在日コリア差別の由来




朝鮮学校生への暴力事件を批判するコリア 2002年度、東京朝鮮中高級学校卒業式

1.在日コリアの来歴
2.三国人発言の由来
3.在日コリアの負の歴史
4.在日コリアの特権
5.武装解除した新在日


在日コリアの来歴


1.強制連行説の嘘


参考)「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
年代 法令 日本・台湾 朝鮮
1938年 国家総動員法
(国民徴用令は1939年)が成立

15〜45歳までの男子、
16〜25歳までの女子が徴用
徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される
1942年 人手不足により、
「官斡旋」による募集が始まる

既に徴用済み 日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。
1944年 朝鮮に初めて徴用令発布
(実質、六ヶ月間で終了)
既に徴用済み 本人の意志を優先した為、達成率は79%に留まる。
注釈)強制連行は徴用の歪曲であり、その徴用も朝鮮人には中々課されなかった。
なお、徴用で来日し、残留した朝鮮人はわずか245 人。出典)朝日新聞1959 年7 月13日付



2.土地収奪による移民説の嘘(本当の来歴)




米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授

戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める 同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。
日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。



三国人発言の由来


1.三国人は何をしたのか?


石原都知事の三国人発言の真意
2000年07月29日、政治団体・日本会議事務局の草野氏がHPに掲載した取材記録
この元記事を調査した所、漁火新聞の北斗星欄に記載された取材録である事が分かりました。
同社に、原文の提供をお願いしたところ、残念ながら古い記事である為にデータに残っていないというご回答を頂きました。
当時の漁火新聞を所持されている方は、提供していただければ幸いです。

第三国人の暴行

表題の件について既に一通り書き終えたつもりであったが、本日郷土、城東葛飾にたまたまいたところ、偶々老人達が本件を論じていた。中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力ありしゆえ、帰宅早々記憶により再現し、ここに記して御歴々の御参考にしようとするものである。


--- 録取者 北斗星 ---


終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買へなかったが。
そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。そりゃ儲かるだろう。取締を横目に犯罪のし放題。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。
当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪うのだから。それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。
警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。
(録取者註 当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした)

東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。
当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。
そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。
かくて南関東から、牛はいなくなった。
家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。
その最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。
翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追い立てた。
それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。孫共はこれを知らんのだろう。

直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。
それでも警察は手が出せなかった。歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと、敗戦は悲しからずや。

たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。
最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。


それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。
この時、連合軍総司令官ダグラス・マックアーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」
と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
だから、外国人差別用語なはずは無い。彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。

連合国軍総司令官は日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。
「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。

近頃の報道人は歳も若く、当時の経緯や語感が全然判らないのだろう。知合いの報道人幾人かに電話して、テレビにでも新聞にでも出て歴史の真実を話して進ぜよう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった。真面目に報道する気は無いのかの。
貴公、パソコン通信をやってなさるそうじゃが、インターネットとやらは随分と情報を発信できて、幾百万の人が見ると聞く。一つ満天下の正義の為に、今の話を発信して下さらんか。



当時の在日コリアの検挙率の異常な高さ
「在日朝鮮人に関する総合調査研究」 朴在一 新紀元社 1957年

15〜59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう。




2.戦後七年間の間に起きた在日コリアの集団犯罪
(襲撃・暴動への参加者、延べ
三万人余り。検挙者延べ三千人余り)



