査は断念した。
ゆえに、この写真は50%偽物としておく。




注 釈
{*1}中山博道(1873 年2 月11 日~1958 年12 月14 日)。
剣術は山口一刀流と神道無念流を習得し、神道無念流第7 代宗家を継ぐ。居合は、長谷川英信流下村派、長谷川英信流谷村派を習得し、自身で居合術の夢想神伝流を創始。杖術は、神道夢想流の杖を習得。
剣道界で活躍し、高野佐三郎に並んで剣道界の剣聖と呼ばれる。

{*2} 高野佐三郎(1862 年6 月13 日〜1950 年12 月30 日)。
幼少より中西派一刀流(初めて、竹刀と防具を用いる稽古方法を考案した流派)を学び、18 歳の時に山岡鉄舟の門下で無刀流を修行。警視庁の撃剣世話係り(剣術教師)を勤めた他、東京高等師範学校撃剣科講師、東京高等工業学校剣道師範、早稲田大学剣道部講師等を歴任し、“剣道”普及に尽力した。1925 年に、日本最初の剣道指導書『剣道』を発行している。

{*3} 左膝を切ってしまった人物は、見習い士官で大学時代は剣道三段の腕前だったという。
参考)中村泰三郎著書「日本精神と抜刀道」BABジャパン出版局 2001/10 30 頁

{*4}兵頭二十八&籏谷嘉辰共著「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」並木書房 2006年 47~54 頁

備考)2006 年6 月7 日、後楽園ホールで全日本戸山流居合道連盟会長・籏谷嘉辰率いる誠斬会の愛弟子四名によって、真剣と特別な防具を用いた『撃剣試合トーナメント』が行われた。
この時、鉄の目釘を用いた新刀(1600 年以降に作成された日本刀)・新々刀(明治の前後に作成された日本刀)・現代刀は“刃切れ”と呼ばれる亀裂がナカゴ(刀身の柄に差し込む部分)に生じ、古刀(1600 年以前に作成された日本刀)は目釘穴が広がってしまった。

{*5}中国で暗躍していた山賊。国民党軍には、この馬賊出身の者も多かった。

{*6}八相は、“八双”とも“撥草”とも書く。自分の肩に刀をかざす構え方の総称である。流派によって構えは異なり、独自の名称を持つ。

{*7}井上正孝著書「我が剣道と人生」致知出版社 2003年2月 107頁

{*8}1922~24 年に権力を掌握した大軍閥・曹?(金部に、「昆」の字)の軍隊に、“苗刀軍”なる諸手大刀を用いる部隊が存在し活躍している。

参考文献)秘伝剣術極意刀術(日本剣術と中国刀剣術−−その興亡と流伝の秘密を探る)/笠尾 恭二・平上 信行 共著/BAB ジャパン出版局 (1999/02)

{*9}ニューヨーク・タイムズ1938年1月4日の記事、チャイナ・プレス1月25日の記事、飯沼守少将の陣中日記1月4日の日記に、日本兵に扮装した“工作兵”の存在が記されている。

{*10}著者の故・藤田氏は、甲賀流忍術14世であり、工作員を育てる陸軍中野学校の教官をも勤めた人物。





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