日本軍と日本刀の実態


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陸軍94 式(日本刀式)を持つ将校 抜刀して指揮を執る青年将校
画像元)旧日本帝国陸海軍軍刀


1.軍刀術の歴史
2.軍刀を扱えなかった将校たち
3.軍刀の欠点
4.軍刀は実用的な武器か?
5.百人斬りの真相




軍刀術の歴史


1.簡易年表

江戸時代(創設期)
1593年 小野派一刀流の宗家・小野忠明が、将軍家の兵法指南役(武道教師)となる。
1700年
前後
小野派一刀流四代・小野忠一の直弟子・中西子定が、防具と竹刀を用いた稽古方法を考案する。
1822年 一刀流の千葉周作が、玄武館を創設。
各流派の基本技術を集大成・簡易化した“剣術六十八手”が編纂され、現代の剣道の祖となる北辰一刀流が誕生する。
明治〜戦前(剣道の誕生と普及)
1873年 軍隊指導者を育成する為に、全国の各部隊から抜粋した将校と下士官に、射撃・体操・剣術・戦略等の教練を行う学校・陸軍戸山学校が創設される。
1895年 全ての武道流派を包括する武徳会が創設される。
武徳会の下、竹刀防具を用いる剣術の名称が『剣道』と改められる。同時に、高野佐三郎らによって、“剣術六十八手”の改編、各流派の用語の統一が進められる。
1911年 『剣道』が中学の正科となる。
1916年 陸軍戸山学校にて、『剣道』が軍刀術として採用される。
1925 年 高野佐三郎が、日本最初の剣道指導書『剣道』を発行。
1931年
12月13日、皇道派(精神論を重んじ、天皇の親政を唱えたグループ)の荒木貞夫が、陸軍大臣に就任。(1934年1月22日まで留任)
1934年
1月23日、荒木貞夫が軍事参議官に就任。
2月15日、皇道派により、日本陸軍の軍刀が西洋刀式から日本刀式に変更される。(陸軍記念日の3月10日施行)
参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏谷 嘉辰 2006 27~28頁
1935年
8月12日
相沢事件発生。
相沢三郎中佐(剣道四段)が、皇道派に対立する永田鉄山軍務局長を軍刀で刺殺。
備考)一撃目を切り損じ(与えた傷の深さは1p)、銃剣道の突き技を用いて殺害
参考)前記 28~31頁

戦中(剣道から戸山流居合術へ)
1937年 日中戦争勃発。
1940年 実戦を通して、次第に『剣道』の刀法では人を斬れない事が判明。戸山学校で、改正の為の研究が始まる。
1940年11 月 陸軍戸山学校田中久一学校長の指導の下、初の実用的な軍刀術教本「軍刀の操法及び試斬」が発行。
1941年 『剣道』が国民学校の必修科目となる。
1942 年1 月 戸山学校より、「短期速成教育軍刀(一撃必殺)要領」が発行。
(これら戸山学校よって新たに改正された軍刀術が、戦後、戸山流居合術として確立される)



2.200年以上の歳月を掛けて作られた「剣道」


小野次郎右衛門忠明
(1569年〜1628年12月2日)

伊藤一刀斎の高弟の一人。
小野派一刀流を継承し、師の推挙により1593年に将軍家の兵法指南役(武道教官)となる。
同じく兵法指南役となる柳生宗矩の柳生新陰流と並んで繁栄し、多くの支流分派を形成する。


<技術の特徴>

柳生新陰流が、“半身立ちを多用する”“足運びの際は、爪先側を浮かし、踵を付ける”という戦国期の介者剣法(鎧合戦用の剣術)のスタイルを多く残しているのに対し、一刀流は“半身立ちを嫌う”“足運びの際は、踵を浮かし、爪先の付け根を付ける”という、それまでにはないスタイルを用いるのが特徴である。

また、“切り落とし”という刀身の鎬を活かした技術を極意とする。
(簡単にいうと、相手の撃ちかかる太刀の刀身に、我が太刀の鎬を擦り付ける事によって動きを封じて逸らし、そのまま反撃に転じる技術)

多くの流派で用いられる一般的な立ち方

これは、一般的に“半身”と呼ばれる立ち方。
人によっては、“真半身”“横身”“側身(そくしん)”“体を開く”“身を一重にする”などと言い表す。
(空手や中国拳法と異なり、日本古武道には立ち方に明快な名称がない事が多い)
流派や時々の動作によって、左右の足の向きは微妙に異なるが、左の図が最も一般的かつ基本となる“半身”立ちである。


<もっとも多い攻防パターン>

@最初に左半身に立つ。(ほとんどの流派が、最初に左半身に立つ)
A太刀は中段に構える。(中段構えは、最も基本的な構え)
B相手の攻撃を我が太刀で防ぐ。
C防いだなり、左右の足位置を入れ替える事によって、左半身から右半身に転じつつ我が太刀を打ち込む。

一刀流で多用される立ち方

半身立ちと大きく異なり、体の正中線(体の正面側の、脳天から股間までを通る線。人体急所が最も密集している所でもある)を相手側に向けるのが特徴である。
(もちろん、一刀流にも半身立ちはあるが)


<半身立ちと比べた利点>
半身立ちで攻防を行うには、左半身から右半身へ、右半身から左半身へと、体の向きを入れ替える動作を繰り返す必要がある。
だが、正中線を正面に向けて立つ事により、この“入れ替える動作”を排除する事が可能である。ゆえに、一挙動、一挙動の動作が、半身立ちの時よりも速くなる。

<半身立ちと比べた欠点>
@人体急所でもある正中線を相手にさらしてしまう為、危険性が高まる。
A半身立ちでは、左半身から右半身へ、右半身から左半身へと、体の向きを入れ替える事によって身に遠心力を起し、太刀さばきに活かす事ができる。だが、この立ち方では、その利点が全く得られない。

足運びの際、踵を浮かし、爪先の付け根側を付けるのは、迅速にシフトウェイトを行う為だと思われる。


中西子定
(生没年不明)

小野派一刀流四代・小野忠一の直弟子。
1700年前後に、直心影流で用いられていた面と篭手の防具を採用し、自身も胴と竹刀を考案する。

現代の剣道の防具の原型を創り上げた。


右の絵は、北原北斎画

千葉周作
(1793 年〜1856 年1月17 日)


中西派一刀流を学び、数多くの試合をこなした剣豪。
各流派の基本技術を集大成・簡略化した“剣術六十八手”を編纂し、1822年、より試合に適した技術体系を持つ北辰一刀流を創設する。


「剣術に左足を踏み据えるは甚だ悪しき事なり。身体自由ならずして器用の働き意ならぬものなり」(剣法秘訣北辰一刀流 『剣道初心稽古心得』より)