(0000)は、コリアの(およその参加者数逮捕・検挙者数)
1945年10月22日 大阿仁村事件
(
52)
1951年12月1日 東成警察署催涙ガス投擲事件
(
303)
1945年12月24日〜1946年1月9日 生田警察署襲撃事件
(
903
1951年12月3〜11日 半田・一宮事件
(
32027)
1945年12月29日 直江津駅リンチ殺人事件
(
3)
1951年12月16日 軍需品製造工場襲撃事件
(
110)
1946年1月3日 富坂警察署襲撃事件
(
)
1951年12月18日 日野事件
(
5035)
1946年5月13日 長崎警察署襲撃事件
(
12660)
1952年2月21〜23日 木造地区警察署襲撃事件
(
702)
1946年8月5日 富山駅前派出所襲撃事件
(
30)
1952年2月28日 姫路事件
(
7021)
1946年9月22日 坂町事件
(
6514)
1952年3月1日 八坂神社事件
(
706)
1946年9月26日〜29日 新潟日報社襲撃事件
(
)
1952年3月13日 宇治事件
(
156)
1946年12月20日 首相官邸デモ事件
(
200015)
1952年3月26〜30日 多奈川町事件
(
50027)
1947年10月20日 尾花沢派出所襲撃事件
(
3729)
1952年4月19日 田川事件
(
)
1948年4月23〜25日 阪神教育事件
(
70001800)
1952年4月24日〜5月30日 岡山事件
(
100016)
1948年10月11〜12日 評定河原事件
(
6)
1952年5月1日 血のメーデー事件
(
5000131)
1948年12月9日 宇部事件
(
200)
1952年5月8日 上郡事件
(
8)
1949年1月25日 益田事件
(
30057)
1952年5月12〜25日、11月9〜12日 大村収容所脱走企図事件
(
5024)
1949年4月6〜13日 枝川事件
(
509)
1952年5月13日 広島地裁事件
(
200)
1949年4月7〜11日 高田ドブロク事件
(
70017)
1952年5月26日 高田派出所襲撃事件
(数十/
31)
1949年6月2〜11日 本郷村事件
(
200)
1952年5月31日 奈良警察官宅襲撃事件
(
10)
1949年8月20日 下関事件
(
200200)
1952年5月31日〜6月5日 万来町事件
(
500)
1950年3月20日 台東会館事件
(
400120)
1952年6月10日 島津三条工場事件
(
150)
1950年8月15日 連島町事件
(
7008)
1952年6月13日 醒ヶ井村事件
(
46)
1950年11月20〜27日 第二神戸事件
(
1200214)
1952年6月24日 葺合・長田事件
(
30013)
1951年1月23日 四日市事件
(
2015)
1952年6月24〜25日 吹田・枚方事件
(
1109113)
1951年3月7日 王子事件
(
17008)
1952年6月25日 新宿駅事件
(
3000)
1951年6月13日 神奈川事件
(
50028)
1952年7月7日 大須事件
(
1000145)
1951年10月22日 下里村役場事件
(
20015)
1952年7月8日 舞鶴事件
(
20020)
1951年11月21日 福岡事件
(
150021)
1952年11月19〜26日 五所川原税務署襲撃事件
(
60)


上記事件の一例(直江津駅リンチ殺人事件)

信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。

参考サイト
秋津嶋案内所
http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/index.html


在日コリアの負の歴史


1.関東大震災、朝鮮人虐殺の誇張と歪曲


在日コリアの主張「混乱の中、朝鮮人六千名が、日本の警察・軍隊・自警団に虐殺された」
真 実 朝鮮人 中国人 朝鮮人と間違われた日本人
内務省警保局調査 死者231重軽傷43 死者3 死者59負傷者43
司法省の調査書 死者233重傷15軽傷27 死者3重傷5 死者58重傷13軽傷18
軍隊の振る舞い 陸軍戒厳司令部将兵は朝鮮人の保護に乗り出している
警察の振る舞い 暴行を働いた日本人を逮捕している(起訴された日本人362)


酷似するロサンゼルス暴動(1992年)におけるコリアンタウン襲撃事件。
(襲撃を受けた日本商店はわずか一件。しかもコリアと間違われただけだった)

「コリアンはなぜ嫌われたのか  ロス暴動と核疑惑の狭間」
高浜 賛(読売新聞調査研究本部主任研究員)『THIS IS 読売』(1992年8月号)
韓国人は何故襲撃されたのか?

黒人新聞「マネー・トークス・ニューズ」「韓国人は下劣・貪欲・傲慢・差別主義」
上記新聞は、「生まれてこの方、韓国人ほど冷酷で愚劣で無分別で、しかも侮辱的で傲慢な人間に会ったことはない」とまで書き、同じく黒人新聞の「ザ・ロサンゼルス・センチネル」は韓国人の貪欲さ、社会的貢献ゼロ、働き過ぎ、黒人蔑視を手厳しく批判。
また黒人学生を対象に行ったある世論調査では、「韓国人は最も距離を置いた人種」との結果が出ている。

一見したところ日本人だか韓国人だか見分けがつくと思えないのに、黒人社会でははっきりと日本人と韓国人を区別し、対応を変えていたという黒人側の証言もある。

かつてカーター政権下で厚生教育長官の特別補佐官を努め、また米国進出の韓国企業を顧客に法律事務を担当した経験もあるM・カルフーン博士(現在日本で日本社会について研究中)は、「日本人と韓国人はまったく似て非なる人種。韓国人は妥協するとか、相手の意見を聞こうとかしない点で日本人とは大違いだった」と指摘している。


