労働者強制連行の実態




軍事工場に動員されていた台湾人少年工 寮の窓から覗く台湾人少年工たち





1.朝鮮人強制連行の実態
2.中国・韓国の卑怯な捏造
3.台湾人少年工たち
4.東南アジアでの強制連行
5.留意点





朝鮮人強制連行の実態


1.歪曲された戦時徴用(強制連行の真実)


年代 法令 日本・台湾 朝鮮
1938年 国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成立
15〜45歳までの男子、
16〜25歳までの女子が徴用
徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される
1942年2月 人手不足により、「官斡旋」による募集が始まる
既に徴用済み 日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。
1944年9月 朝鮮に初めて徴用令発布
既に徴用済み 本人の意志を優先した為、達成率は79%に留まる。
1945 年8月15 日 終戦
徴用令が無効となる
1945 年3 月に関釜連絡船が閉鎖した為、実質、六ヶ月で終了
国家総動員法)1938 年に第一次近衛内閣によって制定。総力戦遂行の為、国家の全ての人材と物的資源を政府が総動員できるという規定

名越二荒之助
1923 年(大正12 年)、岡山生まれ。
終戦後、ソ連に五年間の抑留。
復員後、岡山県で県立高校の社会科担当教諭・教頭を歴任。昭和43 年、家永教科書裁判の国側証人となる。同56 年、参議院予算委員会の参考人(教科書問題)として問題提起。
高千穂商科大学元教授(1997 年退職)
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助編著 国際企画 1997 年
注釈)日本図書館連盟選定図書にして、ヨゼフ・ロゲンドルフ賞受

また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19 年9 月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19 年9 月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20 年3 月までの6 ヶ月間に過ぎない。

*同書は、「日韓共鳴二千年史」と改題され、2002 年より明成社から復刊。



2.公文書から見る、朝鮮人労働者の扱い


国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件(大日記甲輯昭和15年)
レファレンスコード:C01001832500
転載範囲は、4~6頁。
以下は、分かり易く現代語訳したもの

極秘



朝鮮人工場労働者、日本移住斡旋に関する協定

企計G 人後第五号
昭和十五年八月二十二日
企画院第三部

第一 目的

本協定は、日本工場の労働需給の調整と、朝鮮の技術水準の向上に貢献することを以って、目的とする。

第二 方針

一、労働動員実施計画綱領にもとづく、朝鮮人工場労働者の日本移住に関しては、昭和十四年七月の「朝鮮人労働者日本移住に関する協定」にもとづく募集によるものの内、一部は朝鮮総督府において、これを斡旋する事で得る事にする。
斡旋による朝鮮人工場労働者の日本移住に関しては、本協定の外、昭和十四年七月の協定にもとづく事。

二、斡旋による工場労働者数については、関係庁において、毎年これを協定する事。

三、本協定にもとづき、斡旋により日本に移住させるべき工場労働者については、左(次)により取り扱う事。

(一)労働者の従事すべき事業および作業の種類は、おおむね別紙(資料センターの8~11 頁の画像)によることとし、朝鮮に帰国後、就労させるべき工場と同一資本系統の工場をかなり選定する事。
(二)労働者は、おおむね年齢十四歳以上、二十歳未満の男子にして、修業年限六年の尋常小学校(現在の小学校に相当)を卒業した者。または、これと同等以上の学力を有し、思想堅実、身元確実、身体強健な者であること。
(三)労働者の採用は、朝鮮総督府において斡旋した者に限って、雇用主が行うこと。
(四)雇用期間は、これを二年以上五年以内とし、その満了した時は、原則として朝鮮に帰国させること。雇用期間満了の際、必要と認める時は、労働者の一部に付き、その雇用を更新継続できること。
(五)雇用主は労働者に対して、その徳性を養い、中堅職工として、必要な知識および技能を速やかに授ける者になる事。
(六)労働者が朝鮮に帰国する場合、「国家総動員法」にもとづく「従業者雇入制限令」の適用については、関係庁において迅速に処理をすること。
(七)労働者の往路旅費および、雇用期間満了まで就労した労働者または雇用主の都合により解雇した労働者の帰郷旅費は、雇用主が原則として負担すること。ただし往路旅費については、朝鮮総督府において、その一部を負担する事。
本協定により、朝鮮の工場に就労する為に、帰郷する者の帰郷旅費は新雇用主が負担する事。