“右足を常に前に出す”“送り足を多用する”“その足運びを隠す為に、長袴を着用する”等の今日の剣道の技術と習慣は、千葉周作が生み出したものである。


高野佐三郎
(1862 年6 月13 日〜1950 年12 月30 日)

明治期、中山博道と並んで讃えられる剣聖。
幼少より中西派一刀流を学び、一刀正伝無刀流などを修める。
武徳会の依頼により、“剣術六十八手”を教育指導用に改編し、従来の複雑な技術を「仕掛け」「応じ」に別け、“手法五十種”を定める。
同時に、流派ごとにバラバラであった用語の統一に努め、1925 年に日本最初の剣道指導書『剣道』を発行する。

彼の手によって、今日の『剣道』が完成に至る。




3.戸山流居合術の誕生


一刀流系の流派の下、200年以上もの歳月を経て、今日の“剣道”は完成した。
1916年には、遂に戸山学校でも採用され、正式に日本軍の軍刀術としての地位を占めた。

だが、剣道はあくまで竹刀と防具を用いた剣術であり、その技術も、それに適したものへと変化していた。
ゆえに、本来の真剣操作に必要な技術(目釘を破損しない為の手幅や、対象物に刃が触れた瞬間に弧を描いて引く“引き切り”の技術)は逆に廃れてしまっていた。
この事実は、1937 年、日中戦争の勃発により白兵戦を通して明るみとなった。剣道の刀法では、軍刀を用いても人が斬れなかったのである。
(1940年に発行された「軍刀の操法及び試斬」の48頁において、剣道の刀法は「僅(わず)かに敵の被服を裂き、皮膚を傷くる程度の効果を得るに止る」と注意がなされている)
1940年末、この事に気づいた戸山学校では、軍刀術の見直しが始まった。

白兵戦の経験を持つ海軍の高山政吉が編み出した技術を取り入れ、陸軍戸山学校・田中久一学校長の指導の下、1940 年11 月に、最初の実用的な軍刀術『軍刀の操法及び試斬』が編成された。ついで、1942 年1 月には、『短期速成教育軍刀(一撃必殺)要領』が編成された。
これが、戦後、“戸山流居合術”と呼ばれる事になる新しい軍刀術である。

戸山流居合術・一本目(正面の敵を斬る)
抜刀準備 一(抜刀) 一(抜刀) 二(諸手へ)
三(振りかぶる) 三(振りかぶる) 四(切り下ろす) 四(切り下ろす)
「軍刀の操法及び試斬」国防武道協会発行 1943年11月 27~28頁

しかし、戸山学校で、この軍刀術を学ぶ事ができたのは、兵科の生徒のみであった。
対し、非実戦とされた剣道は、心身の鍛錬に良い事から廃される事無く、日本軍の軍刀術の主流をなし続けた。
終戦まもない1944 年に入隊した故・井上正孝(戦後、剣道界の第一人者)も、軍で剣道指導教官に任命され、剣道の指導を行うように命じられたと言う。参考)井上正孝著書「我が剣道と人生」致知出版社 2003年2月 107頁
最後まで、実用的な軍刀術は日本軍内に普及しなかったのである。

居合術に関する説明
居合術、抜刀術。戦後は、居合道、抜刀道と呼ばれる。
剣術は、刀を抜いた状態から始まるのに対し、居合術は、鞘に刀を納めた状態から始まるのが特徴である。

その基本的な技術は、納刀した状態から迅速に刀を引き抜き、その動作を利用して敵の刀を払い、あるいはそのまま切り付け、素早く納刀するという、「抜き」「切る」「納刀」の三段階のプロセスを経る。

『剣道』では、もっぱら竹刀を用いて打ち合う稽古を重んじるのに対し、こちらは型(想定技術)と真剣を用いた試し切りを中心に行う。







軍刀を扱えなかった将校たち


「日本刀は世界一の刀。だから誰が使っても折れない。何人でも斬れたはずだ」という主張がある。
これはちょうど「ポルシェは世界一の名車。だから誰が運転してもエンストを起こさない。誰でもレーサーになれるはずだ」と言っているのと同じ事だ。
名車を名車として乗りこなせるか否かは、本人の腕前次第だ。そして、日本刀とて、それで人が斬れるか否かは、本人の腕前次第だ。
では、日本軍の将校たちは、日本刀をどの程度扱うことができたのか?



1.ほとんどの将校が失敗した試し斬り


中村泰三郎
(1912年〜2003年5月)

山形県出身。
戦時中、戸山学校にて各種武道を学び、軍隊の特別剣術教官として活躍する。
戦後は、中村抜刀道を創始し、戸山流の流れを汲む居合道の普及に努める。

戦後の居合道界の最高峰に君臨した人物である。

画像元)国際抜刀道連盟 鶴誠会 〜 中村流抜刀道八方斬
日本精神と抜刀道 BABジャパン出版局 2001年発行 30〜31頁

竹刀剣道と真剣斬りの差

太平洋戦争末期、特別剣術教官であった著者は、部隊内で真剣斬り大会を実施した。
北満{*1}は青竹がないので、白樺の木やカマス{*2}を丸めたものが真剣斬り用の資材である。
剣道有段者が多数あり、仮標{*3}は生木をいれない、カマス、刀法は左右袈裟斬り(大上段より左右斜め下方斬り)。総勢50名であった。結果は15人が両断。6人が間合{*4}と角度を誤り刀身を曲げた。12人が5分の1から2分の1斬り込んで止まり、10人が4分の1斬り込み、8人が5分の1斬り込んだだけであった。1人は間合を誤り、仮標に切先がかすっただけで、刀身が空を斬り、手の握りが悪かったので、柄から手が離れ、左膝を斬ったあげく、刀が7メートルも飛んだ。この人物は見習士官で大学剣道部の三段であった。
竹刀と異なり、真剣斬りはかくの如く、また別のものである。



大隊長、自分の軍刀で膝を斬る

昭和20年4月、本土決戦部隊として北満から九州博多に上陸、民間義勇隊の竹槍および刀による一人必殺訓練剣術教官を命ぜられ、各地を巡回中のことである。九州博多付近は竹やぶが多いので、時おり竹斬りを実施指導した。
部隊で一番若い大隊長の中井大尉は真剣斬りに自信を得て盛んに軍刀を振るうようになった。
「刀は斬れる魔物だ。取扱に注意し、真剣斬りには精神を統一、邪念を捨て油断なく危害予防第一主義で!」
と注意しておいたが、斬る技術が面白くなるとやたら斬りたくなるのが人情である。
中井大隊長は竹やぶで斬っているうちに細い竹から太い竹が斬りたくなった。太い竹は気分的にも力が加わる。手の内{*5}が不確実の場合は斬った後の刀身の止め方に問題がある。中井大隊長は左足膝の皿を斬った。終戦の15日前であった。真剣斬りは恐ろしいものだ。慣れが恐ろしい。