*関東大震災当時は、震災以前から朝鮮人による治安の悪化が起きていた。





2.在日コリアと愚連隊



戦後、朝鮮人は、愚連隊と呼ばれる暴力組織を結成した。
1946年11月、日本警察はGHQから取り締まりの許可を得ると、地元ヤクザと手を組み、この鎮圧に当たった。
日本最大の暴力団・山口組は、元は愚連隊から庶民を守る為に組織された自警団である。


「山口組三代目 田岡一雄自伝」2006年 徳間書店 149~150頁
山口組を日本最大の組織に変えた田岡一雄

彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、 無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。
こういった不良分子は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
(略)
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の男たちだった。

*元は、博徒や的屋(テキヤ)に過ぎなかった日本ヤクザは、朝鮮人との抗争を経て団結と統合を繰り返し、巨大組織へと発展したのである。



3、愚連隊の暴力団化(就職差別が原因でヤクザに陥った説のうそ)



在日コリアのヤクザ世界への進出
別冊宝島「マンガ 嫌韓流の真実!<韓国/半島タブー>超入門」
ヤクザ&右翼と在日韓国・朝鮮人 鈴木智彦(フリーライター)

社会が落ち着きを取り戻し始め、「三国人」特権が薄くなると、外国籍アウトローは表と裏に進路を分けた。中でも韓国・朝鮮系アウトローは古典的ヤクザ団体と反目しながら沢山の愚連隊組織を立ち上げている。戦後の大阪・ミナミを荒らし回った甲山五郎(日本名)の明友会はその代表格だ。
だか血の結びつきを力とする韓国・朝鮮系愚連隊とぶつかったのはヤクザ団体に加盟した同胞たちだった。明友会は後に山口組の大阪進出のダシにされ、壊滅させられたが、その一端を担ったのは柳川組という在日韓国・朝鮮人主体の組織である。



最も恐れられた在日コリア
柳川次郎(梁 元錫)1923〜1991年
1923年釜山生まれ。1930年に家族と共に来日。
終戦後、愚連隊に参加。1946年闇市でトラブルを起こし強盗罪で1952年まで服役。出所後、柳川一派を形成。
1958年、わずか8人で鬼頭組(百人)を襲撃し逮捕。9ヶ月の服役後、1958年11月、大阪市北区堂山で柳川組を新たに創設。
1959年6月、山口組若頭の地道行雄と杯を交わして舎弟へ。
明友会との抗争で活躍し、1960年12月13日山口組創立記念日に、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参となる。以降、「殺しの柳川」と異名を取り、山口組の尖兵として活躍。
「通れるだけの道を開けてもらえますか、そうでなければ大きな岩を動かしますよ」
大山倍達(崔永宜)の極真会館(空手)と交流を持った他、柳川組の解散後は、右翼団体・亜細亜民族同盟を結成。(在日暴力団の右翼進出は、右翼の大ボス・児玉 誉士夫の働きかけによる)



ヤクザ世界における在日コリアの割合
ルポライター小板橋二郎の論考「在日ニューヒーローに感じる新しい風」
 (講談社『現代』2001年1月号 211頁)

「平成4年の暴対法施行以降、指定暴力団組長に在日コリアンが何人いるかを警察庁の発表資料で調べてみると、累計(平成5〜12年)三三団体のうち七団体がそのトップに在日コリアンをいただいている。…
三三団体中七団体なら比率で21%をこえる。少々単純すぎる試算ではあるが、在日の対総人口比0.45%を基準にすればその数はざっと四七倍。この世界での在日の活躍ぶりは日本人平均の五〇倍近いことになる。」







4.暴力革命に積極的に関わっていた在日コリア


1946年2月、金天海日本共産党中央委員が、その機関誌「前衛」第1号で「在日コリアは日本に定住し、革命に参加せよ」と扇動した事を契機に、在日コリアによる反日左翼活動・暴力革命が勃発し始める。



常に先頭に立っていた在日コリア
「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 姜在彦 1989年 神戸学生青年センター出版部

(前略)
このような在日朝鮮人の動きがあった一方で、1951年10月、日本共産党は第五次全国協議会を開き、軍事方針を決定することになります。これにより、朝鮮人の祖防委と日本共産党中核自衛隊で、パルチザン闘争を準備することとなります。
それ以降、大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。
今でもあの時の写真を見てごらんなさい。先頭に共和国(朝鮮民主主義人民共和国)の旗が翻っています。警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。それから名古屋の大須事件ですね。これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。