注釈)「従業者雇入制限令」とは、年齢15歳以上50歳未満の男子の内、
@他の雇用者に3 ヵ月以上雇用されていた者。あるいは、3 ヵ月以上雇用された後、雇用を終了して6ヵ月以内の者。
A3 ヵ月以上技能者養成令にもとづく養成工であった者。および養成終了後6 ヵ月以内の者。
を新たに雇用する場合は、職業紹介所長の許可を必要とした法令
原文
極秘

朝鮮人工場労務者内地移住斡旋ニ関スル協定

企計G人後第五号
昭和十五年八月二十二日
企画院第三部

第一 目的
本協定ハ内地工場ニ於ケル労務需給ノ調整ト朝鮮ニ於ケル技術水準ノ向上ニ資スルコトヲ以テ目的トス

第二 方針
一、労務動員実施計画綱領ニ基ク朝鮮人工場労務者ノ内地移住ニ関シテハ昭和十四年七月ノ朝鮮人労務者内地移住ニ関スル協定ニ基ク募集ニ依ルモノノ内一部ハ朝鮮総督府に於テ之ヲ斡旋スルコトヲ得ルモノトス
斡旋ニ依ル朝鮮人工場労務者ノ内地移住ニ関シテハ本協定ニ依ルノ外昭和十四年七月ノ協定に依ルモノトス

二、斡旋ニ依ル工場労務者数ニ付テハ関係廰ニ於テ毎年之ヲ協定スルモノトス

三、本協定ニ基キ斡旋ニ依リ内地ニ移住セシムベキ工場労務者ニ付テハ左ニ依リ取扱フモノトス
(一)労務者ノ従事スベキ事業及作業ノ種類ハ概ネ別紙ニ依ルコトトシ帰鮮後就労セシムベキ工場ト同一資本系統ノ工場ヲ可成選定スルモノトス
(二)労務者ハ概ネ年齢十四歳以上二十歳未満ノ男子ニシテ修業年限六年ノ尋常小学校ヲ卒業シタル者又ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有シ思想堅実、身元確実、身体強健ナル者タルコト
(三)労務者ノ採用ハ朝鮮総督府ニ於テ斡旋シタル者ニ付雇用主之ヲ行フコト
(四)雇用期間ハ之ヲ二年以上五年以内トシ其ノ満了シタル時ハ原則トシテ之を帰鮮セシムルコト
雇用期間満了ノ際必要ト認ムルトキハ労務者ノ一部ニ付其ノ雇用ヲ更新継続シ得ルコト
(五)雇用主ハ労務者ニ対シ其ノ徳性ヲ涵養シ中堅職工タルニ須要ナル智識及技能ヲ速ニ授クルモノナルコト
(六)労務者帰鮮ノ場合ニ於ケル国家総動員法ニ基ク従業者雇入制限令ノ適用ニ付テハ関係廰ニ於テ迅速ニ之ガ処理ヲ為スコト
(七)労務者ノ往路旅費及雇用期間満了迄就労シタル労務者又ハ雇用主ノ都合ニ依リ解雇シタル労務者ノ帰郷旅費ハ雇用主ニ於テ原則トシテ之ヲ負担スルコト但シ往路旅費ニ付テハ朝鮮総督府ニ於テ其ノ一部ヲ負担スルコトアルベキコト
本協定ニ依リ朝鮮内ノ工場ニ就労セシムル為帰郷スル者ノ帰郷旅費ハ新雇用主ニ於テ負担スルモノナルコト
*公文書には、「朝鮮の技術水準の向上を目的としている」事が明記されているばかりか、雇用期間を二年以上五年以下と定め、雇用主は徳性を持って技能者の育成に努めねばならないと注意をうながしている。
これのどこが「強制労働」「強制連行」なのだろうか?




3.体験者の証言



崔基鎬(チェ・ケイホ)氏
1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授。
自身も、1940年、北海道の三菱手稲鉱業所に一年間の徴用を経験。
過去、朴泰赫の名で「醜い韓国人」を出版。
日韓併合 韓民族を救った「日帝36 年」の真実 祥伝社  (2004/09)

たとえば、忠清南道で実施された徴用の例でいうと、公州・扶余・論山・青陽・舒川などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000 名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000 名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。
(略)
こうして厳選された約1000 名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9 月11 日、論山出発、翌日12 日元山港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。
多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩いを求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。
このような徴用の光景は、1945 年まで毎年見られた。
(略)
待遇は、一般の事務職よりも約三倍程度高額の給与が与えられ、月平均給与額は120 円程度。作業はほとんど採鉱器を活用、削岩機・ドリル・トロッコが使われた。
重複勤務の希望者が多く、八時間制の三交替で一般的傾向として月間約10 日、または15 日が重複勤務の場合、割増金を合計すると、月間180 円から220 円の支給額となったから、事務職、または本籍地の労働者の、約四倍ないし五倍以上の厚遇であった。(略)
一般の独身者には、寮などが無料で提供され、世帯持ちにはとくに独立の平屋建てが一戸ずつ提供されたから、本籍地または現地の未婚女性たちの結婚相手としても人気があったのは当然であった。