注釈
{*1}満州北部の事。満州は、現在の中国東北部に当たる。
{*2}藁(ワラ)で編んだムシロで作った袋状の入れ物。
{*3}仮の標的という意味だと思われる。
{*4}武道における距離感の事。
{*5}グリップの握り方及び、力加減の事。



2.プロが語る日本兵の実力


古岡二刀齋(古岡 勝)

1919年生まれ 福岡県出身
無双流居合斬道創始宗家
陸軍予備士官学校卒業の年、大東亜戦争開戦。中国戦線に配属。(将校らに軍刀指導を行った経験あり)
陸軍大尉で戦場より帰還後、従七位に叙せらる。
戦後、学習研究社入社。副社長を経て現最高顧問。
「夢想神伝流」「無雙直伝英信流」を学び「無双流居合斬道」創始。國際居合斬道連盟理事長。
平成元年、勲三等瑞宝章受賞。

画像元)チャンネル桜(現在は削除)

Webサイト「旧日本帝国陸海軍軍刀」
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/
サイト管理人の体験と古岡二刀齋の助言(電話取材)を転載
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm


柄握りの間違い

私は剣道を経験し、若い頃、脇差し(近江大椽藤原忠広)で和竹を切った事もある(刃まくれを起こした)。
柄の握り方は、鍔の傍を右手で握り左手は大きく離れて柄頭(兜金)の近くを握る。之を常識と思っていた。
師が先ず言われた事は、柄の持ち方を皆さんが間違えている。

これでは刃筋は通らず、刀は曲がったり折れたり、 斬れ味も悪く、敵に致命傷を与える事は出来ない。
時代劇に観るような柄の持ち方は間違いであって、これでは絶対に物(人)は斬れないと断言された。
師は、鍔の傍を右手で握り、左手は右手から指一つを置いた処で握るものだと言われる。
ここで思い当たる節がある。騎馬戦では太刀は片手で操った。両手握りの徒歩戦に移行した時、刀は既に主武器ではなくなっていたし、実戦で使う刀は消耗品と考えられていたから、柄の損傷は当時は大きな問題とはならなかったのかも知れない。
それとも古えの武士達は師と同じ握り方だったのだろうか。
軍刀柄の破損の原因の一つは、この柄の握り方にも起因している様に思える。
人を斬る時、目釘を支点として、茎尻には下向に大きな応力が掛かる。
柄頭を握った左手がこの茎尻の応力に逆らって柄頭を上に向ける理屈になる。
茎と柄の作用・反作用の大きな力学上の相剋が、朴の木の柄の中で生じることになる。
師の言われる握り方だと、左右の手はほぼ目釘の位置で握られる事になり、柄には茎尻の応力に逆らう力が殆ど生じない。目釘や柄の破損の理由の一つはこの柄の握り方にもあると思われる。


手の内・間合い・刃筋

刀が本当に斬れるか斬れないかは「手の内」と「間合い」にあり、正しい「手の内」でなければ絶対に人を斬ることはできないし、日本刀の威力・特徴などその真価は発揮できないと言われる。
「間合い」は剣道の経験から意味は充分理解できるが、「手の内」は正直、真剣で物斬りの修練をしていない私には難解であった。
師の下には、うら若き女性から大柄の外国人男性迄巾広い人が修行にきている。
大柄の外国人は殆どが刃長76p位の大刀を使うという。(因みに師は大変小柄でいらっしゃる)
修練が浅い時の彼等は力に任せて物を斬るので、安くもない刀を大抵曲げて仕舞うと苦笑しておられた。
その点では短い脇差しは曲がり難いとの事。これは物理的にも充分理解できる。
「手の内」を修練した若い女性消防士で、見事に物が斬れるようになった人がいるとのお話があった。
「手の内」の意味と「刃筋(刀身の軌道)を通す」ということが、その女性消防士と外国人男性の例を重ね合わせる事に依って何となくその輪郭が私なりに掴めたような気がする。
「手の内」を会得すれば力などは要らないし、刀の自然の動き=軌道に任せれば良いとの説明であった。
師は事もなげに仰しゃったが、6年に及ぶ戦場での実戦経験と戦後の永い修練の積み重ねで極意を会得された師にこそ言える話であって、素人が直ぐにその境地に達する訳ではない事は云うまでもない。
刀が斬れるか斬れないかは、将に「使い手の腕」ということはよく理解できる。


関連「刀柄の神秘性」参照
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_024.htm


将校と軍刀

将校軍刀の意義をお尋ねする為に、先ず昭和12年の「百人斬り競争」の件をお尋ねしたら「副官と歩兵砲だろう。あり得ない」との明快なお答えだった。古岡大尉の任官時期と特殊任務に就かれていたご様子(当方の推測)なので、一般将校軍刀の意義をこれ以上お尋ねすることは無意味と思い質問は取り止めた。
騎兵が機甲に変った後、士官学校では歩兵科生徒のみ本科で戸山学校軍刀操法の教練があった。
将校達の軍刀操法の程度をお尋ねしたら「特殊な任務でない限り、将校は軍刀操法など殆ど知らない素人ですよ」との事。
短期間の教練を受けても使いものにならないと云う意味を込めての事のようだ。


血刀

これに関して人を斬った血刀の処置をお尋ねした。
刀に付着した血脂はすぐに白くなり、時間が経つと固形化し、そうなると血脂は絶対取れなくなるとの事。
従って人を斬ったらなるべく早く手入れをしなければならず、布で拭った位では駄目である。砥石をかけるのが一番だが、砥石を戦場で持ち歩く訳にはいかないから最低打ち粉と拭い紙の手入れ道具は必要である。人を斬ったら必ず手入れが不可欠で、これは常識とのお答えだった。古岡大尉の兵科と軍務が今一つ不明な為、一般将校の状況の応答に些か齟齬(そご)をきたした。
全将校が軍刀手入れ道具を戦闘中も携行したのであろうか。軍務・兵科にも依るが、第一線の歩兵将校達が連続戦闘や激戦の状況で果たしてそんな余裕を持てたのか、ここは少しく疑問の残る処であった。

因みに、血刀をその儘にして置くと、一晩で真っ赤な錆を生じる。
刃部は最も錆に弱い部分で、血脂の固着と共に数日で刀は使い物にならなくなる事が実証されている。
生半可な刀身の手入れでは、その刀身を何日も掛けて連続使用するという事は斬れ味からしても大変難しいという事になる。