「大阪の一隅に生きて七十年―私の総括―」上田等(創生社 2002年11月)73頁

吹田操車場へ乱入デモをし、岸部から国道を吹田に向かっていたとき、デモ隊の後方からウィポン車に乗った茨木警察の一隊がデモ隊を追い越して先頭に出ようとした。これに対して火炎びんで攻撃を加えた。警官は車から転げ落ち、田植えをしたばかりの田圃に逃げ込んだ。火傷した警官が逃げられずに路上に転がっている。デモ隊はそれを竹槍で突こうとした。隊長だった私はそれを止めた。日本人は止めた。朝鮮人は何を言うか、やってしまえと、ピストルも全部奪ってしまった。
 
日本人は巡査をやっつけろと火炎びんを投げたけど、殺す気はなかったから、無抵抗になった奴を竹槍で突くことはできなかった。朝鮮人は突いた。止めたら日本人は言うことを聞いたが、朝鮮人は怒った。その差がいまだに分からない。民族が違うからか。私の思想が中途半端なのか。殺してしまってもよいという所までになっていないことは事実だ。ビビった。その差というのが、いまだに分からない。
 朝鮮人教育闘争のときにも、南警察署だったか税務署だったかを襲撃した。あのときも、日本人は勝ったらそれで終わったが、朝鮮人は頭を割るところまでいく。そのときもビビった。





5.反社会的な経緯を持つ朝鮮人学校


戦後、日本の公立学校や土地を不法占拠して開校された朝鮮人学校(*全てではない)
『大阪連絡調整事務局 昭和二十三年四月 “執務月報”第二号』
『大阪市史史料第十四輯 占領下の大阪』(大阪市史編纂所 昭和60年1月)15頁

「一月廿四日附の文部省の“朝鮮人設立学校の取扱”に対する指示があったので、この問題に関し大阪府教育部は軍政部係官と協議の結果、軍政部側では
日本人関係学校の建築物を利用している朝鮮人学校は即時閉鎖を命じる‥‥
 大阪府としては、三月十六日附で大阪市及府下の関係係官に対し各公立中小学校の校舎を朝鮮人学校へ貸与する新契約及再契約又は契約期間の延長は認めない様手配方指示を出したが、さらに二十三日附で大阪市内朝鮮師範学校、大阪府下西能勢及多奈川朝鮮初等学校に対し三十一日限り閉鎖方を勧告した。‥‥
 軍政部側としては絶対に閉鎖せしめるとの意向である。」




70年代、日本学校の多くを暴力で屈服させ、不良ブーム(学校の荒廃化)を引き起こした朝鮮人高校。
(関東では、国士舘のみが対抗できていた)
『「歴史と国家」と雑考』http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/index.html
第15題 朝高生を襲撃する「右翼的」高校生(*題名で誤解されないように)

七〇年代後半の東京における朝高生と国士舘高校生との抗争はすさまじく、新聞にも報道されたことがあった。国士舘という右翼的体質からして朝鮮への敵対・差別感情があって朝高生を襲撃し、対して朝高生が自衛したのだと解説する人がいたが、実態はそんなに単純なものではなかった。
東京にいた人の話では、
朝高生のゴンタクレの戦闘力にはすごいものがあり、ほぼ東京中の高校を陥落させ、唯一これに対抗できたのが国士舘高校のゴンタクレだったというのである。朝高生のゴンタクレは、ゴンタクレ同士のケンカだけでなく、山の手線の車両を占拠して、誰も入らせないよう見張りを出し、中で飲酒・タバコ・博打をするという傍若無人な振舞いを繰り返し、また日本の高校の一般生徒へ暴行・恐喝をも引き起こした。日本の高校のゴンタクレも朝鮮高校の一般生徒への襲撃を行ない、朝高のバッジをどれだけ奪ったかを自慢の種としたという。
こういった類の話は東京だけでなく、規模は小さいが大阪でも神戸でも起こっている。
朝高のゴンタクレから恐喝を受けた日本の高校生の朝鮮人への悪感情は、体験に基づくものだけに非常に強固なものがあり、十数年たって三十代になってもその感情は消えていない。私の周辺でもこの体験を語る人が意外と多い。おそらく、死ぬまで悪感情は消えず、こそこそと差別発言を繰り返していくことであろう。





6.差別と戦った英雄・金嬉老の実態



ヤクザ(柳川組組員)を殺害後、温泉宿の宿泊客を人質に取って「差別されたから犯罪を起こした」と世間に訴えた在日コリアの正体
完全図解『実力!刑務所の中』 坂本敏夫 2002年 二見書房 72頁

四月に福岡刑務所で、金嬉老に対する不当処遇が発覚した。
それまで刑務所を無法地帯にする不当処遇は、地元暴力団の圧力に屈した結果として起こるものと考えられていたのだが、たったひとりの被告人にかきまわされた衝撃はきわめて大きかった。
金の居室は女区の雑居房があてがわれた。

