日本軍蛮行の虚実
<誤解編>




日露戦争の英雄・東郷平八郎 第二次大戦の責任者・東条英機


1.秩序正しい日本人
2.元は秩序正しかった日本軍
3.軍に民間人が殺された訳
4.規律を乱した朝鮮人
5.今も昔も粗暴な朝鮮人





秩序正しい日本人


1877 年〜1880 年にかけて東京大学で生物学を教えたアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本での体験を次のように記している。

モース著 「日本その日その日3」 石川欣一翻訳 平凡社 1971 年

「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主にたのんだら、亭主は快く承知した。
召使が一人、ふたの無い浅い塗り盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。しかし召使は帰ってこない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかとたずねた。彼女はここに置いてもいいのですと答える。
私は主人を呼んだ。彼もまたここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのであるといった。
未だかつて日本中のいかなる襖にも、錠も鍵もかんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、銀貨と紙幣とで八〇ドル、それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。
私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。



モース著 「日本その日その日1」 石川欣一翻訳 平凡社 1970年

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。



日本は今も昔も、世界で最も犯罪が少ない国である。先進五か国と比較しても、その低さは突出している。隣国の韓国と比較しても、実に「殺人」「強姦」「強盗」は一桁近くも低い。


法務省白書等データベース(犯罪白書 平成14年)
http://hakusyo1.moj.go.jp/



UNODC - United Nations Office on Drugs and Crime
http://www.unodc.org/unodc/index.html
2000年度の犯罪被害認知数と、人口10万人中の被害発生認知率(殺人件数は、故意・非故意を含む)
殺 人 2000年度 強 姦 2000年度 強 盗 2000年度
韓国 4692 9.92 韓国 6139 12.98 韓国 4524 9.56
日本 1148 0.9 日本 2260 1.78 日本 5173 4.07

そして、かつての日本軍もこの国民性を反映しており、実は日清戦争・義和団事件・日露戦争・第一次大戦における日本軍の秩序正しさは突出していたのである。






元は秩序正しかった日本軍


1.日清戦争の時の日本軍(1894年7月〜1895年4月)


1894年、朝鮮の独立を巡り、日本と清国の間で戦争が勃発する。
この時、朝鮮に派兵された日本軍の秩序正しさは、初めて世界の人々の目に触れることとなった。


イザベラ・バード


(1831/10/15〜1904/10/7)
世界的に有名な旅行家。
日清戦争中、朝鮮半島で日本軍と清軍の規律の違いを目撃する
イザベラ・バード著書『三十年前の朝鮮』工藤重雄訳・1925年刊

彼女がみた清軍
「宣戦布告後は状況がますます険悪となり、制海権を日本が掌握した結果、朝鮮へ出征する清軍はみな、満州を通過せざるをえなくなり、吉林をはじめとする北部諸都市から募集された。規律を欠いた軍隊が、日に千人の割合をもって奉天に流れ込んだ。その軍隊たるや左右民家の品物を手当たり次第に略奪し、宿屋の亭主をブッ叩いたうえに無銭宿泊の乱暴、キリスト教礼拝堂を無暗に打ち壊すなど狼藉を働いた」

彼女がみた日本軍
「軍に規律があり、仕事に秩序があり、各人各々その目的を了解し、粛然として義務に服し、厳乎として警戒に任じ、いささかも倨傲不遜の振る舞いがなく、まことに見上げた日本軍であった」



朝鮮に駐留する日本軍の姿を目撃したスウェーデン人ジャーナリスト
アーソン・グレブスト著書 
「悲劇の朝鮮」高演義・河在龍訳 白帝社 1989年

ソウルだけでも、現在数千の日本軍兵士が城内と郭外に駐屯していますが、彼らへの抗議があったためしがありません。彼らの規律は他の範となるべきものです。






日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユが、有賀長雄の名著「日清戦役国際法論」に寄せた言葉
「日清戦役国際法論」 東京偕行社 1911年(パリにてフランス語で刊行後、後に本人の手で、日本で翻訳出版)

「日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。国際法の範囲に於いても亦同然たり。経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。この戦役に於いて日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。」

現代語訳

日本は、文明人に相応しい国法を持つようになっただけではない。国際法においても、既に文明人である事を証明した。即ち、日清戦争では、清軍は国際法を無視したが、日本軍は尊重した。日本軍は慈悲を以って捕虜を待遇し、敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。日本は未だに1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないが、無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。また、敵対しない住民の生命財産を保護する事にもすこぶる注意を払うなど、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。その仁政を熱心に行う余り、遂に敵地住民の租税を免じ、自給自足で済ませてしまった。慌しい兵士の間ですら人命を重んじることは極めて厚く、人々を救済する策を惜しむことはなかった。見るがいい。日本軍の通過する所に、必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を。

*衛生法=これは現在の「労働安全衛生法」や「食品衛生法」の事ではなく、公衆衛生を意味していると思われる。(フランスでは、1902年2月15~19日に「公衆衛生 sante publique- の保護に関する法律」(公衆衛生法)が制定されている)





黄 文雄
(1938 年生まれ)
台湾高雄州岡山郡(現在の高雄県岡山鎮)出身の評論家。
1964 年に留学のため来日。
拓殖大学日本文化研究所客員教授。台湾独立建国連盟日本
本部委員長。維新政党・新風講師。
1994 年に、台湾ペングラフ賞を受賞。
黄文雄 「大東亜共栄圏の精神」 光文社 1995年 173~174頁