注釈)「本籍地」は朝鮮、「現地」は日本を指している



4.鄭忠海の証言と研究者の検証


「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992 年 亜紀書房

また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29 集参照)。

また、1944 年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90 年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。


「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 1997 扶桑社

1942 年(昭和17 年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。
(中略)
1944 年11 月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。
これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっています。





5.その他


戦時中、日本人・朝鮮人・中国人が炭鉱で働いていた上砂川町の記録
北海道空知支庁上砂川町
http://donetjp.com/kamisunagawa/

異人の離山

終戦となり、石炭増産に挺身した朝鮮人労働者も独立を約束され、故郷へ新しい希望を胸に、住み馴れた炭鉱の街に別れを告げた。
この年の12 月4 日には一挙に一千百余名が臨時列車で退山することになり、鉱業所の音楽部員から駅頭で別れの歌の数々を奏して、今までの労をねぎらった。歓送を受けた朝鮮人たちは、皆感激し、汽車の窓から身を乗り出して、サヨナラを叫びながら帰っていった。

http://donetjp.com/kamisunagawa/history/showa01_20.html

SBC 信越放送 SBC ニュース(16 日17 時15 分)より
松代大本営の朝鮮人労働者への食料配布は1日7合と判明

第2次大戦中に、長野市の松代大本営の建設工事に携わった朝鮮人労働者に対し1日当り7合の白米が配給されていた事が当時の関係者の証言で新たに分かりました。
(中略)
それによりますと地下壕の中で掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕の外で資材の運搬などで働く人には白米3合が配給され他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られていたということです。
朝鮮人労働者の食料についてはこれまで極めて粗末だったとされていましたが今回の証言について守る会では「当時の食料事情を考慮すると待遇は良く、軍が大本営建設を重視していた現われではないか」と見ています。

朝鮮が声高に主張する「強制労働」「強制連行」。
しかし、公文書の内容も、当事者の証言も、「強制」とは程遠いものである。
徴用経験者である崔基鎬は、「日本から賠償金を取ろうとする策略に過ぎない」
(著書「日韓併合」の45 頁)と言い切っている。




中国・韓国の卑怯な捏造


1.朴慶植の捏造・一(強制連行説の始まり)


初めて強制連行説を唱えた「朝鮮人強制連行の記録」より
引用文献を歪曲した朴慶植
朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」1965 年 未来社発行70 頁
「労務係りが深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲い、或は田畑で働いている途中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱に送り込み、その責を果たすという乱暴なことをした」という証言を記載

上記の引用元
「朝鮮新話」 鎌田澤(沢)一郎著「朝鮮新話」320 頁
なんと、その後に続く「只、総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を伺う朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやってのけたのである」の部分が、朴慶植の著ではカットされているのだ。

参考サイト
大日本史番外編・朝鮮の巻「植民地統治の検証2」
http://mirror.jijisama.org/syokuminti2.htm#kyouseirenkou

*歴史捏造家・朴慶植は、一部の朝鮮人公務員によって引き起こされた暴走をクローズアップし、まるで、それが朝鮮総督府の政策で行われたかのように見せかけている。



2.朴慶植の捏造・二(虐待説の始まり)


同書に記載された虐殺写真
A 初版に記載されていた写真 B 第49刷に記載された写真
下は、写真A を拡大したもの。
赤で囲った部分には、「土匪(中国の盗賊)之為、惨殺サレタル鮮人ノ幼児」と明記されている。
しかし、朴慶植は、その部分を途中でカットし、日本人の蛮行であるかのように見せかけている。

参考サイト
中共・朝鮮・左翼の歴史改竄
http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kaizan/
*朴慶植は、このような捏造を繰り返し、「強制連行」と「労働者虐待」を史実として広めた。





3.中国の歴史捏造(万人坑)


万人坑
本多勝一
親共産主義ジャーナリスト
( 経歴は著書により異なる)
日本統治下の満州では、多くの中国人が日本軍に強制連行され、中国各地の炭鉱で酷使された。
その多くは虐殺され、半死半生の者ともども「万人坑」という穴に捨てられたという。
中国政府は、この「万人坑」跡に記念館を建て、犠牲者の白骨死体を展示している。この話は、本多勝一の著書「中国の旅」(朝日文庫 1981)を通して、日本に広く知らされた。(同書は、朝日新聞で連載された)
万人坑の調査結果