3.玄人でも難しい日本刀操作


津本陽

1929年生まれ 和歌山県出身
時代小説を中心とする作家。
1978年、第79回直木賞を受賞。
『明治撃剣会』を始めとする剣豪小説で人気を得る。
剣道三段、中村流抜刀道五段(奥伝免許)の腕前。
過去、中村泰三郎の指導の下、豚を両断する実験を行っている。

画像元)KAORU BOMBAYE;千年の文学めくるめく歴史浪漫・津本陽の世界
危地に生きる姿勢 講談社文庫 1991年発行 36~44頁

編集部の協力で集まった資料のなかに、流泉小史という人物の書いた新撰組に関する随筆があった。戦前に「文藝春秋」に連載されたものだそうで、著者は剣道五段だと書かれている。
その内容には、日本刀の試し斬りに関する記述がたいへん多い。江戸で土方歳三が主催し、沖田総司、清川八郎らが参加した試斬会のことも詳しく書かれている。
小塚っ原で処刑された罪人の首なし屍体をいくつか持ち込み、土壇のうえに二体を重ね、二つ胴というのを試みているのであるが、沖田の和泉守祐定という江戸鍛治の新刀の切れ味は言語に絶し、爪を割るように二つ胴を両断したという。
日本刀の試し斬りで最高記録は、関の孫六で成功した七つ胴だそうである。
流泉小史はそのような凄まじい刃味を披露する半面、現在(昭和十五年頃)仔豚を試斬して成功する腕を持つ剣道家は、帝都に五人といないと書く。
明治になってからは、試し斬りはもっぱら豚の屍体でおこなうようになったわけである。乃木希典は明治39年、谷干城邸で愛刀をふるい、見事に豚の腰部を両断する土壇払いの快挙をなしとげたが、それは誰にでもできることではなかったらしい。
谷干城邸は幾度も屍山血河の戦場を馳駆(ちく)し、日本刀の扱いはこころえていると高言していたが、秘蔵の銘刀で試斬会にのぞんだところ、豚の皮一枚も切れずに刀身を鍋弦のように曲げ、鞘に入らないまま風呂敷に包んで持ち帰った。
また学習院長某氏は五度試斬をおこない、そのたびに愛刀を曲げ、音をあげてその道の大家江釣某に秘訣を問いに行ったところ、笑って答えない。
根気よく問いつめたところ、答えを得た。
「据え物は、左手の小指、くすり指と下腹で斬るのである」
教示を得た学習院長が試斬に成功したか否かは書かれていないが、このような記述を読めば、日本刀はよほど扱いにくいもののようである。
私の義兄は太平洋戦争で四年間戦線にいたが、日本刀は重いばかりで武器としてははなはだ頼りにならなかったといっている。
いつか読んだ週刊誌の記事も頭にこびりついていた。新宿あたりのバーかどこかで喧嘩があり、ひとりが日本刀を振りまわして相手の手首を斬りおとした事件についてのものだが、ふつうはそのようには斬れないものだという、警察側の談話が載っていた。
その見解は、日本刀ほど斬れないものはない。手首が落ちたのは、たまたま当たりぐあいがよかったためで、三島事件でも刀がグニャグニャに曲がっていて、ろくに斬れていなかったというのである。




4.軍に日本刀信奉を広めた2人


将校の多くが軍刀を扱えなかったにも関わらず、日本軍では日本刀が重んじられるようになった。
これは、精神論を唱える皇道派将校らの国粋主義と伝統への回帰が原因である。
事実、軍刀が西洋刀式から日本刀式に変更されたのは、皇道派の重鎮である荒木貞夫が軍事参議官に就任した1934年だ。

また、1935年8月22日には、文豪・吉川英治のかの名作『宮本武蔵』が朝日新聞にて連載を開始している。
いうまでもなく『宮本武蔵』は、当時の日本社会に空前の剣豪ブームを生み出した作品だ。(現在も、20カ国以上に翻訳され、世界的にヒット)
彼の『宮本武蔵』も、青年将校らを中心に大きな影響を与えていたと思われる。

荒木貞夫

(1877年5月26日~1966年11月2日)
東京都狛江市出身
1931~1934年、陸軍大臣を務める。
1934年、軍事参議官。1935年、男爵。
1936年、二・二六事件の粛軍の結果予備役編入。
1939年、文部大臣に就任。
終戦後、A級戦犯として服役。1955年、仮釈放。
皇道派の重鎮であり、精神論者。

升本喜年 「軍人の最期」 光人社 2001 161頁

荒木は演説が得意で、国体精神の昂揚を説き、満州事変の意義を強調し、国政の改革を論ずる。
盛んに新聞、雑誌にも取り上げられ、荒木の古武士的日本主義の雰囲気と演説は、満州事変後のこの時期、軍国的気分と軍国主義昂揚の波に乗って、爆発的喝采を浴びた。
荒木の外人記者相手の「日本は竹槍千万本あれば、列強恐れるに足らず」という「竹槍論」や雑誌社(改造社)の招聘で来日したイギリスの文豪バーナード・ショーとの対談で度胆を抜いたと伝えられる「古来、日本人は地震によって、強靭な国民性を養われて来た」という「地震論」などの派手な国防論は、尾鰭をつけて広がり伝説とさえなった。
荒木の精神主義強調と野党的言動、それに上下の枠を越えた青年将校らとの接し方は、彼らに抜群の人気があった。



吉川英治

(1892年8月11日~1962年9月7日)
神奈川県横浜市出身
1926年、作品『鳴門秘帖』がヒットし、時代小説作家として名を上げる。
1937年、毎日新聞の特派員として中国戦線を視察。
1938年、ペンの部隊として中国戦線に二度従軍。
戦時中、朝日新聞で連載された『宮本武蔵』が大ヒットし、不動の地位を固める。
終戦後、一時執筆活動を停止するが、1947年に活動再開。
1950年、『新・平家物語』を週刊朝日に連載。
1953年に、菊池寛賞受賞。 1960年には、文化勲章受章。






軍刀の欠点


日本軍では、日本刀への回帰が生じたものの、それを扱う為の軍刀術は十分に研究されなかった。
1940〜1942年に掛けて開発された戸山流居合術も十分に普及せず、相変わらず『剣道』がもてはやされていた。
多くの将校は、日本刀を腰に差しても、その日本刀を扱う事ができなかったのである。
また、軍刀術ばかりか、その軍刀自体にも大きな問題があった。官給軍刀には粗悪品が極めて多く、もともと使い物にならなかったのだ。