日本軍上陸後の二週間の実録については『淡水新政記』という報告書がある。同報告書を記した福島安正大将は、かつて陸軍少佐としてドイツ公使館附武官になったことがある。彼は帰任にあたり、ベルリンからウラジオストクまで一万六千キロを四百日かけて、単騎で突破し、世界の話題にもなっている。後に男爵、陸軍大将にまでなった福島安正は、明治二十五年五月に、大佐として陸軍省から台湾受領に派遣されたのだった。
同報告書によると、敗走した清軍兵士は、一人につき二円五銭と米二石をもたせて、淡水から船で送り出したとか、地方の村長を集めて日本の政策を説明し、日当として一人三円渡すと、みな躍り上がって喜んだとか、当時の台湾接収について克明に書いている。そういう思いやりの行政は中国社会には絶対、ありえないことだ。日本は台湾を領有した時期、二年間の猶予期間をもって、台湾の島民に国籍選択の自由を与えたが、このようなことも考えられないことだった。



日清戦争の際、旅順で起きたとされる虐殺事件を調べたベルギー公使の調査
磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・ベルギー関係史」 白水社 1989年
べルギー公使アルべ−ル・ダネタンが、ベルギーにあてた報告書

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」




 写真は、『日清戦争従軍写真帖−伯爵亀井茲明の日記』 柏書房 1992 大型本 P217より
以下、写真の説明文を文字起こし。

金州での敵軍捕虜
清兵は通常は民服を着、戦闘にはその上に軍衣を仮装する。戦いに敗れて逃避する時はたちまち上衣を脱いで農民姿となる。そのため交戦地の至る所に脱ぎ棄てた軍服があった。右は金州城内において拘収する者、左は第二軍司令部に拘禁する者、それぞれ敵のスパイである証拠はあるのだが、数回の訊問でもなかなか本当のことを言わず、執拗な者であった。


*著者は、華族出身(元・津和野藩主の家柄で、亀井家第13代目の当主)にして、日本初の従軍カメラマンである亀井茲明伯爵。
*ニューヨーク・ワールド紙は1894.12.20付の記事で犠牲者2000名と報道。タイムズ紙は1894.11.28付の記事で犠牲者200名と報道。一方、中国政府の二万弱という主張は信用に値しない。






2.義和団事件の時の日本軍(1900年6月〜1901年9月)


1900年、清国において、排外運動を繰り返していた秘密結社・義和団が、欧米列強に宣戦布告。外国公使館区域を包囲し、これに清軍までもが便乗する。
しかし、篭城を余儀なくされた外国公使館区域を救助すべく、日露英仏米独伊墺の8カ国の連合軍が北京に進軍し、わずか、二ヵ月弱で鎮圧してしまう。
この事件後、北京を占領した連合軍の中で、日本軍が最も秩序正しかった。


略奪を厳禁していた日本軍

秋山好古
(1859年2月9日~1930年11月4日)
伊予松山出身の元武士。父は松山藩士。
近衛師団長・陸軍大将・陸軍教育総監を歴任。
義和団事件では、第五師団の兵站監として出征し、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務。
義和団事件において、略奪を硬く禁じた秋山好古大佐

「本国に持ち帰りを許可するものは、戦闘により入手した敵の武器・銃・刀・槍・弓のみである。これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、他のものは一切禁止する」
引用元)黄文雄 大東亜戦争の精神 光文社 1995年 119頁



世界から絶賛された日本軍の規律
カナダ人記者がみた日本軍の秩序正しさ
F.A.マッケンジー著 「朝鮮の悲劇」 渡辺学訳 平凡社 2003

ロシアが極東で、このように恐怖と反発をひき起こすような情勢をつくって世界に自分を見せびらかしていたとき、他方で日本はわれわれにその最善の姿を提示した。一九〇〇年、中国の義和団事件のとき、連合軍の一部をなしていた日本軍は、その有能と克己とを示して全世界を驚嘆とさせた。日本軍の勇敢さ、その美事な組織、およびその規律は各国の老練な軍事専門家や報道員たちによって賞賛された。



黄文雄 「捏造された日本史」 日本文芸社 1997年 44~45頁

義和団による社会の混乱が起きていた最中、一人の日本の軍人が北京駐在武官として滞在していた。彼の名は柴五郎、維新後の日本史を飾る代表的な明治の軍人である。
義和団事件はやがて満州にまで飛び火し、ロシア人が殺傷される事件も起きた。ロシアはそれを口実に満州占領へと乗り出した。
ロシア軍は怒涛のように満州に流れ込むと、街を焼き、略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。清国北方の治安は大きく乱れた。このとき何よりも怖いのはロシア兵はもとより、清軍の敗残兵だった。兵士が市民から略奪するのは中国伝統の戦争文化とも呼ぶべき慣習で、兵隊とは市民に乱暴狼藉をはたらくものということが常識となっていた。
ところが北京に入城した日本軍はその常識を破ったのである。軍紀は厳しく、末端の兵士にいたるまで非行をすることがなかった。この様子は北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった。これは噂となってたちまち北京市民に知られ市民は布や紙に「日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。

柴五郎は、北京各国の領事館区の二ヵ月におよぶ篭城中、攻防戦の指揮官として各国から信用を得て、北京陥落後は軍事衛門長官(駐留軍司令官)として治安を担当し、きびしく取り締まりを行ない、暴行や略奪をはたらいた連合軍兵士は現行犯で捕らえると、それぞれの軍司令部にどんどんつきだした。
日本軍全体は、もっとも規律が正しいことで評判を得て、その占領地の北城はすぐに治安を回復し、商店も営業を再開したという。
参謀本部編の『明治33年清国事変史』にも、「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるに関わらず、ひとり我が占領区域内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、売買日に盛んに至れり」と記録している。
それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲劇であった。その他の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めた。当時の北京市長はたまりかね、マクドナルド英公使に苦情を訴え、ロシア軍管区を日本軍管区に替えてほしいと嘆願したほどだった。


柴五郎(1860年6月21日~1945年12月13日)

会津若松出身の元武士。父は会津藩士。
軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。
義和団事件では、篭城する公使館区域内で実質上の指揮を取り、その名声を世界に轟かせる。