だが、この件では、現代史家・田辺敏雄が、当時の炭鉱職員約300 人及び、炭鉱の職員で構成される東京撫順会員1000 人に対してアンケートと聞き取り調査を行った所、全員が否定するという結果が出ている。
また、氏は、「鉱山には日本人職員の十倍の現地労働者がいたにも関らず、終戦時、日本人職員への報復が全く起きていない」「日本軍が撤退後、ソ連や国民党軍が満州を支配したが、彼らは万人坑については一言も触れていない」等の点から、これは中国共産党の創作だと主張している。

参考)田辺敏雄 『「朝日」に貶められた現代史』 全貌社 (1994/02) など


上記の三点の他、万人坑が嘘である証拠
@不自然な所在地
日本は満州の他、朝鮮・日本・台湾にも炭鉱や軍事施設を持っていたが、万人坑は中国にしか存在しない。(中国の創作なのだから当たり前である)
A証拠資料無し
万人坑に関する一次資料は存在せず、終戦直後に、全ての炭鉱から資料が一斉に隠滅できたとは考えがたい。
B戦犯として告発されていない
日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判でも、万人坑の話は出ていない。(後から作った話なのだから、当たり前である)
C日本語ではない
中国語の“坑”には、「人を生き埋めにする」という意味があり、“坑”自体が“生き埋めによる処刑方法”を指している。
参考)「現代中国語辞典」香坂順一編著 光生館

一方、日本語の“坑”には、このような意味はない。「万人坑」の名称自体、日本語ではない。
D日本ではなく中国の文化
捕虜や被支配民の労働者を酷使・虐待し、穴に遺棄するという行為は、日本史上に前例がない。
しかし、中国側ならば、古くはB.C.260年の「長平の戦い」の捕虜40万人生き埋めを始め、近くは共産党が漢奸狩り(売国奴狩り)と称して行った生き埋めによる粛清のように、幾らでも前例がある。
用語・習慣ともに、万人坑は、中国側の文化である。
E加害証言の偏り
万人坑が存在したと証言する旧日本軍軍人は、全員、1950 年にソ連から中国の撫順収容所監獄に引き渡され、「教育改造」と呼ばれる思想教育を受けた人々に限られている。彼らは中国帰還者連絡会に属し、日本軍の蛮行を告白する証言や書籍を出しているが、内容がデタラメであった為に絶版に追いやられた「三光」(1957 年発行)のケースのように、明らかに虚言を行っている。
参考)田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」』 自由社 (2002/12)
F日本の習慣上、有り得ない
日本には、死者は敵味方を問わず弔う習慣がある。近代以降は、罪人の死体も大切にされるようになった。中国人であろうと、その死体を無残に遺棄するなど、日本の習慣上、有り得ない。
1938 年、山東戦線の彰徳で行われた日本軍による慰霊祭。
墓標には「中国無名戦士の墓」と書いてある。
敵味方を問わずに死者を弔うのが日本の伝統である。
北京郊外の中国戦死者墓地に参拝する日本軍将兵(1938年3月)
G本多勝一は、偽日本人
本多勝一は「日本人として責任を取らねばならない」と、日本の戦犯を告発しているが、彼は日本人ではなく、朴慶植と同じく在日コリア(本名、崔 泰英)。
彼は、「中国の旅」の内容のとんでもさを批判された際、自らは裏付けを取らずに、中国当局の主張を鵜呑みにしただけである事を認めている。




4.証言の強要と蛇頭の圧力


蛇頭が関わっていると指摘される花岡事件
花岡事件の裏側
これは戦時中、秋田県花岡鉱山に強制連行され、強制労働を強いられた986 人の中国人が、虐待に耐えかねて蜂起したが為に、418 人が殺された事件。
野添憲治なる人物が、この事件を詳細に調査し、真実を突き止めたといわれる。
しかし、この事件の真相を知る秋田県在住の人々によって、過去、web 上に幾つかの告発サイトが作られていた。
彼らの証言をまとめると以下のようなものである。