そして、将校たちが軍刀を奮っても、人を切れず破損してしまうと、この官給軍刀に責任転嫁される事が多く、「伝統的な日本刀ならば、故障せず何人でも斬れる」という神話を広める者も少なくはなかった。
一例)軍で日本刀修理に関わっていた成瀬関次が著書にて主張(著書『随筆日本刀』 二見書房 1943)

ゆえに、「官給軍刀は役に立たないから」と、伝統的な日本刀を持参し、それを軍刀拵えに改めて使用する者も多かったのである。
だが、その伝統的な日本刀にも、多くの問題があった。


1.量産化された粗悪な官給刀



左は、戦時中に量産化された官給軍刀。

東京小倉工廠(民間企業の松下金属と光精機が参加)と名古屋工廠(民間企業の豊田自動織機、金城削岩機、理研鋼材、愛三工業が参加)で製造された。
非常に粗悪品が多く、「昭和刀」と一括して呼ばれている。


画像元)日本の武器兵器

本来、将校のみが軍刀の所持を許されていたが、中国戦線では、見栄え(みばえ)の良い軍刀を下げているだけで民衆から敬意を払われた為、下士官からも軍刀所持の要望が生じ、これが許されるようになった。
その為、急速に軍刀の需要が高まり、1939年、軍と民間の工場で機械製造による安価な軍刀が量産され、粗悪品が軍に出回る事となった。
だが、量産化が起きる以前からして、官給軍刀には、刀身の肉置き(厚さ)、ナカゴ(刀身の柄に差す部分)の長さ、柄の拵え(刀装の形式)、柄巻き(柄を巻く組紐)に大きな問題があり、もともと使い物にならなかったという。

参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏谷 嘉辰 2006 41~45頁
注意)この参考文献・・・・高野佐三郎が試合で岡田定五郎に喉を突き潰された為に声が変わってしまった逸話を国井善弥に喉を突き潰されたと書かれていたり(しかも高野佐三郎が古流を学んでいないかのように書かれている)、世界共通の柔らかい握り(コンバットグリップ)を日本独自の誤った握り方だといったり、柳葉刀を青龍刀と呼んだりと、かなり内容におかしな点が見られる為、参考にする際は注意が必要である。




2.伝統的な日本刀も、品質によっては簡単に破損する


甲野善紀

1949年生まれ 東京出身
合気道、鹿島神流などを学び、1978年に武術の動きの研究のため、「武術稽古研究会松謦館」を設立。(2003年に解散)
彼の「捻らない、うねらない、ためない」という独特の身体操作法は、プロ野球選手の桑田真澄投手を再生に導いた他、それを研究した末續慎吾が、世界陸上200mで銅メダルを獲得した事もあり、スポーツの各方面から注目されている。

画像元)web上から適当
武術の創造力 PHP文庫 甲野善紀&多田容子 2004/8 177~178頁

五十八 日本刀の意外な脆さ

多田 なかなか強烈ですね。あと、以前伺いましたが、「折れず、曲がらずよく斬れる」という日本刀も意外と脆いところがあるようですね。場合によっては木刀より弱いとか。

甲野 そうですね。水試しなんて川に胸まで浸かって、刀の刃を水平方向に向け、刀身の平地全体を思いっきり水面に叩きつけると、その衝撃で三つぐらいに折れる刀もあるようですからね。
これは金属という振動に対して敏感な物質だからこそ起きることでしょうね。木刀だったら絶対にそんなことはなりませんし、鉄でも焼きが入らないような炭素量の低い軟鉄だったらそんな折れたりなんて事にならないでしょう。
まあ、何でも“長所即欠点”で、焼き入れで鋼は硬くなりますが、そのために脆くもなりますからね。その脆さは刀の場合思いがけないほどハッキリと現れることがあるのです。例えば刀身にハンマーを当てて何か修理しようと思う時、不注意に刀の中子などを持って刀身の半ばをコツンコツンとハンマーで叩いたりすると、全くハンマーに触れていない切先がビィーンと異常な音を発して、欠けて飛ぶことがあるようです。
ですから既に焼きが入った刀身にハンマーを当てる時は、必ず切先にガムテープを張って振動を吸収するようにし、その上、更にそのガムテープを貼った切先に布を巻いて、そこを掴んで刀身をハンマー打ちするようですね。
幕末の名匠として名高い水心子正秀という刀匠が、刀が折れた実例を沢山聞き集めた記録があるのですが、それを読んだ人は「エッ、刀ってこんなに脆いのか」って、きっと驚くと思います。勿論、なかには丈夫なものもあり、その差は随分著しいようです。


1634年11月7日の有名な鍵屋の辻の決闘では、剣豪・荒木又衛門が36人を斬ったと伝えられる。だが、史実では、斬れたのは河合甚左衛門と桜井半兵衛の2人だけである。
この時、又衛門は、名刀鍛冶・伊賀守金道の刀を使用していたが、敵の小者(使用人)の木刀を受けただけで、刀がへし折れてしまっている。
武士と言う刀剣操作のプロと、優れた刀匠が多かった時代ですら、このような逸話は少しも珍しくは無かったのである。



3.山本七平の体験


山本七平

(1921年12月18日〜1991年12月10日)
東京都世田谷区出身
評論家
1944年5月、第103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。
1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。
イザヤ・ベンダサンの仮名で、ユダヤ人を装い、日本社会を批評した著書『日本人とユダヤ人』が有名。
戦時中、死体を使って軍刀を試したという。

画像元)山本七平賞 会社案内 PHP研究所
山本七平 「私の中の日本軍(下)」 文芸春秋 1983/01 152~153頁

N兵長が水とナツメヤシの幹らしい丸太をもってきた。私は死体の手首をつかみ、その手を、その丸太を持つような形においた。タイマツを近づけさせた。K兵長は、顔をそむけて立っていた。私は水嚢の水を、死体の手にかけて泥を流した。白ちゃけた手が、真黒な土の中からのぴ、太い木をつかもうとしているように見えた。炎の赤い反射と黒煙の黒い影が、白い手の上で、ゆらゆらとゆれた。
私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振りおろした。指をばらばらに切るより、手首ごと切った方がよいように感じたからである。がっといった手ごたえで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった。衝撃で材木から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそうであった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たすようにした。
その時ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはなかなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首から小指のつけ根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度日の軍刀を振りあげたとき、鍔が何か少しガタが釆たように感じた。しかしそのまま掘り下ろした。
手の甲はぎっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がついたままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるような形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切った。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にすると、急いで土をかけた。
そのまま円匙を手にしで、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すべてが麻痺したような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起したが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨ならば手でなくてもよいだろう。そんな気がした。
軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出てきた。私は足くびをつかんで力まかせに引きあげた。S軍曹の手がなかなかあがらなかったのでそうしたのであろうが、その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。カが余って、まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出てきた。私は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の靴を押え、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。鋭い鋭角状に、肉と骨が切れた。おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」という形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。
私は、軍刀を抜身のまま放り出し、切断した部分を前と同じように処置し、急いで土を掘り、足を埋めなおしてから、軍刀を紙でぬぐった。暗くてよくわからなかったが、一見何も付着していないように見えた刀身や拭うと、確実に何かがべっとりとついていた。刀身は鞘におさまった。しかし、何か鍔や柄がガタガタグラグラする妙な感じがあった。しかしその状態は、もう再述する必要はないであろう。