3.日露戦争の時の日本軍(1904年2月〜1905年9月)


義和団事件後、ロシアは満州に大軍を送り込み、駐留を続けた。ついで、三国干渉によって日本が手放した遼東半島を1898年に租借すると、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置。朝鮮半島への進出をうかがい始める。
1904年2月、安全保障上の理由からロシアの南下を拒む日本との間に、遂に戦争が勃発する。日本は、この戦いにおいて陸と海で勝利する。


1898年12月から1907年3月まで(途中帰国時期あり)滞在した英国人旅行家が見た日本軍人と日本軍の姿
リチャード・ゴードン スミス著 「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」
荒俣宏、大橋悦子翻訳 小学館 1993年

11月17日 木曜日(261頁)
 非常に早起きして、午前八時には私は竹やぶを歩きまわっていた。そこで、すでに八里(16マイル)歩いてきたという二隊のオオサカの歩兵隊に出会った。彼らは武器を積み重ね、休憩していた。しばらく休んだあと、彼らは敵国内を進軍する訓練として戦闘の演習をつづけながら、オオサカにもどる予定だった。彼らはほとんど例外なく、たくましく頑丈に見えた。兵士間の秩序は見事に整っており、将校たちはそれを維持するのにほとんど何もしなくてよい。あらゆる点でうらやましい限りだ。

10月23日 日曜日(266~267頁)

 兵庫県知事の服部氏が昼食にやってきた。
 彼の息子は、気の毒な事に片目を失っていた。若い将校なのに本当に哀れだ。知事はどちらの目なのか知らなかった。息子の唯一の願いは、自分の事で騒ぎ立てないで欲しいということだ。
 こうした日本人すべてに就いて言える事だが、戦いの最中に勇敢であるというだけでなく、慎ましく、内気ですらあり、有名になるのを嫌うという点で、彼らは真の英雄である



ロシア人捕虜を厚遇した日本
記念艦「三笠」公式ホームページ|神奈川県横須賀市
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
記念艦「三笠」|日露戦争における武士道
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/matsuyama.html

明治38年、日露戦争が始まると、松山俘虜(ふりょ=捕虜)収容所には全国で最も多い延べ6.000人余りのロシア兵俘虜が収容されました。(収容所は全国で29ヵ所あった)
俘虜といっても外出自由であったほか、将校や妻帯者は一般家屋に住むことも許され、市民との交流も親密であったと言われています。そして、病気や負傷で亡くなった98人の将兵のために立派な墓地が作られました。
墓地は今も保存会や婦人会、近くの市立勝山中学校の生徒達が清掃奉仕を続け、供物や花の絶えることがありません。
その98柱の石碑の中に、とりわけ大きなボイスマン大佐の墓がありますが、彼は旅順艦隊の戦艦ペレスベートの艦長で、海戦で負傷し捕虜になりました。日本側は、大佐という階級と負傷兵であることを考慮して、ロシアに 送還しようとしたが「兵卒と共にありたい」と拒み、それなら妻子を呼び寄せよ、と勧めましたがこれも謝辞し、収容されて八ヵ月後、胃がんで他界しました。享年50歳。
当時の記録によると「ロシア人の武士道」に感動した会葬者の列が数町に及んだといわれており、今もなお地元の人々の手でロシア人墓地が清められ、供養の花が絶えないのは彼の存在が大きいからだと思われます。

当時松山では、県が県民に対し「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と何度も訓告を発しました。
当時の日本人には武士の気概が色濃く残っており、かつそれに松山人の持つ“お接待の心”が加わってこの美談が生まれたものと思われます。






4.第一次大戦の日本軍(1914年〜1918年)


1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツが暗殺されたサラエボ事件を契機に、欧州を中心とした世界大戦が勃発する。
1914年 8月23日、日本は日英同盟に従い、連合国側に参戦。敵国ドイツに宣戦布告し、極東のドイツ軍の拠点を攻略する。


ムスターラーゲル(模範収容所)と呼ばれた日本の捕虜収容所
鳴門市ドイツ館
http://www.city.naruto.tokushima.jp/germanhouse/
ドイツ館とは
http://www.city.naruto.tokushima.jp/germanhouse/about.html

大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送りました。このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。
この収容所では、松江豊寿所長をはじめとする管理スタッフが、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。彼らの活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーベンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。
所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。
その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。







5.日本軍の規律は、日本人の国民性そのもの


日本は世界で最も治安の良い国である。
前述のように窃盗は極端に少なく、イザベラ・バードは「女性が一人旅をしても安全な国は他にない」と振り返っている。
他国に比べ、成人男性同士が殴り合いの喧嘩をする事は滅多になく、汚い怒声を浴びせる喧嘩すら、ほとんど起きない。喧嘩口論に用いられる「罵倒語」の数も、日本が世界でも最も少ないという。

罵倒語が少ない事に関する出典)大野晋著 「日本語練習帳」 岩波新書 1999

戦後、日本は混迷の時代を迎え、治安やマナーが著しく悪化した事もあった。
第三国人からの自警を発端とする暴力団や愚連隊の台頭と抗争、自動車やバイクの普及に伴ういわゆる「交通戦争」暴走族の興隆、高度経済成長の大量生産・大量消費・大量廃棄と環境汚染による「ごみ戦争」と衛生マナーの悪化、中学高校の治安が悪化した「校内暴力」時代など。
しかし、そんな混迷の時代を迎えても、我々は四半世紀の内に「清潔な国」「安全な国」「公共マナーの良い国」という名誉を取り戻せているのだ。