@野添憲治の調査は捏造。彼はおそらく帰化した中国人。
A労働者は、強制連行ではなく、自ら日本での就労を希望してきた人々。
B 大量の中国人の来日により、治安が悪化した(幼女への集団強姦等が発生した)為、地元では、彼らの強制送還を望んでいた。
C 彼らはまともに働かず、鉱山の最深部で働いていたのは日本人だった。
D 中国人が坑道を爆破させてしまった為、作業は半年で中断してしまった。その爆破の際、五十人の日本人が生き埋めになった。
E 脱走し、14 年間山中に隠れていた欧陽文彬こそが、その犯人。
F わずか半年で強制送還の動きが起きたが、中国人はこれに抵抗し、秋田県の土崎港、山形の酒田、新潟の港の三つだけでも、七隻の船が沈められた。
G 足かせを付けられた中国人の写真は、強制送還する際、下船の途中で中国人が逃げ出すのを防ぐ為のものであり、強制連行の時のものではない。
H 港湾資料館や花岡鉱山資料館にあった関連資料は、日本人が焼却したのではない。中国人によって三度以上に渡って盗難・放火されて消失した。
I 現地は、チェンジュドウ(通称「珍田の大親父」等)という人物を中心に、「三金会」「千鶏会」「十四金」「麝香」「新義安」等の、炭坑労働者を起源とする蛇頭(チャイニーズマフィア)が牛耳っている。この事件は、彼らによって捏造された。
J 地元の旧日本軍少佐・角倉吉蔵は、彼らに殺された。
K 彼らの圧力により、花岡事件の真実を語る事がタブーになっている。

信憑性
上記の証言は、秋田県民によって“ネット上で語られていた話”である。しかし、その告発サイトの多くは2003 年頃に全て閉鎖し、管理人やその関係者の消息も途絶えてしまっている。

「組織犯罪対策法と蛇頭の本当の姿」(閉鎖したweb サイトの一つ)
http://www2.justnet.ne.jp/~pigeon/htm1.htm

ゆえに、この件は、専門家による今後の裏付け調査を期待するより他無い。しかし、@〜Cは、十分に有り得る話である。
既に朴慶植(在日コリア)による“前例”がある事を考えれば、在日中国人による同様の捏造があっても不思議ではない。
自ら日本での就労を希望したという話も、大量の中国人・韓国人による不法入国は、既に当時からあった問題である事を考えると、十分に納得できる事だ。(経済力の高い国に、就労を希望する傾向は、今も昔も、どこの国でも変わらない)
しかも、前述の崔基鎬の証言とも一致する。
中国人の来日で治安が悪化し、強制送還の声が上がっていたという話も、今の日本でも同じ事が起きている為、納得できる話である。
そして、中国人は日本人に比べて勤勉に欠けるという話は、中国人自身が認めている事だ。
D〜Kの真偽の程は分からないが、前述の通り、強制連行や虐待の話が歪曲であった事を考えると、“中国人に対してだけ、強制連行・強制労働・虐待が起きていた”という話は実に妙である。


偽加害証言の例

日垣 隆

(1958 年7 月30 日生まれ)
ノンフィクションライター。
2004 年、新潮ドキュメント賞受賞
日垣隆『偽善系 やつらはヘンだ!』 文芸春 2000 年 182 頁

今から三年ほど前、韓国の国営放送局ディレクターが私をインタヴューしたおり、「松代大本営の建設現場で韓国人は戦争が終わってからも日本人に銃殺された、と証言してほしい」と執拗に迫られたことがある。
私は証言できる立場にはないし、しかも何より「戦争が終わってからも銃殺された」のは事実ではない、そんなことがもし万一あったら国際的な大スキャンダルだ、と私は説明した。
しかし韓国人ディレクター氏は、「韓国人がここで虐げられたことは事実なのだから、その象徴としてぜひ戦後の銃殺のことに触れてほしい」と繰り返し、ついに、どこから見つけだしてきたのか地元の研究者に「そのこと」を番組のなかで、“証言”させていた。

*我々は、「日本人が、日本が不利になるような偽証言をするはずが無い」と思い込みがちである。しかし、日本には、在日コリア系暴力団や蛇頭(チャイニーズマフィア)という圧力団体がある事を忘れてはならない。



台湾人少年工たち



中国人と全く異なる証言をする台湾人たち
黄 文雄
(1938 年生まれ)
台湾高雄州岡山郡(現在の高雄県岡山鎮)出身の評論家。
1964 年に留学のため来日。
拓殖大学日本文化研究所客員教授。台湾独立建国連盟日本
本部委員長。維新政党・新風講師。
1994 年に、台湾ペングラフ賞を受賞。
『韓国人の「反日」 台湾人の「親日」』 黄文雄 1999 光文社