房内にはラジオにカメラ、キッチンセットまで備えられ、隣室の女囚とは行き来が自由。金の手料理や店屋物を出前させては会食し、男女の営みまでが可能な状況だった。
公表はされていないが、いい女が入所すると睡眠薬を混入させた店屋物を食べさせ、
レイプまでしていたというのだから、やりたい放題のハーレムだったのである。



平成11年9月7日、仮出所。韓国の地で既婚女性と不倫関係に陥り、平成12年9月3日、その夫を襲撃。

webサイト KoreaNavi-ニュース http://www.koreanavi.com/
★<社会>金嬉老氏に性格障害者の判定下る

内縁関係にあった女性の夫を凶器で殺害しようとした疑いで逮捕された金嬉老(=権嬉老)容疑者に、長期間の受刑生活による「性格障害者」の判定が下された。
先月末から金容疑者の精密精神鑑定を行ってきた公州監護所(忠清南道)は25日、金容疑者は幼少時から人格障害の要素があった上、長期にわたる受刑生活で生じた合併症と韓日両国の文化的な違い、韓国語を十分に理解できないストレスなどが重なり、性格障害が現れたと釜山地検に報告した。
また金容疑者は物事の識別や意思決定の能力が低いため、衝動犯行に至った疑いが強いとし、今後も同様の状況になれば再犯の恐れもあると判定した。これを受けた検察は同日、金容疑者を起訴する一方で、担当裁判所に治療監護を要請した。
金容疑者は6月から内縁関係にあった女性と2人が密会していることに気づいた夫の殺害を計画、先月3日に男性の自宅に乗り込んで凶器を振り回した後、放火した疑いで逮捕されている。






7.今もなお、異常に高い在日コリアの犯罪率


韓国人窃盗団が日本に上陸する以前から、高い犯罪率を維持してきた在日コリア
年度 外国人検挙総人数 韓国人検挙人数 国籍別の検挙順位
平成14年 16212人 1738人(10.7%) 2位
平成13年 14660人 1746人(11.9%) 2位
平成12年 12711人 1627人(12.8%) 2位
平成11年 13436人 2038人(15.2%) 2位
平成10年 13418人 1677人(12.5%) 2位
平成09年 13883人 1426人(10.3%) 2位
平成08年 11949人 1470人(12.3%) 2位
平成07年 11976人 1263人(10.5%) 2位
平成06年 13576人 1303人(09.6%) 4位
平成05年 12467人 1451人(11.6%) 3位
平成04年 04759人 0876人(17.0%) 2位
平成03年 04813人 0728人(27.0%) 2位
平成02年 02978人 0517人(16.2%) 2位
平成01年 02989人 0392人(14.4%) 2位
昭和63年 03020人 0398人(18.8%) 2位
昭和62年 01871人 0312人(11.8%) 2位
警察庁統計「平成12年の犯罪」を参考に、在日コリアと日本人の犯罪率を比較すると刑法犯は日本人の2.8倍
凶悪犯(殺人・強盗・放火・強姦)は日本人の3.6倍
粗暴犯(含、暴行・傷害・脅迫・恐喝)は日本人の4.4倍
窃盗犯は日本人の2.1倍となる。



在日コリアの特権


1.言論封鎖の特権


「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫

『李英和を出せ』 『李英和を殺せ』――こう叫びながら、私をめがけて数十名の屈強な若者が次々に突進してくる。百人近い集団が、「救え!北朝鮮の民衆緊急行動ネットワーク」(RENK)の大阪集会を襲った。襲撃の主は、金日成父子を支持する一団だった。近畿一円を中心に、東京からも動員された朝鮮総連のメンバーたちである。
(中略)
集会予定時刻の一時間以上前から、会場周辺は異様な雰囲気に包まれていた。朝鮮総連のメンバーが、隊伍を組んで続々と集まってくる。会場設営のためにRENKのメンバーが到着するや、
朝鮮総連の一団が主催者の制止を振り切って会場に乱入する。主催者を小突き回し、備品をひっくり返すなど、乱暴狼籍の限りをはたらいた。その模様を取材していた報道陣も異常な取材妨害を受けた。小突かれたり、胸ぐらを掴まれて会場外に放り出される。あるいは撮影済みのフィルムを奪われ、テレビカメラを壊される。あまりの熾烈さに、10社以上の新聞社・テレビ局の取材陣も茫然自失、顔面蒼白だった。