このように、良好な治安を維持でき、秩序正しく行動し、争いごとを好まない国民が軍隊を持てば、その軍隊も、無用な殺戮を好まない秩序正しい軍隊となるのは、至極当然である。前述の日本軍の姿は、まさに日本の国民性そのものといえよう。
もちろん、幾ら日本の治安が良く、日本人が粗暴な振る舞いを好まないからと言っても、たまに猟奇殺人が起きるように、日本軍も完全無欠とはいえない。
事実、日露戦争の際には、ロシア軍の第四パルチザン支隊130名の捕虜を不当に殺害した記録がある。
捕虜虐殺の出典)松山大学編 「日露戦争100年とロシア兵捕虜 マツヤマの記録」 成文社 2004年 138~157頁(第八章)

しかし、例外的な猟奇殺人が発生しようとも、日本が世界で最も治安が良く、アジア一秩序正しい国であるように、例外的な虐殺が起きようとも、当時の日本軍は、世界で最も秩序正しい軍隊だったのである。
では、なぜ、第二次大戦では、民間人が日本軍に殺され、捕虜が虐待される事件が頻繁に起きたのだろうか?
その理由は二つある。
一つは、共産党勢力や連合軍側の扇動により、民衆自体がゲリラ化していた為である。そして、もう一つは、アジア一粗暴な民族を参戦させてしまった為である。






軍に民間人が殺された訳


1、民衆を武装ゲリラ化させていた中国



金文学
(1962年生まれ)

中国瀋陽市出身の朝鮮族(韓国系中国人)三世。
呉大学社会情報学部講師
日・中・韓三ヶ国語による執筆を続け、作家・比較文化学者として活躍中。
中学では文学賞を多数受賞。
金文学 「「反日」に狂う中国「友好」とおもねる日本」 祥伝社 2004年 158~162頁

(前略)ここ数年来、これまで「残虐」や「非道」としてしか描かれてこなかった日本軍の素顔について、公的言論機関では発表できないにしても、インターネットの世界では、中国の知識人たちによる発言が徐々に見られるようになってきました。
「小軍師」というペンネームを使った中国人研究者は次のように書いています。タイトルも、ずばり『真実の鬼子と真実の八路軍』です。

「1970年初頭、わたしは河北省の故里、保定へ戻った。保定一帯は、抗日戦争のとき、八路軍、ゲリラが最も活躍した地域であり、多くの抗日題材の作品は、ほとんどが保定一帯を舞台にしている。たとえば、『野火春風闘古城』『地道戦』『平原遊撃隊』『敵後の武工隊』『烈火金剛』『雁○(「令」編に「羽」)隊』『回民支隊』などなど。わたしの父は1938年に八路軍に入隊したが、最初数年間は、基本的に保定あたりで日本鬼子と戦ったり、やりとりをしたりした。
わたしは、故里で父と同年輩の親戚といろんな話を交わしたが、話の中で、当時の映画や話の中にはないものを聞くことができた。当時は話すことができなかったが、現在になってやっと皆さんに話すことができる。
真っ先に華北地区に侵入した日本鬼子は、日本軍の精鋭部隊だった。それは戦闘力が強いばかりではなく、規律も厳格だった。老人たちの証言によると、数日後日本鬼子が村に入るというので、村人たちに緊張が走ったようだ。華北の漢奸団体(対日協力団体)である維持会の要求によって、村では数人の長老で維持会をつくったが、この維持会の役割は、すなわち鬼子の村への進入を『歓迎』するものだった。鬼子が村に来る当日、皆は家に閉じ篭もり、恐くて外に出られなかった。しかし、維持会の老人たちがおそるおそる張り紙で作った日章旗を持って、村の入口で鬼子たちを待っていた。お茶やケーキまで用意して鬼子を接待しようとした。昼頃、一個小分隊の十数人の鬼子が本当にやってきた。老人たちは、無表情で恐怖感にさらされながら、機械的に日章旗を揺らした。しかし、これらの鬼子たちは、老人たちの歓迎ぶりに何の反応もせず、直進して村の脱穀場で休憩しはじめた。彼らは、皆それぞれ携帯した軍用食品と飲料水を取り出して食べた。村で用意しておいたケーキやお茶には絶対に手を触れなかった。
好奇心に惹かれた子どもたちは大人たちの監視から逃れて、こっそりと脱穀場にやってきた。鬼子たちは、子どもに向って何か大声でしゃべった。すると子どもたちはすぐ驚いて逃げ出したが、またもや囲んできた。そこで鬼子たちは、食品を子どもたちに投げかけた。最初子どもたちは恐くて拾えなかったが、日本軍が同じものを食べているのを見て、食品を拾い集めた。
わたしの叔父は、当時飴をもらい、丸いステンレスの筒(軍用ハムの缶詰)を拾って家に帰ったが、大人が毒が入っているかもと言って捨ててしまったそうだ。よその子どもたちは飴と菓子を皆食べたが、大変おいしかったようだ。叔父はここまで言って、一言付け足した。数年後、われわれ子どもたちは成長して、多くはゲリラや八路軍に参加し、日本鬼子と戦ったと。
老人たちは、またこのような話をしてくれた。鬼子が最初来た頃、現地では何の反抗もなかったし、日本軍も百姓に対して何も野蛮な行為をしなかった。その後、情況は変化し、八路軍とゲリラ隊が積極的に動きはじめた。農民に抗日救国の道理を宣伝し、一致団結して小日本を撃退せよと要求した。
皆はこれで抗日道理について悟り、共産党と武力工作隊の指導の下、日本軍を襲撃しはじめた。そこで日本軍も報復を開始したのだ。当時の掟として、どこかの村で日本軍を殺したとすれば、その村は責任を持って、死を甘受しなければならなかった。