第二次大戦末期に、台湾からも多くの少年工が来日している。しかし、彼らは「強制連行」ではなく、厳しい選考をへて、来日が許可されたのだった。
「強制連行」については、台湾人の子供まで連行され、海軍飛行場の建設工場で、酷使され、息を引き取ったと韓国有力紙に報道されたこともある。
(中略)

高座海軍工廠合格児童 1943 年(昭和18 年)3 月

「東亜日報」(91 年10 月23日付)は、「神奈川県で12から18 歳の台湾少年工8000 名が、軍需工場で強制労働させられていたことが明らかになった。しかし、8歳の少年強制労働と火葬というのは、ひょっとすると日本全国で初めて確認されたことではないだろうか」と日本の大学教授の発言を引用して報道している。
(中略)
じつは、台湾少年工についての歴史捏造と歪曲ほどひどいものはない。
戦争末期、台湾から日本に来た8000 名の台湾少年工は、主に名古屋、大和市、群馬県の戦闘機工場で働いた。彼らは「強制連行」ではなく、厳しい筆記試験に合格、さらに身体検査にも合格、校長と両親の許可を得て来日したものであった。「強制連行」どころか、現在でいえば「東大入試」の狭き門をパスした誇りある少年たちである。私が直接彼らから聞いたところでは、「隼」以外に「ゼロ戦」をつくったという人もいた。
彼らは現在「高座会」をつくり、生存者は70 歳前後になっているものの、なおも5000 人以上の会員を有している。会誌も発行されている。十数歳の台湾少年工の作詞、作曲した会歌は、日本の寮歌に似ていて、合唱するとじつに感動的である。彼らは日本人の友人との絆が強く、94 年の大和市の大会では、2000 人以上の会員が台湾から来日し、大和市は、交通大渋滞となるほどであった。
当時、日本のマスコミは、彼らを「強制連行」と報道したため、自尊心を傷つけられ、会長が会員全員を引き連れ、新聞社へ抗議に行くという話もあったほどだ。

戦争末期の米軍空襲下でともに働いてきた台湾人と日本人は、上官と部下の関係のみでなく、その絆もなかなかに強い。私は台湾から来た昔の少年兵を連れ、かつての日本人仲間の病気見舞いや、老後の不遇者の生活の面倒に奔走する戦友を案内したこともあった。
日帝の「暴挙」ばかりを追及してきた韓国人には、日本国民として育てられ、ともに国家の存亡をかけた情熱と戦友としての絆は理解できないだろう。この5000人以上の証人について、日本人ももっと「歴史」を勉強する必要があるのではないだろうか。

台 湾 亭
元台湾少年工たちが、「第2の故郷の地に平和と友好のシンボルを」と、1997 年に寄贈
台湾戦没少年の慰霊碑
工場で死亡した台湾少年工の為に建てられた慰霊碑。「万人坑」に捨てられた者など、一人もいない。
参考サイト
やまとバーチャル平和祈念館
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/koucho/virtual/index/index.htm
*「強制連行された」と主張して賠償金を要求するよりも、正直さを選んだ彼らに、我々は感謝せずにはいられない。



東南アジアでの強制連行



インドネシアで、でっち上げられていた労働者虐殺事件
インドネシア
平成8 年(1996)12 月17 日 産経新聞

“十年一昔”からいえば五十年は、若い人たちにとって気が遠くなるほどの時間かもしれない。たとえば日本とインドネシアの間でも、その遠い昔の“誤った史実”が大手を振ってまかり通りつつあるという
▼かつて駐ジャカルタの新聞特派員だった加藤裕氏(六五)が自費出版で『こだわりのインドネシア』という本を出した。そのなかで戦時中の“遺跡”が「日本の穴」という名の観光名所にされ、いわれもない日本軍の残虐行為を宣伝していると指摘している
▼ 加藤さんによると、西スマトラにブキチンギという高原の町がある。日本の第二十五軍司令部のあった町だが、昭和六十一年からインドネシア文部省が「日本の穴」を観光客に一般公開した。この穴で三千人のロームシャ(労務者)を虐殺したというものだった
▼穴は防空壕として掘ったが、機密保持のため全員が殺されたというのである。穴の入り口には銃剣をもった日本兵が人びとを脅しているレリーフがあり、見学した日本のインドネシア学者までが「まさに地獄に直結した穴」(昭和六十一年、北海道新聞)と書いていたという
▼ ところが加藤さんや、旧「スマトラ新聞」記者だった菊地秀広氏(元北海道新聞論説委員)が調査してみると、全くの事実無根。穴を掘った第二十五軍の直接の責任者などの証言で、工事中は一人の死傷者もなく、労務者にはきちんと日当が支払われていた…
▼加藤さんはいま対イ・ボランティア活動をしているが、力をこめてこう訴える。「日本の戦後世代が戦争中の東南アジアの歴史について教育されてないのと別な意味で、インドネシアの誤った史実による歴史教育は弊害を生みます」と。