山本七平の軍刀に起きた現象

山本七平の証言から察するに、これは、「刃切れ」が生じた為だと思われる。

日本刀は、刀身と柄を“ハバキ”と“目釘”を用いて固定している。
“目釘”とは、鞘と刀身を繋ぐ円柱状の芯だ。
日本刀は、“ハバキ”と“目釘”だけで固定し、刀身は柄の中では浮いた状態で保たれる。
これは、刀身が木製の鞘に触れてしまうと、錆の素になる為だ。
ゆえに、素人や未熟な者、熟練者でも手の内(両拳に掛ける力加減)を誤れば、“目釘”に大きな負荷が掛かってしまい、そこから刀身に亀裂が入る。これが「刃切れ」である。

この「刃切れ」を防ぐには、竹製の“目釘”を用いると良い。
竹の“目釘”は、余計な負荷が掛かっても、“目釘”が折れるだけで済み、「刃切れ」が生じにくいからだ。
(竹の“目釘”は、三年以上の真竹を冬至の10日前に伐り、それを三年間干したもので作られる)
だが、竹の“目釘”が支給されていたのは将校だけだった。
下士官の軍刀は、あくまでシンボルに過ぎず、使用しない事を前提とされていた為、“目釘”も取り替える必要のない鉄製の物を与えられていたのである。

山本七平が「刃切れ」を起したのは、竹の“目釘”を支給してもらえていなかった為か、手の内が悪すぎた為だと思われる。

柄に差し込む刀身部分。“目釘”を通す穴が開いている。
中子、茎などと書き、「なかご」と読む。

右は、柄と中子(なかご)を繋ぐ“目釘”。

画像元)刀剣宝館 しまなみコーポレーション

左は柄から“目釘”を抜く所。

画像元)僕の日本刀日記
http://www4.ocn.ne.jp/~ikkaku/







軍刀は実用的な武器か?


戦時中、軍刀で白兵戦や斬首刑が行われたケースがあった事は事実である。
下の写真が、その一例だ。


左は、馬賊を軍刀で処刑している場面。
1932年、中国の長春で撮影。
当時は、このような過激な写真が絵葉書として売られていた。

写真の転載元)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏谷嘉辰 2006 17頁

だが、上記写真のように人を斬れるほどの実力を持った者は、戸山学校で開発された戸山流居合術を十分に学ぶ機会があった者か、入隊以前から居合術の修行を積み重ねていた者に限られていた。

また、軍刀を扱えても、官給軍刀は粗悪で使い物にならず、伝統的な日本刀にも問題は多かった。そして、鉄の“目釘”しか支給されぬ下士官に至っては、軍刀を奮っても、逆に刀の中子(なかご)を破損してしまう始末だった。

では、軍刀で人を斬れる腕前を持ち、実用に堪えうる軍刀や拵えを用意でき、ちゃんとした“目釘”を支給されていた者たちの間では、盛んに斬首刑や白兵戦が行われていたのか?
残念ながら、それを調査するのに必要な、公式の記録や統計などは取られていない。
また、戦時中の報道や証言には士気鼓舞の為の偽武勇伝が多く、戦後は政治的な意図から創られた軍刀による蛮行証言が多い為、証言から度合いを判断する事は難しい。

だが、もともと軍刀による斬首刑が非効率な処刑方法であった事や、中世の戦場でもノーマルな軍刀は使用されていなかった事を考えると、斬首刑や白兵戦は一般的ではなかったと思われる。


1.成功率が低かった斬首刑と、手間が掛かる斬殺



日本には中国のように、首と胴体が離れれば冥土でも離れたままになってしまうなどという考え方はない。
あくまで、安楽死させる事を目的としている。
だが、斬首刑というものは非常に難しく、失敗率が高かった事で知られる。
侍の時代は、斬首刑の時は“斬り柄”という専用の長い柄を用い、刀を振る速度を増す為に鉛流しの鍔(鉛製の鍔)を付けるなどの工夫がなされていたが、それでも失敗する事は多かった。

具体例を挙げると、幕末の堺事件(1868 年3 月8 日、無断で堺に上陸したフランス水兵20 名と、堺の警護を勤めていた土佐藩士との間で生じたトラブル。この時、銃撃戦となり、フランス水兵11 名が死亡。この責任を問われ土佐藩士20 名が切腹に処された)の時に切腹した箕浦猪之吉の例がある。
彼が切腹した時、介錯人(安楽死させる為の斬首役)の手元が狂い、ウナジの上部に刀が衝突して斬り損じてしまった。箕浦猪之吉は血を噴出しながら「何とせられたか!心静かに、心静かに!」と介錯人を励ましたが、二刀目でも両断する事ができず、三刀目でやっと首を落とす事に成功した。
この介錯を勤めた馬淵桃太郎は、北辰一刀流の使い手だ。(玄武館では坂本竜馬と共に修行を積んだ間柄)
この二十名の切腹には、無双直伝英信流の17 代・大江正路が立ち会っていたが、彼の証言によればほとんどの介錯人が斬り損じていたという。
大江の証言の出典)岩田 憲一 「古流居合の本道―全解・無双直伝英信流」 スキージャーナル社 2002/11




右は、長い「斬り柄」を用いて斬首刑を行う侍の図。
柄は長いほど、切れ味は増す。



出典)藤田新太郎 描工兼編集「徳川幕府刑事圖譜」神戸直吉出版 1893 年 44頁


また、日本刀を用いて斬首や斬殺を行った場合、その後に手入れが必要となる。
血糊が付着したまま放置すれば、血が固まり、刀は全く使い物にならなくなってしまう。
人を斬れば、当然、刃こぼれも生じる。
刃筋を乱し、あるいは皮・肉・骨など摩擦の異なる物を切れば、刃がまくれ上がる事もある。

ゆえに、使用後は必ず修復・手入れせねばならぬが、日本刀は、一回の研ぎに10 工程以上(作業工程の分類の仕方によって異なる)掛り、日数にして最低でも十日前後、長くて一ヶ月近く掛かってしまう。
人を殺す度に、修復に十日以上も掛ってしまうのであれば、銃剣で刺した方がはるかに効率が良いのだ。