(中略)
わたしの父の話によると、彼が所属する八路軍の連隊に散髪屋さんがいたが、彼は日本兵の散髪をしているときに散髪ナイフでこれを殺し、八路軍に参加したそうだ。(略)
老人たちの話によれば、日本軍が残忍だった原因は、そのころ以降の日本軍は日本人ではなく、朝鮮人と台湾人の軍人からなっていたためだという。これらの軍人は、現地では『二鬼子(アルキーズ)』と呼ばれた。『二鬼子』は本当の日本鬼子よりも悪人で、人を見るたびに殺し、掠奪したので、皆『二鬼子』を憎悪していた

*朝鮮人が粗暴だった事は、他の資料や犯罪発生率の高さからも裏付けが取れるが、台湾人が粗暴だったとする資料はない。






2.南方戦線での例


インドネシアで起きた民衆からの戦闘行為
<転載許可済み>
将門Web
http://shomon.net/
周の文学哲学歴史話13
http://shomon.net/bun/reki13.htm

スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。


終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人のインドネシア人が虐殺された。殺したのはイギリス軍でもない。オランダ人でもない。日本軍だ。理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。


この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。
それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。その結果、その真相が次の書物に記されています。

 北スマトラ州戦史編集検討会「北スマトラにおけるインドネシア独立戦史」

この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。




 インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされていた。だが独立を認めないオランダ軍とそれを支援するイギリス軍が迫っており、インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としており、降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。こうした情勢下で、1945年12月13日にテビンティンギ事件が発生したわけである。
 1945年の12月初め英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等が家族同伴で列車に乗ってキサラン近くの農園に向かった。テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てた。12月11日、汽車が到着すると、武装した青年たちが、その列車を阻止した。
 武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否した。だが長時間の対峙のあと、15時に日本軍は降伏し、15時30分すべての武器が引き渡された。日本の将校4人を人質としたが、青年たちはその一人深尾大尉を殺してしまった。
 この日の夕方、宮川中尉により警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が青年たちに取り囲まれた。彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請した。電話で沢村少将は「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。この二人の会話がまだ終わらない前に、青年たちは電話線を切断してしまった。宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。青年たちは武器を取り上げて、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺した、宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。
 12月12日午前9時、前日の列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来た。
 アミルタアトティオンは
「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」
 これを沢村少将の部下中村副官は、拒否して、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪に抗議し、その列車の深尾大尉ら40人の兵士がどうなったかを尋ねた。アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えない。
 ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ると、昨夜グヌンパメラの農園で日本人16人が殺害されたことを知るにいたり、さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得てしまった。
 無線は通じず、電話線は切られており、第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けた。12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。
 沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、また無限に日本人が殺戮されていくことを深く怖れ、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対する報復攻撃の準備を命令した。師団長の許可を仰ぐため無線により電報を打った。驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣した。
現地にきて詳しく調べてみると、警告のために報復攻撃が必要であるとの結論に達し、攻撃が許可された。午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に伏せた後、歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。大砲もあったが一般市民が犠牲になるのを防ぐために使用しなかった。
 攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。
(これは、あくまでインドネシア側の記録であるわけです。「至るところで女子供まで」ということは、「事実ではない」と総山氏は言っています。だが、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、こうして現代のインドネシアが認めているわけです)。
 プシンドは簡単に敗北した。過激な指導をした者が、ジャワから来た煽動者だったことを市民から伝えられたプシンドは一斉に町から逃げ出してしまった。
 やがて、テビンティンギを奪回するために青年たちが、戻ってきて日本軍と戦った。戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。
 12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄はインドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議した。この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。そして、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であるということになり、まずは、インドネシア政府の代表と、諸党派の代表と、日本軍の代表としての総山が、事態収拾のためにテビンティンギへ行くこととなった。
 だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せなかったので、この代表たちは沢村に何も言うことができなかった。そこで総山が夜半単独で、沢村と会い説得した。
「閣下には報復せねばならぬ理由がある事を私は判っています。日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を流すでありましょう。そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。
インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は報復を止めるという事を布告してください。われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれども、敗戦により禁じられているわれわれは、公然と独立を助ける事はできない。われわれはインドネシアの独立を助けたいのだが、必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。われわれは、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください」
 こうした総山の必死の言葉に、沢村少将は、これを納得した。12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。
 このまことに残念な事件は、実際は度を越えた革命精神により起こったのであって、その結果却って共和国の大切な国民保安隊や青年党が大打撃を受け、革命精神の性急さのために却って革命が打撃を受けてしまったのである。
 大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されると、彼らは我慢できなかったのである。
 メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったが、12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。
 共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難した。また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとの声明をだした。
 日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。


(略)
 最後に、このインドネシア方面軍の司令官であった今村均の収容所でのある
エピソードを書いて、この文を終わります。

「将軍がここにはいられたので、日本人みな力にしているとのことですね」
「九十九人匹の羊は祖国へ帰し得ましたが、ここに残されている迷える一匹は、どうしても私がみまもる責任があるのです」
「あなたは羊を飼っていたのですか。どこで?」
けげんな顔でたずねるマッピン(少佐牧師)に、片山が「マタイ伝第十八章の言葉をひかれたのです」と説明した。
「ああ、そうでしたか」マッピンが明るく笑った。「将軍は聖書を読んでいるのですか」
「十八歳まではよく協会にいってました。聖書は今も手にしています」
「そうですか。それで今も、キリスト教を信仰しているのですか」
「仏教と申しておきましょう。一般の仏教とは少し違いますが……」
「それは何という信仰ですか」
「法然、親鸞という仏教の聖者が説いた教えで、イエスの説かれたものと同じ愛と救いの信仰です」

  (角田房子「責任ラバウルの将軍今村均」)