観光名所となっている防空壕跡


中村 粲
(1934 年4 月24 日生まれ)
東京都出身の歴史学者・英文学者。獨協大学名誉教授。
代表作『大東亜戦争への道』は、大東亜戦争肯定論支持者の間では、特に重要な書籍と位置づけられている。
1995 年、『東京裁判却下未提出辯護側資料』(東京裁判資料刊行會編、全8巻)を共同編集し刊行、第43 回菊池寛賞を受賞。
国際新聞社 中村粲インドネシア使節団 「日本の穴」実地検証
http://www.kokusaipress.info/

【ルイス氏の証言】
ブキティンギとは現地語で「高い丘」という意味だが、その名の通り、この辺りは軽井沢のような高原地帯だ。
この洞窟に通じる細い道は観光名所らしく土産物店が軒を連ねている。
その道路で一人の老人と出会った。老人はたまたま此処を訪れたようだが、わたしたち日本人団体を見つけると、興奮して誰彼かまわず片言の日本語で語りかけてきた。
この老人の名前はルイス。「たくさんの日本人に会えて嬉しい」「日本軍のおかげでインドネシアは独立できた」と大変な喜びようだった。回りにいるたくさんの現地の子供たちにも、「お前たちは知らないだろう。よく聞け、我々インドネシアが独立できたのは、日本軍がオランダ軍を追い出したからだ。我々インドネシア人はオランダ軍に歯がたたなかったのだ。日本人が戦争を始めなかったら、インドネシアはオランダの殖民地のままだった。日本軍に感謝しなければならない」とも話していた。

以下は中村粲先生とルイス氏の一問一答。

中村「日本人はいい人でしたか。インドネシア人を殺しましたか」
ルイス「日本人はいい人でした。ここには温泉があるから、日本人(軍人、軍属)がよく来ました。日本人は人間の首を切って(ポットン)はません。木はたくさんポットンしたが、人間の首はポットンしません

中村「苦力(労務者)はどこから連れてきましたか」
ルイス「1944 から1945 年にかけてこの辺りは防空壕に適しているので、空襲が激しくなってから防空壕を造りました。防空壕を造るため、大勢の苦力がジャワから来ました。日本軍は仕事を規則正しく進めるから「勘弁して下さい」と言って、帰った苦力もいましたが、すぐ新しい苦力が来ました。そういうのを「強制」というなら強制したことになるでしょう。しかし、日本軍は十分に月給を払っていました

中村「日本に苦力を殺したという学者がいますが、本当に殺したんですか」
ルイス「さっきから何度も言うように、日本兵は木をたくさんポットンしたが、人間の首はポットンしません」

中村「この洞窟は何ですか」
ルイス「飛行機の部品や錫やコメやガソリンの倉庫でした。聞くところによると、日本海軍は、太平洋の島々にたくさん地下壕を造ったそうで、壕内に工場もあったそうです。ブキティンギにはスマトラ派遣軍(第二十五軍)の総司令部があります。空襲が激しくなったから、防空壕も倉庫も小さな工場も必要になりました。もし、日本軍が勝っていれば、この辺は倉庫街や工場群になったそうです」

中村「原爆投下と日本の敗戦については?」
ルイス「広島や長崎に原爆が落とされたと聞きました。女子供や老人までたくさん死んだと聞き、泣きました。日本人が可愛そうです。詳しいことは分かりませんが、余りにも酷いから、天皇の裕仁は戦争を止めたのでしょう」

中村「日本軍とオランダの政治はどう思うか」
ルイス「インドネシアはオランダが三百五十年、日本軍が三年半占領しました。過ぎ去ってみれば同じです。今は経済が向上しました。ハビビ時代になって自由に発言できるようになりました。もう一ぺん申し上げますが、もし、日本軍がオランダを追放しなかったらインドネシアはオランダの殖民地でした。ですから、日本軍の良いところはPETA(義勇軍)を創設し、わたしたちに軍事訓練をしてくれたことです。オランダ軍はしてくれませんでした」