右は、土壇斬り(畳表を巻いた物を積み重ね、垂直に斬る事)で刃筋を乱してしまい、激しく折れ曲がってしまった日本刀。
一度でも刃筋を狂わせれば、畳表相手でも、この通り折れ曲がってしまう。

転載元)「歴史群像シリーズ 日本の剣術」 学習研究社 2005/05 131 頁 (国際抜刀道試斬連盟による試し斬りにて)




3.戦国期の刀の使い方


では、白兵戦が盛んに行われていた戦国時代はどうか?
刀による戦闘の際、侍は、このような欠点をどのように補っていたのか?
それは、刀のサイズを長大化する事で解決していた。
いわゆる、野太刀、大太刀、背負い太刀などと呼ばれる大型の刀を用いたのだ。


左は、長大な野太刀を持つ侍の図。

戦場では、刀は切れ味の良い物よりも、丈夫で重量のある物が好まれた。
なぜならば、人は肉や骨をスッパリと断たずとも、皮膚の下の動脈をわずかに切っただけでも死ぬからだ。
また、鉄甲をしていても重量のある刀をまともに腕に食らえば戦闘不能となり、頭部に直撃すれば昏倒し、鎖骨に食らえば致命傷となる。
切れ味は重要ではないばかりか、鋭利であれば刃毀れが生じて破損し易い為、初めから刃を潰した“丸刃”も好んで用いられていた。


腰を落として重心を下げた半身立ちで、“脇構え”や“八相構え”を多用する事で、大きく振りかぶる。
左半身から右半身へと体を入れ替える事で生じる遠心力を利用し、重要のある太刀を敵に叩き付ける。そして、スキを見ては、甲冑の隙間を切り突きする。
相手が弱れば、組討(素手の戦闘)に持ち込んで、仕留める。
激しく打ち合った為に刀身が曲がれば足で踏んで直し、刀身が折れれば従者に持たせた予備の太刀を用いる。それも折れれば、そこらの林に入って木切れを拾い、それで殴り付ける。
これが、最も実戦的な軍刀術だったのである。

だが、これはあくまで、戦場で刀剣を用いた時の実戦的なスタイルだ。
実際には中世の戦場ですら、余り刀剣は使用されなかったようだ。
歴史学者・鈴木眞哉は、1467年9月〜1637年2月に掛けて発行された軍忠状(軍功などを証する書類)201点を調べ、負傷原因が明記された1461人から“刀による負傷者”の割合を調査している。その調査結果では、“刀疵”“太刀疵”による負傷者の割合は、わずか3.8%だった。
矢疵が最も多く(41.3%)、その後に鉄砲疵(19.6%)、槍疵(17.9%)、石疵(10.3%)と続き、五番目が“刀疵”となる。
出典)「刀と首取り」 鈴木眞哉 平凡社新書 2000年3月 82〜84頁 

中世の戦場ですら、刀は余り実用的な武器とは言い難かったのである。





百人斬りの真相



1.事件概要


東京日日新聞(現在の毎日新聞) 1937年12月13日付朝刊(第4報)

百人斬り超記録′井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦

[紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

(写真説明)百人斬り競争≠フ両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

百人斬り事件とは、1937年、向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)の二人によって、中国兵を相手に行われた白兵戦の事である。
両名は、日本軍が無錫から南京に進撃する最中、人を越える中国兵を切り殺したといわれる。
戦後、二人は、南京軍事法廷において、この事件の罪を問われ有罪判決を受け、1948年1月28日に南京郊外で処刑された。



左は、台湾の国防部の施設『国軍歴史文物館』(1961年開館)に展示されている、“南京大虐殺の際、同胞の中国人を107人斬った日本軍刀”。

画像元)大紀元時報 日本 2月17日の記事



2.白兵戦ではなく、捕虜を殺したと証言した野田


「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」 志々目彰 『中国』1971年12月号

戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。
 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

(中略)

さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……
 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」

 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。



志々目証言について調査を行った元・日本大学教授・秦郁彦
『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実』 秦郁彦 日本大学法学会『政経研究』42巻4号117頁

 次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。

 また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。

 裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。

     (中略)

 野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。
田代小学校と少なくと
も三ヵ所に顔を出したようだ。
 その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。
 彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。




3.展示されている軍刀を検証



Webサイト「英霊」http://www.eireinikotaerukai.net/

「百人斬りの軍刀?」から転載
http://www.eireinikotaerukai.net/E05Iken/E05000168.html

台北市の資料館に“107人斬り”の日本軍刀(写真1)と称するものが展示されている。
ところが中国人が1937年にあったと騒ぎ立てている「南京大虐殺」に、この刀が使われたとするのは、明らかに誤りがある。
なぜならこの刀の鞘(写真2)に、この刀は98式軍刀とあり、この刀の製造年は紀元2598年(西暦1938年)であり、南京攻略の1937年には存在せず、タイムトンネルで過去に遡って出現したとしか説明がつかない。

九八式鉄殻軍刀(南京大屠殺残殺我同胞107人之軍刀:魏炳文将軍公子魏亮先生贈)」


さらに、私の方から間違いを追加指摘。
「南京の役 殺 一〇七人」

画像元)上記画像元と同じ
http://www.eireinikotaerukai.net/E05Iken/E05000168.htm

軍刀のハバキ部分に、「南京の役 殺 一〇七人」と彫られている。
だが、この彫り方には、決定的な間違いが二つある。
一つは、文字を彫り込む方角が上下逆である事。
二つは、一重ハバキの上から文字を彫り込んでいるという点だ。

ハバキの役割は三つある。
一つは、刀身をしっかりと鞘に固定する事。
二つは、錆を防ぐ為に、刀身が鞘の中で浮いている状態に保つ事。
三つは、同じく錆を防ぐ為に、柄に差し込んだ刀身の茎(なかご)部分が、柄の中で浮いている状態を保つ事。

このハバキに、直接文字や文様を彫り込めば、ハバキは歪んでしまう。ハバキが少しでも歪めば、刀身の固定は甘くなり、振る度に刀はがたつき、鞘の中の茎(なかご)部分を破損してしまう。茎(なかご)が破損すれば、その刀はもはや使い物にならない。
ゆえに、ハバキに文字や文様を彫り込む際は、二重ハバキを用い、その上から彫り込むという決まりがある。
だが、これは一重ハバキだ。一重ハバキに直接彫り込むという、絶対にしてはならぬ事をやっている。
おそらく日本刀を入手した中国人が、百人斬りに使用された刀だと見せかける為に、何も知らずに彫ってしまったのだろう。