結局、会場を暴力的に不法占拠され、予定していた屋内集会はできなかった。仕方なく会場前の公園に場所を移し、緊急の抗議集会をもった。日が陰り薄暗くなる7時頃、朝鮮総連の波状攻撃は激しさを増した。朝鮮総連の蛮行に抗議する2台のハンドマイクは、即座に引きちぎられ、無残に壊された。北朝鮮民主化を訴えるRENKの横断幕は破られ、奪い去られた。それどころか、ドサクサまぎれにRENKメンパーのリュックサックを開けて金品を強奪するという、前代未聞の暴挙を働いた。悲鳴と怒号が渦巻き、大阪城近くの会場周辺は修羅場と化した。(略)

ただならぬ事態に驚いた大阪府警は、200名ほどの機動隊員を緊急動員した。だが、「時すでに遅し」。到着した頃には、現場の混乱状態は、すでに手がつけられなくなっていた。"体育連盟"を中心にした朝鮮総連の突撃隊は、警察官を押し倒し、警備の壁を突き破って襲いかかる。私は服を破かれ、髪の毛を引っ張られて、1時間ばかりモミクチャにされた。仕方なく予定のデモ行進に出発しようとしたが、デモの隊列に朝鮮総連の一団が突撃を繰り返す。

主要な攻撃目標になっている私は結局、機動隊の装甲車に乗せられ、大混乱の現場を「脱出」した。事態収拾のためと、身辺保護のためだった。 …『頭を下げろ!』 装甲車に乗った指揮官は私にこう命令する。朝鮮総連が配置している乗用者の追跡を避けるためだった。床に伏せながら、言い知れぬ怒りと同時に、1ヵ月ほど前のある出来事が私の脳裏をよぎった。『東京の集会は大変だったろう。名古屋の集会はツブす。大阪の集会は絶対に開かせない。事前にツブしてしまう。』3月3日、場所は、在日韓国・朝鮮人が密集して住む大阪・生野区近くの焼肉レストランだった。薄笑いを浮かべながら、朝鮮総連の幹部(大阪府本部監査委員長)は、私にそう言い放った。4月15日の集会を中止するよう、私に強要する席上での暴言である。
(中略)
「脅迫しない」との約束だったが、私のグラスにビールを注ぎながら出てくる言葉は、まぎれもなく脅迫だった。
『4月15日には150人は動員して集会をツブす。なかには気の荒い者もいるから、どんな事態が起きるか分からないぞ。5年や6年のムショ暮らしなど平気な若者がゴロゴロいるからな』
こんな脅迫を自慢気に語る朝鮮総連幹部を目の前にして、「憤り」よりも「哀れ」を感した。この一言が、金父子政権‐朝鮮総連の本質を端的に言いあらわしている。

いまどき、民主主義と人権に"一文の値打ち"も見いださない。むしろ、それを暴力で破壊することに喜びを感ずる。それで給料を貫っているのだから、「この世に羨むものはない」と言うべきなのだろうか。こんな「地上の楽園」の住人による「自慢話」はさらに続く。
『そんなことをすれば、警察の介入を招くし、朝鮮総連の評判も地に落ちることになる。暴力で歴史の流れは止められませんよ』
こう忠告する私に監察委員長は平然と答えて言う。
『少々のことがあっても、日本の新聞は取り上げないし、警察も動かない。そういうことになってるんだ』
国会議員とのコネや、定期的なマスコミ人への酒食の提供、さらにはマスコミへの圧力……。日頃のこんな「努力」を指しての発言、自信なのだろう。(後略)


*「民族差別糾弾」と称しては正当化される在日コリアによる言論弾圧。
しばらく前までは、在日コリアの犯罪者を“実名”で報道する事も許されなかった。
韓国で日本人旅行者の強姦被害が多発している事。2003年7月2日、日本の「第十八効光洋丸」が韓国漁船の体当たりによって沈められた事(1人死亡・6人行方不明)。テロ組織・オーム真理教の麻原彰晃と幹部が在日コリアである事。(2000/6/29の東京地裁の判示で、帰化在日二世である事が指摘されている)。彼らが朝鮮総連と北朝鮮と繋がっている事。
これらの事実に対しても、日本マスコミは在日コリアの圧力を恐れ、沈黙を余儀なくされている。





2.納税免除の特権(朝鮮総連傘下の商工会は納税免除)



1967年、同和信用組合(現・朝銀)に国税庁が脱税容疑で強制捜査に入った。在日コリアは、これに対して「納税要求は、民族差別だ」と抗議を繰り返し、「五項目合意」を結ばせた。これにより、朝鮮総連傘下の商工会は、納税が免除されるようになった。