中村「お元気ですね。貴方の名前は?ご家族のことを聞かせてください」
ルイス「名前はルイスです。中部スマトラのブキティンギ生まれです。わたしは政治に関係しませんから、政党にも入りません。しかし、生まれた時からイスラム教徒です。一九一二年生まれの八十七才です。生まれた月と日は忘れました。父は九十二才で死にました。兄弟九人で子供も九人います。息子が五人、娘が四人です。孫は二十四人います。曾孫が四人います。日本時代、わたしは三十代でした。もし、神戸にいらっしゃることがあったら石川さんによろしくお伝え下さい。石川さんはわたしを使ってくれた方です。もう亡くなったでしょうか。神戸に住んでいるそうで、技術者でした。わたしたちは「イシカワサン」と呼んでいました。わたしは鶏飼育のマンドール(人夫頭)を命じられました。部下は二十名でした。わたしのようなマンドールは何人もいました」

中村「(独力での)オランダ軍の追放は不可能だったのですか」
ルイス「不可能です。日本軍がオランダ軍を追い出さなかったら、インドネシアは独立できなかった。聞くところによると、シンガポール攻略戦はなかなかの激戦で、日本兵もイギリス兵もたくさん死んだそうです。イギリス人は「シンガポール要塞はアジアで最強」と自慢していました。オランダ人は「シンガポールのイギリス軍が日本軍にやられるはずがない」と豪語していましたが、海外放送で「陥落した」と知った途端にオランダ人は消えました。ある朝、たしか、一月二十六日です。村の衆が「オランダ人がいない」と叫んでいるから、オランダ人の大邸宅に行ったら一人もいません。それからしばらくして、日本の兵隊がチョコチョコと現れました」

中村「日本軍の待遇はどうでした」
ルイス「月給はちゃんとくれました。コメはいっぱいくれました。日本軍が払わなかったことは絶対にありません。何でも余計にくれました。卵も野菜も油(食用)も砂糖も日用品もくれました。でも、戦争は嫌いです。いかに短い戦争でも市場に物が無くなるし、町に職場も無くなりました。毎日の生活に困る人が出ました。しかし、日本軍は法務官も警察官も刑事も連れてきました」

中村「日本軍に規律の乱れはありましたか?」
ルイス「もちろんです。日本人にも悪いことをする人はいたが、日本軍は不正を許しません。例えば、我々がかっぱらいをすれば、ぶん殴られて半死半生になりました。しかし、日本の憲兵は厳しいから、日本人であっても許しません。日本兵が我々の目の前でぶん殴られることは度々でした。」

中村「何のために地下壕を造ったのですか」
ルイス「さっきも申し上げたように倉庫です。計画の一パーセントも出来ないうちに戦争が終わりました。連続的に大空襲に遭っても大丈夫な大計画でした。地下壕に工場も造る予定でした」

★注第十六軍今村大将の造ったラバウルの地下壕は、地下十二階まであり、工場では簡単な武器も製造していた。

中村「三千人も殺されたという話はどうですか」
ルイス「一人も殺されていません。ここで生まれ、ここで育ち、ここ(貨物廠)で勤務していたわたしが言うんですから間違いありません。三千人殺されたという話は信じません。軍の通訳に韓国人がいて、日本人のように親切で何でも教えてくれましたが、そんな話をしていません




留意点



戦後問題となった軍票

武家が誕生した12 世紀以降の日本では、民衆に労働を課す際は、公民・被支配民を問わず、「食い料(くいりょう)」といって賃金を支払う習慣が確立していた。
戦前も同様であり、日本軍は現地人に無償奉仕を要求せず、軍票で賃金を支払っていた。
軍票は、占領地の物資調達・産業開発の目的の他、日本銀行券移行の準備紙幣として発行された紙幣である。
しかし、これらの紙幣は、日本の敗戦と共に価値を失ってしまった。

中国戦線で使用された軍票の一つ
南方戦線で使用された軍票の一つ


捕虜・労働者虐待

日本は労働者を公募し、賃金を支払っていた。しかし、朝鮮人憲兵や朝鮮人通訳によって、一部…特に捕虜の労働者に対して虐待があった事は事実である。
これは日本側の公文章にも“はっきり”と記録されている。

『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.220
昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。
(中略)
東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。
参考)ファイル『日本の朝鮮統治1』の「日本の権威を悪用した朝鮮人」の「3.日本軍の規律を低下させた朝鮮人志願兵」「4.朝鮮人による、現地人への横暴と捕虜虐待」
* 戦後、軍票の換金を求める訴訟や捕虜虐待への批判がたびたび起きているように、日本は、中国・韓国・南方諸国が捏造・歪曲したものを除いても、実際に汚点を残してしまっている事を忘れてはならない。


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