左が、二重ハバキ。
ハバキの上にハバキを重ねている事が特徴。
文字や文様を彫り込む際は、この外側のハバキに彫り込む事によって、ハバキが歪むのを防ぐ。



4.記事と野田証言の検証


『軍刀を扱えなかった将校たち』の項で、日本兵のほとんどが軍刀をまともに扱えなかった事を述べた。
野田らが百人斬りをやったとされるのは、戸山流居合術が開発される以前だ。また、彼らが剣術修行を行った形跡はない。学ぶ機会があったとしても、それは『剣道』であり、前述したように『剣道』では人を殺せなかったのである。
百人斬りの証言は、おそらく士気鼓舞の為の法螺話か、記者の創作だと思われる。

戦場において、「○○人斬り」などという類の偽武勇伝は付き物だ。西南戦争の時も、当時、新聞記者をやっていた犬養毅が「警視庁抜刀隊の隊士が、戊辰の仇!と叫びながら30人斬った」と似たような記事を書いている。

注釈) 「戊辰」とは、新政府軍と旧幕府軍の間で行われた戊辰戦争(1868年〜1869年)を指す。
旧幕府側の敗戦後、新政府は、敗戦によって身分を失ってしまった武士たちを警察官として積極的に雇用していた。
1877年、新政府に不満を持つ士族(身分制度の廃止によって、特権を失った武士)による大規模な反乱が起きた。(西南戦争)この時、反乱の中心となったのは薩摩の士族たちである。かつての戊辰戦争で新政府軍の主力として戦った人々だ。
旧幕府軍の出身者が多い警視庁抜刀隊に取っては、反乱軍はまさに戊辰戦争の時に戦った敵である。
ゆえに警視庁抜刀隊は、西南戦争に投入されると、戊辰戦争の怨みを晴らすべく、「戊辰の仇!」と叫んで戦ったといわれる。
西南戦争は、日本刀操作を知る士族たちによる、最後の戦闘であった。



では、捕虜を殺したという本人の証言が正しいのか?
否。

繰り返すが、野田は日本刀操作を知らぬ素人である。捕虜相手であろうと、百人斬りなどはたせるはずがない。
また、『軍刀は実用的な武器か?』の項でも述べたが、刀による処刑は非効率であり、ありえぬ話だ。

では、なぜ野田は「捕虜を斬った」と言ったのか?
その理由は、二つ考えられる。
一つは、「百人斬りの武勇伝を語ってくれ」と頼まれた際、困ってしまった為だ。
剣道教師を前にして、日本刀の扱い方すら知らない自分が、下手に武勇伝を語れば直ぐに見破られてしまう。だからこそ、据え物斬りと称したポーズを取り、「実は捕虜を斬った」と言い訳したのだろう。
二つは、実際に捕虜を幾人か斬った経験があり(斬殺に成功したかどうかはともかく)、それを語った所、“捕虜を百人斬りにした”と誤解されてしまったのだろう。
それ以外には考えられない。



3.百人斬りのモデル?


なお、百人斬りの記事の中で、野田が同僚の将校相手に「貴様」と兵隊用語を用いたり、向井が「鉄帽子」を誤って「鉄兜」と呼んでいたりと、軍人の証言とは思えない箇所が見られる。
これは浅海記者が、野田と向井の証言を基に記事を書いたのではなく、自ら創作した可能性が考えられる。
そして、この百人斬りの話は、おそらく、当時大ブームだった小説『宮本武蔵』の“二乗寺下り松の決闘”に着想を得ていると思われる。
その理由の第一は、“二乗寺下り松の決闘”で、宮本武蔵が同じく百人近い敵を倒している為だ。これは『宮本武蔵』の最も有名な見せ場である。当時の剣豪ブームの影響で、士気鼓舞の為にも、宮本武蔵の世界を現実に再現したいと思ったとしても不思議ではない。
そして、第二の理由は、この記事を書いた浅海記者と“下り松の決闘”を書いた作家・吉川英治は、この百人斬りの記事が書かれた時、共に毎日新聞の特派員として同行していた為だ。



ちなみに、『宮本武蔵』の“二乗寺下り松の決闘”に関しては、当時の刀剣研究&刀匠の第一人者・岩崎航介が、次のようなクレームをつけている。
武術の創造力 PHP文庫 甲野善紀&多田容子 2004/8 98頁

宮本武蔵と刀


朝日新聞連載の「宮本武蔵」を読んでいる中に、次の事に気が附いた。

一、一条下り松激戦で、武蔵の刀は欠ける可き筈なのに刃が欠けたとは書いていない。
二、本阿弥光悦と会っている場面に、光悦が研師である事が、何等書いていない。
三、武蔵佩用の刀を胴田貫と書いてある。

右の中、一の刃の書けない事は、現代作家の通幣で、本当の戦争を知っている昔の人は、必ず刃が鋸の様になったとか、ささらの様になったとか、弓の如く反ったとか云って、激戦の有様を描写している。而るに実際の斬合を見た事のない現代人は、スパリスパリと切って刃が何ともならない様に考へている。況(いわん)や真の日本の精神など、却々掴み難いらしい。是は吾々専門家の方で、提供すべきものであると思ったので、友人の紹介で吉川先生にお会ひする事にした。

雑誌 『作刀研究』 昭和十五年七月号より

吉川英治の『宮本武蔵』に登場する“刃物の鬼”と呼ばれる研師・厨子野耕介は、この岩崎航介がモデルであるという。


文豪・吉川英治にクレームを付けた男
岩崎航介

(1903~1967年) 新潟県生まれ
刃物の製造で世界一だったドイツに勝つ為、幼少より刃物研究を志す。
日本刀研究に没頭し、研師・永野才二のもとで修行を積む。1922年、日本刀の秘伝書を読む為に、わざわざ東京帝国大学文学部国史学科に入学。
東京帝国大学国史学科を卒業後、工学部と大学院で冶金を学ぶ。
1945年5月に故郷・三条に帰り、日本刀・切込刀の研究製作に没頭。
不純物の非常に少ない玉鋼(たまはがね)を使用した優秀打刃物の研究により、世界最高の切れ味を保つ剃刀の本格的製造に成功し、遂に三条刃物を世界一の位置に押し上げる。
(一回研いだだけで、1000人の髭を剃ってもなお余力を残すカミソリを造り上げる事ができたという)
晩年は、宮内庁正倉院刀身調査員を拝命。
跡を継いだ長男・岩崎重義は、1998年、ミュンヘン国際匠の技メッセにより、匠の技の大賞である「バイエルン州政府首相金賞」を受賞している。





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