 今村均は、オランダ軍に戦犯とされた部下たちが無罪であるということ証明するために、自ら収容所に入ります。そのときのラバウル収容所での豪州軍少佐マッピンとの会話です。この今村均の思いが、先に書いた総山孝雄氏の心と同じであると思います。昔の戦友たちが、なんらいわれのないことで罪におとされ貶されることには、敢然と正しいことを主張しているのだと思います。迷える1匹の羊であろうとも、それを探し、それを救い出すことは、絶対にやらねばならないのです。私もまったく同じ気持なのです。(1997.12.28)



南方アジア各地でも暗躍していた共産系ゲリラ
前野徹著 「わが愛する孫たちに伝えたい 歴史の真実」 経済界 2000年

後に上院議員となったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。
日本軍はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
ノンティック氏は、自分たちの歴史・伝統を正しく語りつがない日本人に対して、一編の詩をメッセージとして残しています。

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた

*共産ゲリラのみならず、連合軍も、日本に奪われた植民地国の住人を扇動し、ゲリラ化させては日本軍と戦わせていた。これが民衆を戦闘に巻き込む悲劇を生み出したのである。





規律を乱した朝鮮人


日本は、1920年の朝鮮併合以前より、朝鮮人が日本の士官学校に入る事を許可していた。その為、第二次大戦時の日本軍には早くから、朝鮮人将校が多数在籍していた。また、日本軍は、日中戦争が始まる以前からも、軍属には多くの朝鮮人を雇用していた。
日中戦争が勃発すると、朝鮮に志願制度が敷かれるようになり、朝鮮人は正規兵としても日本軍に参加するようになった。
だが、これが大きな問題を引き起こしていた。


インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵
「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年
アルフレッド・スムラー著(フランスの雑誌パリマッチ特派員)

別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、
占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
たとえば戦後十年たって
インドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。



フィリピンのルソン中部山岳地帯を旅行した医師が、各地で現地人から聞いた「朝鮮人が一番残酷だった」という証言
月刊誌「DATUMS」1995 年10 号
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医

http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html

山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。
韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない






鍼灸医の体験した日本軍の香港占領
「日本軍は香港で何をしたか」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年
 36~37頁

九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。
彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。
最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。


142頁

(日本軍占領下の香港では)
アヘン販売や売春市場は朝鮮人が中心となって取り仕切っていた。

注意)上記の「日本軍は香港で何をしたのか」の全体の内容は、日本軍の蛮行を告発したもの。
しかし、その内容たるや、朝鮮人将校が存在していたにも関わらず、朝鮮人は日本軍では二等兵以下の地位に処されていたとか、日本の奴隷化政策のせいで朝鮮人のほとんどは読み書きが出来なかったとか(終戦直後の朝鮮人の就学率は61%。参考)「『韓国併合』とは何だったのか」 中村粲著 日本政策研究センター 1997)、250万人の朝鮮人が強制徴用されていたとか、ウソだらけである。
上記に転載した142頁の記述は、他の資料にも多く見られる話だが、36~37頁の記述の真偽は不明である。





『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.220

昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジェネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。
朝鮮人が李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここに来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。
東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。
敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。

白人こそ報復と復讐の大家だったのだから




『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133

昔から日本人は語学が拙ない。地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、
どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略)
日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。
通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。
中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。







捕虜収容所で、虐待された少年の自伝
レオ・ゲレインセ自伝 「日本軍強制収容所  心の旅」
難波収、トレナール藤木きよ、ボム三上なをみ訳 手帳舎刊 40~45頁

ことが起こったのは、そこでの初めの頃だったと思うが、正確な日時は覚えていない。
 とにかく、点呼のときに誰かが冗談を言った。当時私の脳の働きはいくらか鈍かったので、その冗談の落ちが私に判ったのは、やや間をおいてからだった。時や遅し。私がくすくす笑い始めたのは、ちょうど私たちの目の前に一人の日本人{*4}が立ったときだった。彼は「笑ったのは誰だ」と怒鳴って訊いた。このヤップはまさに悪魔のような奴だった。日本の現人神天皇のために直立しているときに笑うとは神聖の冒涜である、と彼は烈火の如く怒った。
 私は、もうこれでやられてしまうと観念した。恐怖に震えながらも、私は名乗り出なければならぬと思った。さもなくば、ほかの笑わなかったかも知れない人々が犠牲者となるだろう。私が名乗って前に引き出されたとき、私は目がくらくらして、周囲のすべてが回り始めるのを感じた。恐怖のために堪え難くなった私の周りを、さまざまな色がぐるぐると、しかもだんだん急速に回転するのだ。ヤップが私を殴り始めたのを記憶に残っている最後の情景として、私は大きな暗い穴に落ち込んでしまった。
(中略)
私たちは、肉体的に傷つけられるだけではなく、精神的にも厳しい忍従を強要された。例えば、体がいくらか回復したとき、私は、何人かの捕らわれ仲間が拷問されるのを視るように強要された。一度の如きは、誰か{*5}が無茶苦茶に殴られるのを見せられた。殴打の終わったとき、その人の顔にはもはや生気は見られなかった。また別の機会には、一人の成年男子が四方から両手両脚を烈しく引っ張られ苦痛に泣き叫ぶ有様を、私は正視しなければならなかった。その後、この二人が生き延びたかどうか、私は知らない。

同書の注釈

*4
「一人の日本人」と「日本警備兵」は同一人物。この男はマツザワ ゼンユー
という名を持つ朝鮮人の軍属らしい。彼は些細なことでもすぐホッケースティックで、シャツを剥ぎ取った上半身や耳を打った。オランダ人の間では「ホッケースティック」のあだ名で呼ばれていた。