五項目合意
(1976年、社会党(当時)の故・高沢寅男衆議院議員の部屋で、総聯傘下朝鮮人商工連合会役員と国税当局の幹部の間で取り交わされた)

1.朝鮮商工人のすべての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する。
2.定期、定額の商工団体の会費は損金(必要経費)として認める。
3.学校運営の負担金に対しては前向きに解決する。
4.経済活動のための第三国旅行の費用は損金として認める。
5.裁判中の諸案件は協議して解決する。



税務署で暴れて、無理やり優遇処置を取らせた事を自慢する在日コリア
「黒い蛇」の遺言状 張龍雲 小学館文庫

当時の朝鮮総連の見解は、あくまで「いまだ日本は朝鮮に対して戦前の処理を終えていない。さらに日本には
いわれなき民族差別が厳然と残っており、在日朝鮮人に正当な人権はほとんど保障されていない。まして租税条約が締結されていない状況下、在日朝鮮人が納税義務のみを強要されることは不当である」というものであった。そこで税務署で私はこう主張したのであった。
「在日朝鮮人の納税に関しては、
朝日親善の見地からある程度の納税はこれを否定しないが、特段の配慮があってしかるべきである」と。
この私の主張に対して、ほとんどの税務署職員は返答につまった。
(中略)
時には税務交渉で机を蹴飛ばし、灰皿を投げつけたりもした。それが高じて警察ざたになり公務執行妨害などで身柄を一時拘置されることもあったが、それは問題ではなかった。むしろそのような事態が起きれば起きるほど、私は同胞社会での評価が一段と高くなるのであった。
したがって、
乱暴な税務交渉に何のためらいもなかった。私の税務交渉は喧嘩そのものであった。商工会の上部組織は、常々「在日同胞たちが勝ち取ったすべての権利は、私たちの積極的な闘いによって手に入れたものである。日本政府が在日のために進んでなした善意の政治など一度としてあった試しがない」と主張していたし、私もそう思っていたからである。



在日コリアが「差別糾弾」と称した抗議(集団脅迫)によって獲得してきた特権

[通名]

会社登記、免許証、健康保険証など公式書類に使える。
通名を変更して多重契約も可能。
民族系の金融機関に架空口座を設立可能。
凶悪犯罪を犯しても通名で報道。(最近は、実名報道が増えつつある)

[特別永住権]

政府機関などにより、永住権を剥奪できない。
また、日本政府の保護下にある事、日本への帰化が容易。(韓国籍に戻る事も可能)

[固定資産税の減免]
民団や総連の施設は、固定資産税が減免

[朝鮮学校]
一条校(正式な学校)の条件を満たさず、教師は教員免許すら持っていない。
にも関らず、
「補助金交付」
「卒業者の無審査公私高校受験資格付与」
「卒業者の大検免除」
「朝鮮大学卒業者の司法試験1次試験免除」
「競争率の低い帰国子女枠で進学可能」等の優遇を受けている。

[生活保護]
日本人は審査が厳しく、定期的に生活保護を却下された人が餓死する事件が起きている。
5月23日に北九州門司区で56歳の男性が餓死、6月5日に同じく門司区で60歳代の夫婦が死亡
出典)2006年週刊東洋経済7月1日号

一方、在日コリアは審査が甘く、生活保護率は異常に高い。
1955年末は、在日コリアの24.1%が生活保護を受給。(四人に一人)
出典)数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史 森田芳夫著 明石書店 1996

2002年度は、在日コリアの20人に一人が生活保護を受給。
参考)被保護者全国一斉調査結果報告書(厚生労働省 社会・援護局保護課)
実質、生活保護は、一部の在日コリアの特権と化している。

[その他の優遇]
自治体によって異なる。基本的に「在日コリアが厚遇されている自治体=在日コリアが最も抗議した(暴れた)自治体」である。



30〜40兆円の売り上げを誇るパチンコ業界も、脱税の温床と化している

在日コリアが、オーナーの90%を占めるパチンコ業界。
毎年、巨額の脱税が指摘されている。賭博業界は金の動きを外部から追跡する事が極めて困難である。ゆえに、業界全体の脱税額は気の遠くなるような額にのぼると思われる。