*5
これは多分M.W.デ・ヘールという五十二歳のオランダ人である。この男性は食べ物を「密輸」したということで一九四五年五月、キムラ セイコンという朝鮮人軍属から太い棒で全身を五十回ほど殴られ、肋骨が何本か折れ、八日間独房に入れられた。しかもはじめの三日間は食物も全然与えられなかった。恐らくはこの虐待がもとで、デ・ヘールは六月十六日にカンプの病院で死亡した。このキムラは「殴り屋ヤン」と仇名されるほどカンプ収容者に対して多くの残虐行為を働き、裁判の結果一九四六年十月十一日に死刑となった。日本兵の中で、カドワキ サカエ軍曹だけは例外で、唯一のよき日本人であったとバンコン収容所の記録に特記されている由。







今も昔も粗暴な朝鮮人


1.統計から見るコリアンの粗暴さ


UNODC - United Nations Office on Drugs and Crime
http://www.unodc.org/unodc/index.html
故意・非故意の殺人被害発生認知数と人口10万人中の被害発生認知率
国   名 1997年度 1998年度 1999年度 2000年度
韓国 4400 9.57 4237 9.13 4432 9.45 4692 9.92
日本 1137 0.9 1166 0.93 1127 0.89 1148 0.9

日本人と韓国人では、殺人件数だけでも、常に一桁近くもの差がある。
暴行の被害認知発生数(Total recorded assaults)と強姦の被害認知発生数(Total recorded rapes)も、韓国は常に日本の十倍以上の高さを維持している。
参考元)前述のUNODC - United Nations Office on Drugs and Crime

また、韓国は儒教の影響で、「強姦被害=不名誉」という考えが非常に強く、女性は強姦被害を受けても届出を出さない事が多い。ゆえに、この届出のない被害も含めれば、韓国の強姦率は日本の百倍以上にも達すると思われる。
2000年 神戸国際会議場 8月18日~21日
「第6回アジア性科学学会(Asian Congress of Sexology)報告」
韓国のソウル大学Helen Noh教授の講演
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2000-9-25/9ss3.htm
136名の被害者のうち届け出は1名のみ

まず2290人のソウルの女性を対象とした研究によると,22.5%が何らかの性虐待を19歳までに受けているという結果が出ています。約2%はレイプあるいはレイプ未遂の被害に遭っています。また5.9%(136人)の女性がなんらかの性虐待を13歳までに受けていました。この回答者のなかで警察に届けたのは1人だけでした。


日本国内でも、昔は、在日コリアによる犯罪率が異常に高く、日本の人口の1%以下に過ぎない在日コリアが、かつては、公務執行妨害の21%(1949年)、騒乱罪の83%(1948年)、密造酒は全密造酒の30%近く(1953~54年)、覚醒剤の販売量は全量の60~70%(1953~54年)を占めていた程だった。
参考)若槻泰雄 「韓国・朝鮮と日本人」1989年 原書房






2.やたら虐殺事件を引き起こすコリアン


いかに日本人が秩序正しく、世界で最も犯罪を犯さない民族であろうとも、その軍隊に、日本人の十倍から数十倍以上もの犯罪率を持つ民族を参加させてしまえば、規律が乱れ、蛮行が発生するのは当たり前である。
日本軍は、出身地域ごとに連隊を組む。半島出身の朝鮮人は所属すべき連隊が無かった為、憲兵や捕虜の監督を任される事が多かった。
その為、日清戦争でも日露戦争でも第一次大戦でも起こらなかった捕虜への過酷な虐待が発生した。彼ら朝鮮人憲兵にゲリラ容疑を掛けられた現地人が虐殺される事件が多発してしまった。
沖縄戦において、沖縄島民がスパイ容疑を掛けられ、憲兵によって殺される事件が相次いだのも、この為である。

第二次大戦後、朝鮮が独立をはたすと、日本という抑制者がいなくなったが為に、彼らの残虐行為はさらにエスカレートした。
独立後、ソ連と米国によって分割占領された朝鮮半島は、北の「北朝鮮民主主義人民共和国」と南の「大韓民国」の二カ国に分かれた。この「大韓民国」側だけでも、1948年に済州島で十万人近い島民を虐殺した{*1}事を皮切りに、1950年には国民保導連盟事件{*2}、1951年には国民防衛軍事件{*3}を引き起こし、独立からわずか数年の内に、戦禍以外の形で50万人近い自国民を殺してしまった。

{*1}済州島4.3事件の事。北側を支持する「南朝鮮労働党」が済州島で蜂起した事を切っ掛けに、党員と共産分子の容疑を掛けられた島民が、韓国政府によって虐殺された事件。1954年9月21日までに3万人が殺され、1957年には延べ8万人の島民が殺されたといわれる。
{*2}1949年、共産主義者を改心させる「保導連盟」が設立。加入者は、過去の共産主義活動の罪を問われない上に、食料配給で優遇される為、多くの共産主義者と餓えた民衆が加盟する。しかし、1950年6月25日に北朝鮮の侵攻が始まると、反乱を防ぐ為、加入者は全員皆殺しにされた。その数は三十万人といわれる。
{*3}北朝鮮の侵攻の為に、百万の防衛軍兵士を後方地に移動させた際に起きた事件。幹部が食料と物資を不正に横領した為に、数十万人の青年が餓死・凍死させられた。

朝鮮人は、第二次大戦中と独立後、このような虐殺事件を幾度引き起こした。しかし、彼らは「第二次大戦では、被害者側だった」と称し、日本と共に贖罪に努めようとはしなかった。そして、独立後に犯した大虐殺事件もタブーとし、何ら反省してはいない。






3.ベトナム戦争で、第二次大戦の時と同じ事を繰り返したコリアン


第二次大戦に犯した事も、独立後の数年間に犯した事も、何ら反省せず、粗暴さを矯正しようとも努めなかったコリアンは、1965年から参戦したベトナム戦争においても、同じ事を繰り返している。

私の村は地獄になった
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた

ロン・モロー(バンコク支局長)

(中略)

理由なき無差別の殺戮

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
(後略)