出典)AERA2006年2 月13 日号



3.人権を盾にする在日コリア


朝鮮人学校・女生徒に対する嫌がらせ(学生服切り裂き事件)の真相
宝島30 1994.12月号 「チマ・チョゴリ切り裂き事件」の疑惑 きむ・むい

ああ、いつものヤツが始まったんだな-----。 日本人・在日朝鮮人を問わず、朝日新聞が大キャンペーンを張り始めた頃、過去にも似たようなことがあったことを思い出し、ひそかにそう考えた人は多いのではないだろうか。
新聞記事のコメントで朝鮮学校の教師自身が認めているように、
国際情勢や日本国内世論が北朝鮮にとって圧倒的に不利になると、なぜかチマ・チョゴリは切られだすのだ。
(中略)
 彼は、誰もが思っていながら誰もが口には出せない、例の雰囲気についてこう言った。
「記者クラブでも、
この一連の事件について、何だか不自然だ、と感想をもらす者がいます。すると、必ずといっていいほど、″進歩的″な新聞記者から次のような言葉が返ってくる。
「じゃあ、お前は彼女たちが自分で切っているとでもいうのか!』こう言われると、日本人の朝鮮への侵略・差別の歴史への贖罪感をつかれてしまって、もう何も言えなくなるんです」
 しかし、そうすると、このチマ・チョゴリ報道に関しては、情報に何らかのバイアスがかかった時に、チェック機能が働かないということになるのではないか。それは、結果的には一種のフレームアップを生み出しているのではないか。「フレームアップとまでは言えないでしょう。しかし、現場にいた記者として、これは朝鮮総聯さんの、少女たちの被害をうまく利用した政治的キャンペーンだったとは感じています。なぜなら、そもそもこれは、最初からウラがとれない種類の事件なんです。被害があったことまでは確認できる。しかし、犯行の動機が、北朝鮮への批判的報道が過熱したことによっての差別的な感情からのものだった、なんていったい誰が証明できるのか。
ひょっとしたら、犯人本人にだってわからないかもしれない。
民団系の人にはそういう被害が一切ないことを見れば、精いっぱい好意的に見ても、これは『民族差別』ではなく、『国への反感』だったと言うべきだったのではないか。もちろん、だからいいとは言っていないですよ。論理をすりかえてしまうのはよくないと言っているんです。北朝鮮の核疑惑という政治問題が、気がつけば朝鮮学校の女生徒への迫害という人権問題にとってかわられていた。朝日を中心にメディアを実にうまく使った、大成功のキャンペーンだったんじゃないかな、と思います」(後略)

*この記事を書いた在日コリアの“きむ・むい”は、半年後、変死体で発見されている。



武装解除した新在日


戦前戦後、日本社会の治安を悪化させてきた在日コリア。
脅迫と暴力で、日本人以上の優遇処置を得てきた在日コリア。
ヤクザ世界、政治世界にも介入し、日本を好き勝手に動かしてきた在日コリア。
彼らは、「被差別者」という名のマントの下に自らの負の歴史を隠し、「人権」を盾に批判を防ぎ、「差別糾弾」と称した剣を掲げる事によって自らの横暴を正当化してきた。
しかし、近年、その武装を捨て、その「被差別者」のマントすらも脱ぎ捨てる新在日と呼ぶべき人々が増えつつある。
彼らは、同胞たちにも武装解除を呼びかけ、裸一貫となって、日本社会に溶け込もうと真剣に考えているのだ。
その代表例が、鄭大均である。


鄭大均(ちょん てぎゅん)
1948年岩手県生まれ

立教大学、UCLAで学び、啓明大学校外国学大学(韓国・大邱市)副教授を経て、現在、東京都立大学人文学部教授。
実妹は、国籍のために幹部昇任試験を受けられないのは差別だとして東京都を訴え、敗訴した鄭香均女史。
「ニューズウィーク日本版」2005年2/16号に、「妹よ、日本国籍を取れ」という一文を執筆した。

『韓国のイメージ―戦後日本人の隣国観』(1995/10・中公新書)
*この本を見て、初めて三国人の横暴を知った若い日本人も多い。
『日本(イルボン)のイメージ』(1998/10・中公新書)
『「国家」を見失った日本人―外国人参政権問題の本質』(2000/12・小学館文庫)
『在日韓国人の終焉』(2001/04・文春新書)
『なぜ抑制が働かないのか 韓国ナショナリズムの不幸』(2002/03・小学館文庫、共著)
『韓国のナショナリズム』(2003/10・岩波現代文庫)
『在日・強制連行の神話』(2004/06・文春新書)



我々は、在日コリアを一括することなく、「反日在日コリア」と「新在日コリア」を区別せねばならない。



「印刷用・PDFファイル」
印刷して、日教組の先生や、在日コリアの人に見せて上げましょう。

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