4.今も第二次大戦当時と変わらないコリアンの冷酷さ


金文学 金明学共著 「韓国民に告ぐ」 祥伝社 1999年

雑誌『新東亜』一九九六年八月号に載っていた「『コリアン・ドリーム』散々に砕け散った外国人労働者たち」という記事を要約して紹介してみよう。
「不法滞在者である中国朝鮮族金吉元(キム・ギルウォン)さん(三十三歳)は去る一月、プレス工場で働いていて指を二本切断してしまった。しばらく休まねばならなかったが、その補償はおろか治療すら受けさせてはもらえなかった。そして逆に事業主は鞭打ちまでしたという。ついにたまりかねて出入国管理所に訴えた金さんは、管理所で、血の小便まで出て腹と腰の痛みも耐えがたいことと、傷ついた指の治療を訴えたものの、管理所側はただ一度、一般病院での治療を受けさせただけであとは医務室での治療しか施さなかった。金さんが腹と腰の痛みを訴えると医務室では『湿布薬を貼っておけ』と言うだけで、指の治療を要求すると『指を動かし続けなさい』と言う驚くべき対応であった」
記事は続いて次のように報道している。
「……皆(インド人産業技術研修生)が午前中に八時間、午後に八時間の一日合計十六時間働いて、食事の時間はせいぜい二十分だったという。月給は一日十二時間を基準にして四万ウォン(約四千六百円)を受け取ったが、二万ウォンは本国に送って、残る三万ウォンで一ヶ月間生活せねばならなかった……。
彼らには休日は一ヵ月に一日しかなかった。去る五月には一日も休みはなく、六月になってやっと休日がとれた。韓国の祝祭日でも会社関係者は『おまえらは韓国人じゃないから休ませるわけにはいかない!』と言って、韓国人がみんな休んでいる日も働かねばならなかった……。
あるときは一人の同僚が病気に罹って数日間呻いていたのだが、管理責任者がやってきて『おおげさに痛いふりをするのはもうやめて早く働け』と強制的に引っ張って行ったので、みんなが怒って立ち上がったという。病院に入院させなければと抗議を続けると、致し方なくその同僚を病院に連れていったのだが、医者は一言、ただの栄養失調だと診断を下したそうだ。
『管理者はいつもわれわれに高圧的な姿勢でした。われわれが一瞬韓国語の挨拶の言葉を忘れでもしたらひどく腹を立てたし、自分の言うことを聞かなければ腕立て伏せや階段駆け上がりなどで気合を入れたのです。わたしたちは働く労働者というよりも、あたかも軍隊の兵士のようでした。とは言っても、どこの国の軍隊でもこんなひどくはないでしょう。ある日、会社でビデオテープが一つなくなったと言って、管理者が怒ってわれわれ研修生の部屋と荷物をすべて引っくり返して調べました。それでも発見できなかったものだから、われわれ研修生に向って“おまえらみんな泥棒だ!”とわめき散らしたのです。
われわれはそのような納得しがたいことを言われても、我慢しなくてはなりませんでした。管理者に刃向かえば直ちに本国に送還されてしまうからです。結局ビデオテープは見つからず、管理者はわれわれ十四名全員の月給を少しずつカットして、テープ代二万ウォンを支払わせたのです』」



中央日報 2001年12月5日
【社説】アグリーコリアン

実に嘆かわしく恥ずかしいことだ。 中国に進出した韓国の企業や政府機関の駐在員家庭の一部が現地で採用した家政婦を召使いのように扱い虐待しているという事実が、KOTRA上海貿易館長の発表により分かった。 人件費が安いため家政婦を何人も雇い、冷蔵庫内の賞味期限が過ぎた食べ物を家政婦に食べさせ、さらには仕事の態度が気に入らないと言って暴力まで振るうというのだ。これでは一体どんな現地人が韓国人をまともな人間と考えるだろうか。 
海外駐在員の家庭で家事手伝いをする現地人が人間以下の待遇を受けるのは、中国だけではない。フィリピン、タイ、ベトナム、インドネシアなど東南アジア諸国でも、韓国人社会における一部海外駐在員家庭のこうした歪んだ姿が噂となっている。 90年代初め、旧ソ連圏国家からも、こうした醜いコリアンの行動を非難されたが、国内には伝えられなかったため、全く改善されず同じことが繰り返されている。


アムネスティ韓国支部の2006年八月の報告書『大韓民国:移住労働者も同じ人間である』によれば、移住者労働者の五人に一人が職場で身体的暴力を受けた経験があり、三人に一人が雇用主や同僚から暴言受けた経験を持っているという。また、同報告書では、外国人労働者への重労働、暴力と暴言、賃金未払い、重傷を負っても補償無し等、韓国人雇用主の余りの冷酷さが詳細に記されている。

韓国国内に限らず、海外に移民したコリアンが、現地で不法滞在の外国人を雇用し、中世のような奴隷労働を強いる事件が発生し、たびたび問題となっている。一例を挙げると、2005年9月5日にブラジルに移民したコリアンが、不法滞在のボリビア人に奴隷労働を強いた為に逮捕される事件が起きている。
出典)ブラジル誌 Folha Online  2005/09/05

第二次大戦当時、捕虜や現地人に対して横暴な振る舞いで接し、虐殺を繰り返したコリアンの性質は、今も同じままである。
再び極東に大戦が訪れた時、間違いなく、彼らは同じ事を繰り返すだろう。



韓国の国民性に関する参考資料
アムネスティ韓国支部の2006年八月の報告書『大韓民国:移住労働者も同じ人間である』(日本語版)
2002年・日韓ワールドカップに見る韓国の過激すぎる国民性『UGLY KOREAN』
捏造された戦犯を検証するサイト
脱・洗脳史講座
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/
731部隊の歪曲、三光作戦の捏造、偽加害者などなど、捏造・歪曲された日本の戦犯を特集・検証しています。





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